「ツォン」
いつものようにその名を呼び、いつもその姿があった場所に目をやり――――。
そこで、ルーファウスは、ハッと口を閉ざした。
自分が、とんでもない失態をおかしたことに気づく。
「………レノ」
言い直せば、赤毛のタークスがいつもの軽い調子で「はいはい?」と振り向く。
先ほどのルーファウスの声が、聞こえていないわけがなかった。
それは、少し前を歩くその足が、一瞬、歩みを止めたことからも、はっきりしていた。
だが、振り向いたレノの顔は、まったくいつもと変わらぬ、飄々としたもので、ルーファウスは、この、誤解されやすいが、実はさりげない優しさを持つ部下の心遣いにひそかに感謝した。
もっとも、そんなことを面に出すルーファウスではない。
何事もなかったような顔で、命令を下す。
「ジュノンへ行く。ヘリを回せ」
「了解だぞ、と」
マイクに向かって、指示を出すレノを見ながら、ルーファウスは小さく息をついた。
古代種の神殿に潜入したツォンからの連絡が途絶えたのは、もう、二週間以上も前のことだ。
もちろん、その命令を下したのは、ルーファウスだ。
社長室のデスクの前に立ったツォンに向かって、古代種の神殿に行け、と命じた。
黒マテリアをとってこい、絶対にセフィロスに奪われてはならん、と。
それが、非常に困難な任務であることは承知していた。
セフィロスが、あの黒マテリアを狙っているのだ。遭遇すれば、当然、命はない。
それでも、黒マテリアをセフィロスが手にすれば、メテオが発動される。
それを阻止するためには、なんとしても、セフィロスより先に、黒マテリアを手に入れる必要があった。
それが可能なのは、タークスしかいなかった。
そして、タークスの中でも、その任務を成功させられる可能性があるのは、ツォンしかいなかった。
命令を聞いたツォンは、いつものように、表情を変えることなく、少し頭を下げ、「了解しました」と静かに言っただけだった。
そして、黒い瞳がルーファウスに向けられる。
その瞳を見た瞬間、ツォンの心が五年前から、まったく変わらないままであることを、ルーファウスは悟っていた。
ツォンが、自分に、上司と部下という関係以上の気持ちを抱いていたことは知っていた。
五年前のコレル魔晄炉。
神羅を裏切り、タークスに捕らわれたルーファウスに向かって、ツォンは「死なないでください」と涙を流した。
その涙が、ツォンの自分への個人的な想いからあふれ出たことを、あの時、ルーファウスは知った。
だが、それを知ったからといって、なにかが変わるわけではなかった。
その後すぐに、ルーファウスは、表向きは長期出張ということにされ、神羅本社ビルからさほど離れていない場所にある、タークスの地下監禁施設に幽閉されたからだ。
ルーファウスの監禁を全て請け負ったのはタークスで、主任に就任したツォンが、幽閉中のルーファウスの世話を全て行った。
といっても、もちろん、日常の細々とした世話をしたわけではない。
食事は、神羅本宅で作られたものが一日一回、まとめてタークスに届けられた。
それを給仕するのは、神羅本宅で代々、働いてきた使用人だったし、掃除も洗濯も、全て、本宅の使用人が行う、ということだった。
当然、その使用人は、口の堅い者が選ばれていただろうし、おそらく、決まった者だけが来ていたのだろう、と思う。
もっとも、ルーファウスとその使用人が、直接、顔を合わせることは、一度もなかったため、実際のところはわからない。
ルーファウスの部屋は、ドアで、プライベート部分と、執務部分とにわけられていた。
そこをうまく使い、ルーファウスが執務部分にいる間に、時折、ドアに鍵がかけられ、その間に、プライベート部分に使用人が入るという形をとっていた。
そこまで警戒しなくても、別に逃げ出すつもりも、なにか事を起こすつもりもない、と苦く笑うしかなかった。
ネットワークを使い、外部にこちらから発信することも、いろいろ試してみたものの、できなかった。
おそらく、なんらかのブロックが、何重にもかけられていたのだろう。
ルーファウスの、外部との接触は、徹底的に遮断されていたのだった。
そんな中で、ルーファウスが唯一、接触できたのが、ツォンだった。
ツォンは、ミッドガルにいれば、毎朝、必ずルーファウスのもとに顔を出した。
いつもと変わらぬ表情を消した顔で「失礼します」と室内に足を踏み入れる。
そして、「おはようございます。ご気分はいかがですか?」と聞く。
それは、毎朝の儀式のようなものだった。
だが、と思う。
おそらく、あれも、ツォンの独断だったのではないだろうか。
その証拠に、ツォンがいないときは、一日一回の定例訪問はあったが、タークスメンバーが中まで入ってくることはなかった。
外のインターフォンから、「なにか、ご用はありませんか?」と聞かれるだけだ。
だから、幽閉期間中にルーファウスが顔を合わせたのは、ツォンだけだった。
最初は挨拶だけだったものの、次第に、雑談を交わすようになるのに、そう時間はかからなかった。
雑談とは言っても、ツォンが、なにかの話題を提供するわけではない。
ルーファウスが、ニュースなどから得た情報を質問し、それにツォンが答える、そんな程度の雑談だった。
だが、それでも、誰かと会話をする、というのは、気分転換になるものだった。
人というのは、やはり、誰かと顔を合わせ、会話をすることで、アイデンティティを保っているのかもしれない、と思うようになったのはこの頃だ。
ツォンが、何かの任務で留守にすると、何日も、下手をすると一週間以上、誰とも顔を合わせない日々が続く。
そんな時は、どんどん、自分の存在が希薄になってくる、そんな気さえすることに気づいて、ルーファウスは愕然とした。
ツォンが、そのことをわかって、会いにきていたのかどうかは、わからない。
だが、結果的に、あの部屋の中でも、自分がツォンに守られていることを、ルーファウスは感じていた。
そして、ルーファウスの部屋に入ってきたツォンの腕に、チェス盤が抱えられていたのは、幽閉が始まってから、半年ほど過ぎたある日のことだった。
「なんだそれは」
と言ったルーファウスに、ツォンは、例の、笑ったか笑わないかわからない程度の笑みを浮かべて「勝負、しませんか」と言ったのだった。
もちろん、ルーファウスもチェスは知っていた。
だが、やったことはなかった。
それから、毎朝の、チェスの勝負が始まった。
といっても、ツォンが、ルーファウスの部屋にいるのは三十分程度だけで、時間がくれば、勝負が途中でも切り上げて、出ていく。
途中の勝負は、そのまま置いておき、次の朝に、その続きから始める、そんなやり方だった。
初めは、ツォンの圧倒的な勝ちだった。
だが、次第にルールにも慣れてくれば、ルーファウスの本領が発揮されていった。
ルーファウスは、元から、勝負の先を読み、先手を打っていくことは、得意中の得意である。
勝つことも増えてきた。
だが、ツォンもおそらく、かなり強い部類だったのだろう。
勝負がなかなかつかず、何日もゲームが続くこともあった。
そんな穏やかな朝を過ごしながらも、ルーファウスの部屋の外では、タークスにとっては、波乱に満ちた日々が続いていた。
ルーファウスもそれを知っていたが、お互いに、そのことについては、触れなかった。
だが、次第に、事態はタークスにとって悪い方へと進んでいた。
タークスがヴェルド側につき、そのことを知った、プレジデントがタークス抹殺を画策し始めていたのだ。
そんなある日。
その日の朝も、チェスの勝負は続いていた。
ルーファウスが、白のビショップを中央へ動かす。
ツォンが、黒のナイトで、その通り道をふさごうとした。
「ツォン」
ルーファウスは、チェス盤から目を離さないまま、低めた声で言った。
「はい」
「コレルプリズンだ」
ルーファウスの言葉に、一瞬、ツォンの手が止まる。
「アバランチが侵入しようとしているぞ」
わずかに眉を寄せたツォンに、ルーファウスは小さく笑った。
「わざわざ難所に出向く。思い当たる理由は一つしかあるまい」
ツォンは、黒のナイトを持ったまま、しばらく黙っていた。
そして、「……ありがとうございます」と呟いたのだった。
結果、タークスは、ジルコニアエイドのサポートマテリアを手に入れた。
そのことで、状況が、タークスに有利になったことは確かだった。
その後も、ルーファウスは、タークスの側に立って動いた。
もちろん、表立った動きはできない。
自分の部屋が常に、監視カメラと盗聴器で監視されているのは、百も承知だった。
もちろん、そのデータをとっているのは、タークスだ。
だが、プレジデント側に漏れていない、とは限らない。
慎重に行動する必要があった。
ルーファウスは、時折、チェスの合間に、ツォンに、自分の得た情報や分析を囁いた。
それが、タークス側にとって、かなりの助けになっていたことは、ツォンの反応を見ればわかった。
そんなことをした理由は、もちろん、タークスを存続させることが、自分の利益になると考えたからだ。
だが、そこに、このツォンの存在が影響しなかったとは、自分でも言い切れなかった。
それほどには、ツォンとの親密さは増していた。
もっとも、幽閉されている間に、ツォンが、ルーファウスに対して、個人的な感情をぶつけてきたことがあったわけではなかった。
この部屋に入れられた日、優しく抱きしめてきた腕が、その後、ルーファウスの身体に触れてくることは、一度もなかった。
もっとも、ルーファウスの部屋は、カメラが常にまわり、監視している。
そんなことは、あり得なかったのかもしれないが、それでも、タークスの主任であるツォンならば、その気になれば、カメラを切ることだって可能だっただろう。
だが、ツォンはそんな素振りすら見せなかったし、あくまでも、ルーファウスの部下の立場を崩さなかった。
とはいえ、ツォンのルーファウスへの気持ちが、消えうせたわけではないことは、その目を見れば、一目瞭然だった。
チェス盤をのぞき込み、次の手を考えながら、ふと、視線を感じて目をあげる。
そこには、優しい愛情にあふれた黒い瞳があり、そのたびに、気恥かしさと、なんともいえぬ、満ち足りたものを感じている自分に気づく。
だが、ツォンは、何も言わない。
時おり、ここで自分が誘いをかけたら、ツォンはどうするのだろう、と、いくぶん、皮肉な気分で思わないわけではなかった。
だが、なんとなく、想像はついた。
おそらく、「………ご冗談はおやめください」とかなんとか、引きつった顔で言うのだろう。
そして、手は出してこない。
そんな想像に、思わず苦笑する。
結局、お互いに、テーブルをはさんで向かい合って座り、その距離を縮めることはなく、月日は過ぎて行ったのだった。
やがて、ルーファウスの謹慎処分が解かれる日がきた。
幽閉されてから、四年半の月日が流れ、ルーファウスは二十一才になっていた。
そして、ルーファウスの思惑どおり、タークスを存続させることにも成功した。
ルーファウスの生活は、元通りになり、副社長としての生活が、再び始まった。
だが、すぐに、その生活も変わることになった。
プレジデントが殺されたのだ。
社長室のデスクの上に、うつ伏せに倒れていた父親。
その背に残酷に突き立てられた刀を見た瞬間の衝撃は、声も出せないほどのものだった。
それは、セフィロスの愛刀、正宗だった。
だが、冷静になって考えてみれば、プレジデントを殺したのが、セフィロスであるはずがなかった。
セフィロスの姿があちこちで目撃されている、という情報は入ってきていた。
だが、他の者たちのように、セフィロスが生きていた、とは思わなかった。
セフィロスと同じ姿形をしていたとしても、それは、自分が知っていた、そして、深く愛した、あのセフィロスとは違う、とルーファウスは確信していた。
そして、プレジデントの死を受けて、ルーファウスは、社長に就任した。
それまでは、社長になり、カンパニーを自分で思い通りに動かす、という意識しかなかった。
だが、実際に社長になってみれば、そこに、大きな溝があることを、否応なく悟らざるを得なかった。
全ての決定権を持つ、ということは、全ての責任を自分が負う、ということだった。
それは、つまり、全ての社員の命を握っている、ということだった。
そしてまた、神羅ほどの力を持つ企業のトップであるということは、世界に対しても、責任を負わなければならない、ということだった。
副社長の時も、もちろん、様々な命令を出し、カンパニーを動かしてはいた。
だが、最終決定を下すのは、常に、社長である父親だった。
(トップに立つ、というのは、こういうことか)
そのとき、ルーファウスは、ようやく理解していた。
自分が、ルーファウス神羅という個人ではなく、神羅カンパニーの社長という、公の存在になったことを悟った瞬間だった。
そうなってみれば、個人の感情などは、二の次、三の次にされるべきものに過ぎなかった。
なぜなら、命令を下すためには、常に、論理的で冷静、時には非情ですらあるほどの判断力が必要だからだ。
そこに、個人の感情など介在する余地はない。
そんなものが、入り込んだ瞬間に、人の目は曇り、判断力は鈍る。
それは、ルーファウスが子供の時から、父親であるプレジデントに叩き込まれて育った、価値観そのものだった。
そのとき、初めて、ルーファウスは悟っていた。
父親は、口でなんと言おうと、幼い頃から、ルーファウスを後継者にすることを決めていたのだ。
だからこそ、そのように育てた。
ルーファウスは、思わず、苦い笑みを浮かべた。
社長の椅子に座って、初めて、死んだ父親を理解していた。
そして、ルーファウスの社長としての生活が始まった。
それは、はじめから、嵐の中に船出するようなものだったが、それでも、なんとか舵取りをしていくのが、ルーファウスに課せられた使命だった。
相変わらず、ツォンは、常にルーファウスのかたわらにいた。
だが、社長に就任した瞬間から、ツォンが明らかに、自分から距離をとったことに、ルーファウスは気づいていた。
常に守ろうとし、気遣うところは変わらず同じだったが、個人的な想いなどは、欠片ものぞかせなくなったのだ。
四年半にわたる幽閉生活の中で生まれていた、二人の間の親密さも消え去り、そこには、あくまでも上司と部下という関係だけが残されていた。
それは、当たり前のことだったし、そうあるべきことだった。
どんなに近しい存在だろうと、ツォンは、あくまでも部下のうちの一人でなくてはならないからだ。
おそらく、ツォンはそのことがよくわかっていたのだろう。
だが、問題は、それを寂しいと思っている自分がいることだった。
ルーファウスは、ツォンの存在が、思いのほか、自分の中に入り込んでいたことに気づき、愕然とした。
だが、それは、カンパニーの社長に許されるものではない。即刻、消し去るべきものだった。
ルーファウスは、故意に、自分の中にある、ツォンの存在を、そぎ落としていこうとした。
とはいえ、人の心とは、そう簡単に変えられるものではない。
だが、あまりにもめまぐるしく推移する事態への対策を立てることに全精力を傾けなくてはならない日々が、ルーファウスに幸いした。
他のことに気を取られている暇など、一秒たりともなく、否応なく、自分の中にあった無駄なものをそぎ落としていくしかなかったからだ。
そんな生活の中で、ツォンは、ただのタークスの一員、という存在に自分から戻っていったし、ルーファウスも、そのことにいつの間にか慣れていったのだった。
だが。
黒マテリア回収の命令を下した時、自分に向けられた瞳。
その瞳は、いつもの静かな穏やかさをかなぐり捨て、五年前と変わらぬ、いや、それ以上に熱くせつない想いにあふれ、ルーファウスに向けられていた。
まるで、ルーファウスの姿を、目に焼き付けておこうとでもするかのようなその視線に、圧倒されていた。
こんな目をする男だったのか、ということに、驚く。
それほどに、熱く、激しい想いを込めた視線だった。
ルーファウスも、その瞳から目が離せなかった。
自分が、取り返しのつかないことをしたことを、心のどこかで、強く感じていた。
だが、命令を撤回することはできなかった。
世界に責任を持つ、カンパニーの社長として、その命令はなんとしても、遂行させなければならないものだった。
永遠にも思える時間が過ぎ、ふと、ツォンの瞳から熱が消えた。
「他に、なにかご指示はありますか?」
静かな声で言ったツォンは、もういつもの、部下の顔にもどっていた。
「……いや、ない」
掠れた声を絞り出すように言ったルーファウスに、頭を下げ、ツォンは、「では、行ってまいります」と社長室を出ていったのだった。
それが、ツォンを見た最後になった。
ツォンが古代種の神殿で行方不明になったことを受けて、神羅軍の一部隊が捜索に入った。
大量の出血の跡が、神殿に残されていた、という報告があった。
それが、ツォンのものであることは、DNA鑑定で明らかにされていた。
遺体は発見されていなかったが、あの辺りは凶暴なモンスターも多い。
遺体をモンスターに喰われた可能性もある、と報告された。
いつも、自分を守るように、添えられた力強い腕。
震える手に重ねられた、温かく大きな手。
目の前で、肩を小さく震わせ、したたりおちた涙。
自由を奪われた自分を抱きしめた、温かい身体。
そして、いつでも、自分を見守り、せつないほどの想いをこめて、向けられていた黒い瞳。
手に残ったと思った唯一のもの。
それも、こうして、自分は喪った。
だが、その死の責任は、全て、この自分にあった。
作戦を考え、命令を下し、ツォンを死地においやったのは、自分だった。
それは、その死を、嘆くことも許されない、ということだった。
ただ、錐をもみ込まれるように痛む胸を抱え、その、ただの一枚の紙きれに記された報告を見つめることしか、ルーファウスには許されていなかった。
□■□■□■□
「ヘリは十分後に、ヘリポートにつきますよ、と」
レノの言葉に、我に返る。
「ああ……、わかった」
呟くように答え、そして、頭をまっすぐに上げる。
余計なことを考えている時間は、自分にはない。
「公開処刑の準備を整えろ、とジュノンに伝えろ。捕えたアバランチ、あの連中に、メテオの責任をとらせる」
「……了解だぞ、と」
何を喪おうと、自分が、歩みを止めるわけにはいかない。
この道が続く限り、歩いていかなくてはならないのだ。
そう、自分にもいずれ訪れる、最期の時まで――――。
ルーファウスは、タークスを従え、本社ビルのロビーを歩いて行った。
END
2011年5月26日 up