ルーファウスは、目を覚ました。
部屋は薄暗い。
だが、窓にひかれたカーテンの隙間から、明るい光が、一筋、室内に差し込んでいるのが見え、寝過したか、と、あわてる。
どんなに具合が悪くても、できるだけ、朝はきちんと起き、始業時間までには、服を整えるようにしていた。
そんなことが、星痕へのせめてもの抵抗であることに自嘲しながらも、そうでもしなければ、ベッドから起き上がれなくなるような恐怖があった。
だが、ふと違和感を感じる。
視界が、さえぎられておらず、ずいぶんと、よく見える気がする。
手をゆっくりと上げ、左目に触れると、そこにあるはずの、もう、慣れてしまった包帯の感触がなかった。
(………そうか……雨……教会……)
伍番街スラムの教会で、奇跡の泉に入り、星痕がすべて消えた。
右手に目を落とせば、手の甲から、腕にかけて広がっていた黒い染みも、もうどこにもなかった。
妙な気分だった。これで、死から免れたことになるのだろう、と思う。だが、不思議なことに、それほど、嬉しいとも思っていない自分に気づく。
数日前までは、もう、完全に死を覚悟していた。
星痕に蝕まれた身体は、もうボロボロの状態で、激痛は、頻繁に襲ってきたし、もう、薬を飲んでも、気休め程度にしかならなかった。
むしろ、レノがもちかえったジェノバを隠し持ち、思念体と渡り合った時が、精神の高揚からか、一番、具合がよかったかもしれなかった。
ジェノバで、世界を癒すことができる、と確信を持っていたわけでは、もちろんなかった。
だが、刻々と残り時間が減っていく中で、自分にできることをしたまでだった。
奇跡の雨を見た時も、その雨で己の星痕が消えた時も、驚きはしたものの、喜び、という感情からは程遠かったような気がする。
もちろん、街のあちこちから、「星痕が消えた!」という歓喜の叫びが聞こえてきてはいた。
これで、世界を癒せた、と思った。
だが、そのとき、自分の心にあったものは、使命の達成感にも似たもので……そして、なぜか、その”癒した世界”の中に、自分は入っていなかったような気がするのだ。
星痕症候群に罹ってから、ずっと思ってきたことがあった。
あの竪穴で、水に何時間も浸かり、体温はどんどん低下していく中で、死を覚悟した。
そのとき、(ルーファウス)と呼びかけてきた声があった。
その声を聞いたとき、自分の心に鮮明に浮かんだ姿があった。
黒と銀の、まるで一陣の風のような、美しい姿。
セフィロス。
そう、その声は、忘れもしない、セフィロスのものだった。
一瞬、自分がどこにいるのか、そして、どのような状況にいるのかも忘れた。
ただ、脳裏に浮かんだ、懐かしい姿に見入り、そして、まるで心に直接、響いてくるような、深く、冷たい声に耳を傾けた。
(ルーファウス)
もう、記憶の中でしか聞くことができなかった、その懐かしい声が、まるで、あの頃のように自分の名を呼んでいた。
(「セフィ……ロス……?」)
心の中でその声に向かって問いかける。
だが返事はない。
思わず、声に出して、もう一度、問いかけようとし、そこで、ハッと我に返った。
身体を冷やす水の冷たさと、木切れにつかまった手の痺れが、現実を思い起こさせる。
そして……黒い水に襲われた。
クリフリゾートでキルミスターの言葉を聞いた時、愕然とした。
死を思った者が、星痕に罹る、と。
あの時、死を覚悟したのは、事実だった。
だが、それだけではなかったことを、ルーファウスはよく知っていた。
あの時。
あの、懐かしく、そして、忘れもしない声を聞いた瞬間、ルーファウスの心に沸き起こったのは、まぎれもなく大きな喜びだった。
もう、記憶の中にしかなかったその声が、自分の名を呼んでいる、そのことに、ルーファウスの心は歓喜に震えていたのだ。
我に返って、愕然とした。
なぜなら、それは、あってはならないことだったから。
ニブルヘイムの事件の後、セフィロスへの想いは、意思の力でねじ伏せ、記憶の底に封じ込めた。
そうしなければ、前に進めなかったからだ。
そうして封じ込めた想いは、やがて、単なる過去の記憶となっていったはずだった。
そして、あの、最後の崩壊の日々の中で、セフィロスは明らかな「敵」として、ルーファウスの前に現れた。
セフィロスは、排除すべき敵、だった。
いや、そうであるべきだった。
だが………。
今、自分の心を満たしていたものは、なんだ?
だが、偽ろうとしても、もう、無理だった。
我に返っても、まだ、その心は、胸の奥が痛くなるほどせつない過去の記憶に、震えていた。
かつて、何度も何度も、耳元で囁いた、その懐かしく、慕わしい声をもう一度聞きたいと、無意識に耳を澄ましている自分がいた。
それほどに、自分はセフィロスに会いたかったのか、ということに、驚く。
初めて、人を愛し、人から愛されることを知った、あの日々は、それほどまでに、自分の心の奥底に、深く根を下ろしたままだったのだ。
もちろん、キルミスターの言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。まったく因果関係などないかもしれないのだから。
だが、セフィロスの声に全てを忘れ、聞き入ったのは事実だ。
その結果が、星痕症候群だったというならば、すべては自分の弱さが招いたことだった。
もちろん、だからといって、簡単に死ぬつもりもなかった。
だが、心の奥では、そう遠くない先に待つ、死、を受け入れていたのも、また事実だった。
なぜなら、自分は、星痕に負けたのだから。
だが、こうして、自分は、この世界に繋ぎとめられた。繋ぎとめられた、ということは、これからも生きていくということだ。
そこで、ふと、気付く。
自分は、途方に暮れているのだ、ということに。
自分がいなくなった後の世界のことを考え、そのためにすべての準備を進めてきた。
思い描いてきた未来図の中に、自分の存在はなかった。そのことに、途方に暮れている。
ルーファウスは、苦く笑った。
どうしていいかわらかない。
突然、生きることを許され、どうしていいかわからない自分がいた。
どれくらい、ぼんやりしていたのだろう。
そっと、ドアが開けられる音に我に返った。
持ち上げていた手を下ろし、わずかに開けられたドアに目を向ける。
顔をのぞかせたのは、ツォンだった。
ツォンは、ルーファウスが目を覚ましていることに気づき、静かに室内に入ってきた。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」
「いや、少し前に、目が覚めた。今、何時だ?」
「午前十一時です」
「もう、そんな時間か」
ルーファウスは、ゆっくりと、ベッドに身体を起こした。
「起きられますか?」
「ああ……大丈夫だ」
「それは、よかった。ご気分は?」
「悪くない」
ツォンが、わずかに唇をほころばせた。
ツォンは、めったに表情を変えない。
だが、それは、表面だけのことで、その目の色や目元のしわ、口元のわずかな動きなどに、隠しきれない心情が雄弁に現れることに気づいて久しい。
自分を見つめるツォンの目は、優しく細められ、その瞳には、明らかな喜びの色があることに気づき、ルーファウスは、面映ゆさに、思わず、わずかに視線をそらせた。
だが、その時。
ふと、すとん、と心の中に落ちたものがあった。
(そうか、この男がいる)
それは、あまりにも単純で、あまりにも、当たり前のことだった。
だが、この、自分が繋ぎとめられた世界には、ツォンがいる、そう思うことは、悪くないものだった。
「どうなさいました?」
黙ってしまったルーファウスに、ツォンがいぶかしげな目を向ける。
「いや」
ルーファウスは、首を振った。
「カーテンを開けてくれ」
「はい」
「窓も」
カーテンが開かれ、太陽の光が、さっと部屋に差し込んだ。
窓が押しあけられると、さわやかな空気が流れ込んでくる。
風が、そっと、カーテンを揺らす。それは、山の新緑の香りを含んだ、優しい風だった。
「きょうは、いい天気ですね」
「そうだな……外に、出よう」
ツォンが、微笑んだ。
「はい」
滝の音が、遠くから響いてくる。
ここは、クリフリゾートの中でも、最も奥まった場所にあり、裏手は、急峻な崖になっており、谷を挟んで、反対側にある、さらに高い崖から落ちる滝を正面から見ることができた。
もっとも、今、ルーファウスがいるあたりは、ロッジの敷地の表側で、裏手の滝は見えない。だが、その音は、はっきりと聞えてきていた。
ルーファウスは車椅子に座ったまま、いくぶん、ひんやりとした空気を吸い込んだ。
ロッジから少し離れたこの辺りは、もう建物はなく、少し先には、木々の生い茂る森が広がっている。
吸い込んだ空気は、湿った葉や土の香りがした。
こんな風に、外に出るのは、久しぶりのことだった。
ここ半年ほどは、微熱が続き、外の風にあたると決まって、高熱を出す羽目になった
高熱を出せば、発作を起こす危険も高まるとあって、ひたすら、部屋にこもりきりの生活を送っていたのだった。
「ツォン」
「はい」
「手を貸せ。歩く」
「はい」
ツォンが、ルーファウスの身体を支え、立たせた。
差し出された腕につかまり、ゆっくりと、ルーファウスは足を踏み出した。
もともと、足の機能に問題があったわけではなかった。
だが、歩かないことや、食事も満足にとれないことなどで、足の筋肉が衰え、歩行が困難になっていたため、車いすを使っていたのだ。
しばらくの間、自分で立っていることも、ほんの数歩ならば、歩くことも、可能だった。
一歩一歩、足を踏み出し、慎重に歩いていく。
だが、足がうまく動かせず、ふらり、とバランスを崩し、倒れかかった身体をツォンに抱きとめられた。
「そう簡単には行かないな」
ルーファウスは、苦笑した。
「焦ることはありません。すぐに戻ります」
ツォンの言葉に、もう一度、歩いてみようと、身体を起こす。
だが、不意にツォンに引き寄せられ、強く抱きしめられた。
「……どうした」
「……やっと、あなたを取り戻した気がします」
ツォンが呟くように言った。
「カームのあの一軒家で別れてから、やっと」
「……そうだな」
「よかった……本当に」
強く抱きしめられ、その腕の強さに、ツォンの心情が流れ込んでくるような気がした。
「私も、おまえを取り戻した」
ルーファウスは、腕をそっと、ツォンの背に回した。
ツォンの規則正しい心臓の鼓動が、身体に伝わってくる。
生きている。
唐突に、ルーファウスは、思った。
現実味のなかった、その言葉が、ツォンの腕の中で、ようやく現実のものとして、感じられたような気がした。
「いいものだな」
ルーファウスは、呟いた。
「生きている、というのは、いいものだ」
「……はい」
やがて、名残惜しげに、ツォンの腕が離れた。
「そろそろ、食事の時間ですね。戻りましょうか」
「ああ……あまり食欲はないが」
「それでも、召し上がりませんと、体重も体力も戻りません」
「そうだな……歩いて戻ろう」
「はい」
ツォンの腕に助けられ、ゆっくりと、森の小道を歩く。
少し歩くだけで、息切れがする。だが、気分が高揚してきたのを感じる。昔、自分の力を試す時、こんな高揚感をいつも味わった。それが、再び、戻ってきたのを感じた。
「ツォン」
「はい」
「方針を変えるぞ」
「方針、ですか?」
「ああ……忙しくなるぞ」
ルーファウスは、小さく笑った。
これまで描いてきた未来図に、自分の姿はなかった。
それならば、描きかえればよい。
己がいる世界を、描き直せばいいのだ。
「はい」
答えたツォンもまた、嬉しげに微笑んでいた。
END
2011年11月10日 up