「社長……」
閉じたドアを軽くノックする。
もう寝てしまっているだろうか、と思いながらそっと呼びかれば、
「入れ」
という静かな声が聞こえた。
ツォンは、小さく吐息をつくと、ドアを開けた。
ルーファウスは、バスローブを羽織ったまま、ソファに座り、タオルで髪を無造作に拭いているところだった。
「あの、社長」
「なんだ」
「お話が……」
ルーファウスが、手を止め、ツォンを見上げた。
その顔はいつもと同じで、特に、怒った様子も見られない。
「聞こう」
もしかして……怒ってはいないのか?とも思うものの、やはり、いつもと少し違う?とも思う。
こんなときでも仕事口調なのはいつもだが、それでも、いつもより少しだけ、口調が硬いような気もする。
ツォンは、少しだけ、逡巡し、だが、ルーファウスの気の短さを思い出して、心を決めた。
「あの……先ほどの記事のことですが……。その、まったくのでたらめでして……あーいえ、全部が全部、というわけではないのですが……その」
「ツォン」
「はい」
「要点を言え」
「……申し訳ありません」
じろりと睨まれ、首をすくめる。
そして、心を決めた。
「つまり、ですね。あの記事で、私が、ブロンドで青い瞳の女性ばかりと付き合ったようなことが書いてありましたが、そんなことはありません。ですから、その、社長がブロンドだからとか、そのようなことで、私が……」
不意に、ルーファウスが、くすっと笑い、ツォンは言葉を切った。
「わかっている」
「……は?」
「おまえが、金髪碧眼ならだれでもいい、などと思う男でないことくらい、わかっている。さっきのは……」
ルーファウスが、ふと、苦笑するのを見て、ツォンは目を瞬いた。
「大した意味はない。気にするな」
ツォンは、思わず、ほっと息をついた。
だが、そっと窺ったルーファウスの蒼い瞳には、まだ硬い色があるような気がする。
では、やはり、ルーファウスが怒っているのは、もう一つの方か、と思う。
「あ、では、その……」
一瞬、躊躇し、口を閉ざす。
ツォンは、もともと、情事は秘めるもの、という意識があり、生々しい言葉をあっさりと口にするルーファウスとは違い、セックスに関することを口にするのは非常に苦手だった。
なんと言ったものかと、言葉を選び、口ごもったが、ルーファウスの鋭い視線を浴びて、あわてて、言葉を続けた。
「つまり……私はあくまでも、普通、といいますか、いえ、たぶん、普通ではないかと思うのですが、その……相手をその……縛る趣味などはありませんし……」
言いにくい言葉をなんとか口にしながらも、気まずい思いで、ルーファウスから、少し目をそらしてしまう。
「……その……道具、といいますか、そういうものも使う趣味はありませんので………ご心配には……その、つまり……社長にそのようなことをしようなどとは、まったく思っておりませんので……」
視界のすみで、ルーファウスが、つと、俯くのが見え、ツォンはあわてて、口を閉ざした。
ルーファウスの肩が小刻みに震えているのを見てとり、何か、ルーファウスを傷つけるようなことを言ってしまったのだろうか、と焦る。
「社長……?あ、あの……申し訳……」
あわてて謝ろうとし、だが、顔をあげたルーファウスの目には涙などかけらもなく、それどころか、とうとう、こらえきれぬように、くっくっと笑い声をたて始めたのに気づき、ツォンは、目を瞬いた。
「それもわかっている」
「は……?」
「今まで、何回、寝たと思っているんだ」
あっさりと口にされた言葉に、頬が火照る。
「おまえにそういう趣味があるなら、とっくに気がついてる。まあ、おまえのことだ、自制していた、と言われればそれまでだがな」
ルーファウスは、おもしろそうにツォンを見上げた。
「いえ、まさか……!そんなことは……!」
あわてて言ったツォンを見て、ルーファウスは、楽しそうに笑った。
ツォンは、戸惑ってルーファウスを見つめた。
やはり、これは、怒っていないのだろうか、と思う。
だが、では、なぜ、さっさと寝室に……?という疑問が残るが、ただ単に、本当に眠かっただけなのだろうか?
「あの……社長」
「なんだ」
「私はてっきり、社長が、私のことで、なにかご不快を感じられたのかと思ったのですが……その……先ほどの記事にいろいろ書かれておりましたので……」
ルーファウスは、笑みを浮かべたまま、首を振った。
「怒ってはいない」
あっさりと言われた言葉に、ツォンは、ほっと息をついた。
だが、同時に、勘違いをしていたことに、羞恥が沸き起こる。自意識過剰もいいところだった。
「それは……申し訳ありませんでした。怒っていらっしゃるのかと勘違いを……失礼しました」
あわてて言い、頭を下げた。
「では、ゆっくりお休みください」
もう一度、頭を下げ、寝室から出ようと、ドアに手をかけた。
だが、「ツォン」と声をかけられ、振り向く。
ルーファウスは、頬に小さな笑みを浮かべていた。
「確かに、おまえに怒ったのではないが……」
ルーファウスは、ふと、口を閉ざした。
なにかに迷っているようなその様子に、ツォンは驚いた。
これは珍しいことだった。
ルーファウスは弁が立つ。
それは、仕事でも日常生活でも同じで、こんな風に、言い淀むことなどほとんどない。というより、少なくとも、ツォンは見たことがなかった。いつでも、思ったことをはっきりと、逡巡も躊躇も見せずに、立て板に水、といった様子で、話すのがルーファウスだ。
そして、ルーファウスが、つと、ツォンから目をそらした。
そのことに、また、驚く。
ルーファウスは、話すときに、絶対に、相手から目をそらさないのが常だった。
いったい、何が起こっているんだ、と、固唾をのんで、珍しい上司の姿を見つめるツォンの前で、ようやく、ルーファウスが、呟くように言った。
「嫉妬した」
わずかに俯いたルーファウスの口から出た言葉に、ツォンは思わず、目を瞬いた。
シット……?
一瞬、それが嫉妬、だということに気付かなかった。それくらい、嫉妬、という言葉は、ルーファウスに似つかわしくなかった。
このルーファウスが嫉妬……?
なぜ……?
誰にだ……?
ツォンは、呆然とルーファウスを見つめた。
「自分にあきれる」
ルーファウスは、頬に苦い笑みを浮かべて言った。
そして、ツォンを見上げた。
「そういうことだ。おまえは何も悪くない。……八つ当たりをして悪かった」
ルーファウスは、小さな笑みを浮かべると、ソファから立ち上がった。
「おやすみ」
そう言って、軽く手を振る。
それは、いつもの退出の合図だったが、ツォンは、まだ呆然と、立ち尽くしていた。
八つ当たりをして悪かった……???
これは、本当に、あのルーファウスだろうか……??
いつもクールで、いつも上から目線で、いつも………いや、そんなことを考えている場合ではなかった。
嫉妬……。
つまり、この状況で、ルーファウスが嫉妬するとしたら、ツォンが過去に付き合った女性に、ということしか考えられない。
確かに、あの記事では、ツォンが、さも大勢の女性と、手当たり次第に付き合ったと、受け取られかねなかった。
あるいは、今でも、続いている、と誤解されているとか……?
いや、ルーファウスが星痕を患ってからの日々は、ツォンは、ルーファウスと共に、ヒーリンに引きこもっていた。そんな誤解は、さすがにされていないだろう。
だが、自分が、節操無く誰彼かまわず、付き合える男だと思われていたら、それは困る。
そんなことは、あり得ない。
自分は、ルーファウス一筋だ。
ツォンは、あわてて、バスルームに行きかけているルーファウスを追いかけた。
「社長」
「……なんだ」
思わず、ツォンが掴んでしまった腕を見下ろし、ルーファウスが眉を寄せた。
ツォンは、あわてて、その腕を離した。
「あの……誤解をされてませんか」
「誤解?」
「はい。あの記事は、根も葉もない……といいますか、誇張されておりまして……その、確かに、女性と付き合ったことはありますが、あそこに書かれているほど、大勢と付き合ったわけではありませんし……」
ふと、ルーファウスの頬に、また、苦い笑みが浮かび、ツォンは、焦った。
「……もちろん、複数と同時に付き合うなどということもしたことはありませんし……その……もちろん、今は、誰とも……」
だが、弁解すればするほど、ルーファウスの頬の苦い笑みは深くなるばかりで、ツォンは、どうしていいかわからず、口を閉ざした。
「ツォン。もういい」
やがて、ルーファウスが、吐息とともに言った。
「社長……あの……」
「あんなくだらん記事はどうでもいい」
「……は?」
「あんな記事、私が信じるとでも思うのか。おまえが、そんなに器用な男でないことくらい、わかっている。今は、私だけなことも、わかっている」
ルーファウスは、もう一度、吐息をつくと、腕を組み、ツォンをまっすぐに見上げた。
「おまえが、これまで、誰とも付き合わなかったわけがないこともわかっている。だが、おまえが、過去に、私以外の誰かに愛している、と言ったのかと思ったら……頭に血がのぼったんだ」
ルーファウスは、苦笑した。
「ばかげた嫉妬だ。自分にこんなくだらん感情があるかと思うと、情けない」
ルーファウスは首を振ると、ツォンの肩に、軽く手を触れた。
「だから心配するな。なにも誤解などしていない」
そして、柔らかい笑みを浮かべると、おやすみ、と呟いた。
肩から、ルーファウスの手が、ふっと離れた。
ツォンは、思わず、その手を掴んでいた。
そして、そのまま、ルーファウスの身体を引き寄せ、強く抱きしめた。
だが、抱きしめた身体は、おとなしく腕の中におさまりはしなかった。
ルーファウスの腕が、ツォンの肩を押しやるように動き、キスをしようと近づけた顔も、手でぐいと押しやられた。
「はなせ。そんな気分じゃない」
静かだが、冷たい声が言う。
「なぜです?」
ツォンは、あまり力を入れないようにしながらも、ルーファウスの腕をつかんだまま、離さなかった。
「私は今、猛烈に自分に腹が立っているんだ。する気になどならん」
ルーファウスは、ツォンの腕の中から抜け出そうと、もがいた。
だが、ツォンの力にかなうわけもない。
「はなせ」
「嫌です」
ツォンの言葉に、一瞬、ルーファウスはあっけにとられたような目を向けた。
だが、次の瞬間、蒼い瞳が、鋭い光を浮かべて、ツォンを睨みつけた。
「ツォン。同じことを何度も言わせるな」
ツォンは、首を振った。
「すいません……ですが、私がどんなに今、嬉しいか、わかりますか?」
「な……にを……」
ルーファウスが、虚を突かれたように、目を見開いた。
「あなたがそんな風に思ってくださったことが、嬉しくてたまらないんです」
「……なにをばかなことを言っている……っ」
ルーファウスは、また、もがいた。
「ああ……あまり、暴れないでください」
「おまえが、離さないからだろう!」
「……あなたを傷つけそうで怖い」
「だったら、離せ!」
ツォンは、小さく吐息をつくと、そのまま、ルーファウスの身体を抱き上げた。
「なにをする!」
「危ないですから暴れないでください」
「下ろせ!」
ツォンは、ルーファウスの身体を、できうる限り、そっとベッドの上に下ろした。
「こんなところに下ろすな!ばかもの!」
叫ぶルーファウスの上に覆いかぶさるようにして、暴れる身体を押さえこみ、両手をあげさせ、掴まないようにしながら、シーツに押しつけるようにして上から押さえた。
ルーファウスは、なおもバタバタと暴れようとしたが、そうして押さえこまれてしまえば、もうどうにもならなかった。
柔らかいベッドの上で、押さえつけられているだけなため、痛みはまったくない。
だが、完全に、動きを封じられたことに気づき、ルーファウスは、悔しげに唇を噛んだ。
「……くそっ……」
上品とは言いがたい悪態が、その形のいい唇から洩れ、ツォンは、苦笑した。
ルーファウスは、ツォンを睨みつけた。
「いいだろう。そんなに抱きたければ、抱け」
ツォンは、ため息をついて、首を振った。
「そんなに怒らないでください。私の話を聞いてくださいませんか」
ルーファウスは、鼻を鳴らした。
「聞いてくださいも何もないだろう。私は動けないんだ。勝手にしゃべるなり、抱くなりしろ」
「……そんなに、噛みつかないでください。お願いします」
ツォンは、何度目かのため息をついて言った。
その言い方が、あまりにも情けないものだったせいか、ルーファウスは、バタバタと暴れるのはやめた。
まだ、その身体は抵抗を示して、硬くこわばっていたが、とりあえず、ツォンは、ほっとして、微笑んだ。
だが、ルーファウスにじろりと睨まれて、苦笑した。
「……あなたが、嫉妬してくださるなど、思ってもみませんでした。そんな風に、あなたが思ってくださっているとは……」
ルーファウスは、フンと横を向いた。
「くだらん感情だ」
「そう……ですね。確かにそうなのかもしれません。ですが…………私など、ずっと、あなたの相手に嫉妬していましたよ」
ルーファウスが驚いたように、ツォンを見上げた。
「気がつきませんでしたか?」
ツォンは、苦く笑った。
「もちろん、嫉妬などできる立場ではありませんでしたから、必死で押し殺していました。ですが……セフィロスに、私は、酷く嫉妬しましたよ」
ツォンは、過去を思い出し、目を細めた。
「コスタにセフィロスが来たことがありましたね。あの時など、上であなたがセフィロスに抱かれているかと思うと、嫉妬で気が狂いそうでした。打ち明けますと、私のあなたへの感情が特別なものだと確信したのは、あの時です。それまでは、なぜ、あなたが気にかかって仕方がないのか、なぜ、あなたを守りたくて仕方がないのか、わかっていなかった。本当は、出会ったときから、すでに、私はあなたに心を奪われていたんです。ですが、そんなことに気がついてしまえば、大変なことになりますから、自分で感情に蓋をしていたんだと思いますが」
ツォンは、苦笑して、首を振った。
「それからが大変でした。私はあなたの部下です。そんな感情を表に出すわけにはいかないですし、だいたい、あなたを恋愛の対象として見ることなど許されることではない。なんとか、その気持ちを消そうと思いました。一時の気の迷いかもしれないと思い、女性と付き合ってもみました。ですが、なにをしても、あなたへの想いを消すことはできませんでした。それで……あきらめました」
ツォンは、笑った。
「あなたへの想いを消すことは、あきらめた。とすれば、残された道は、この想いを心の奥深くに閉まったまま、墓場まで持っていくことだけです。正直つらかった。でも、あなたのそばにいられるだけで幸せでしたから、それでいいと思った。でも、そうは思っていても、心は勝手なもので嫉妬はするんです」
ツォンは、小さく吐息をついた。
「セフィロスが消息を絶ってからも、あなたの心はずっとセフィロスにあった。私は一生、セフィロスに嫉妬をするんだろう、と思いましたよ。もちろん、嫉妬したのは、彼に対してだけではない。あなたを抱いた他の男にも、あなたが抱いた女性にすら嫉妬しました。どうです?これが私ですよ」
ルーファウスは、何も言わず、身じろぎもせず、ツォンの話を聞いていた。
ふと、組み敷いた身体が、もう、なんの抵抗も見せておらず、力が抜けていることに気付き、ツォンは、ルーファウスの両手から手を離した。
「私の過去の女性に嫉妬したと言われましたね。でも、嫉妬などする必要はないんです。私がこれまでに愛したのは、あなただけだ。そして、これからも、あなただけです」
ツォンは、ルーファウスの頬に、そっと指を伸ばした。
抵抗がないことに、安心して、両手で、頬を包み込んだ。
「ですが、あなたのあんな姿を見せていただけて、私は舞い上がってます……まだ、怒っていらっしゃいますか?」
ツォンの心配そうな声に、ようやく、ルーファウスは苦笑を浮かべた。
「……いや」
「よかった」
「だが、ひとつだけ、訂正だ」
「はい?」
「おまえも、もう嫉妬などする必要はないぞ。セフィロスは……もう、遠い過去の思い出だ。私の心にいるのは、おまえだけだ」
ツォンは、何も言えぬまま、ルーファウスを見つめた。
そして、かすかな笑みを浮かべた唇に、そっとキスを落とした。
「……あなたが欲しい。だめですか?」
切羽詰まった声で囁けば、ルーファウスの腕が、ツォンの背に回った。
「私も、おまえが欲しい」
ツォンは微笑み、もう一度、唇を重ねた。
□■□■□■□■□
腕の中で、穏やかな寝息をたてるルーファウスを見つめて、ツォンは、微笑んだ。
シーツにちらばる金色の髪を、指ですくいあげる。
その時、ふと、思い出した。
昔も、こんな風に、金色の髪に触れたことがある……。
そこで、がばり、と身体を起こした。
「ん……」
その動きに、ルーファウスがかすかな声をたてる。
あわてて、寝顔をのぞきこむ。
だが、ルーファウスは、また、眠りに引きこまれたらしく、しばらくすると、また、穏やかな寝息がその唇から洩れはじめ、ツォンは、ほっと息をついた。
(……思い出した……)
ツォンは、自分が思い出したものに、愕然とした。
自分が過去に付き合った女性たちが、次々と脳裏に浮かぶ。
(………嘘だろう……)
ツォンは、思わず、手で口を覆っていた。
その女性たちのほとんどがブロンドで、青い瞳をしていたことを思い出したのである。
もちろん、黒髪や赤毛の女性もいたし、黒い瞳や、緑の瞳の女性もいた。一番、長く付き合った女性は、栗色の髪をしていた。
だが、思い出す顔のほとんどが、ブロンドに青い瞳だった。
とくに、ルーファウスを忘れようとして、必死になっていた時期に付き合った女性は……。
ツォンは、思わず、頭を抱えた。
金髪碧眼が好き、などという嗜好はない。
それは、今まで、忘れていたことからも明らかだ。
ということは、そこから導き出される答えは一つだ。
つまり、自分は、ルーファウスの面影に影響されて、知らぬ間に、金髪で碧眼の女性を選んでいた、ということだった。
自分の心の、素直さに、思わず、苦笑が漏れた。
頭ではどう考えていても、心は、ルーファウスを忘れるつもりなど、毛頭なかったのだ。
ツォンは、ぐっすりと眠る大切な人を見つめた。
そのなめらかな額に、そっとキスを落とす。
そして、静かにシーツの上に身体を横たえ、寝息をたてる身体を抱き寄せると、目を閉じた。