つかの間の夢 7

「行ってらっしゃいませ」
秘書が開けて待つ、後部座席のドアから車に乗り込みながら、ルーファウスは、車の横に立つ黒服の男をちらりと見た。
その男は、黒い瞳を油断なく辺りに向けながら、車に乗り込むルーファウスの盾になるように、そこに立っている。
ツォンだった。
「ツォンからヴェルド主任へ。副社長、乗車されました」
静かな声が、黒スーツにつけた小型マイクに向かって言うのが聞こえる。
イヤホンの向こうで、なにかいらえがあったのだろう。
「了解」
ツォンが答え、車の前方の位置に立っていたもう一人のタークスに、合図を送るのが見えた。
その男は、ルードという名だった、と思い出す。
ルードが、後部座席の、ルーファウスとは反対側のドアを開けて、「失礼します」と言いながら乗り込んでくる。
同時に、ツォンが助手席に乗り込んだ。
「副社長。出発します」
ツォンが、少し首を後ろに向け、頭を下げる。
「ああ、頼む」
「はい」
短く答え、運転席の赤毛の黒服に「出せ」と命じた。
「社長車の後ろにつけ」
「了解だぞっと」
この赤毛のタークスは、レノだ、とまた名前を思い出す。
ルーファウスは、人の顔と名前を覚えるのが早い。
というより、幼い頃から、上に立つ者は、絶対に、一度会った顔と名前は覚えなくてはならない、と教え込まれてきたせいか、それが当たり前のことになっていた。
車が、なめらかに発進する。
赤毛のレノは、見かけこそ軽そうな若者だが、車の運転はうまい。
何度かレノの運転する車に乗ったが、そのたびに、その見かけとは裏腹に、とても丁寧な運転をすることに驚いたものだった。スピードが出ていても、それと感じさせない運転技術はかなりのものなのではないだろうか、と思う。
ルーファウス自身は、自分で運転はまだできないが、幼い頃から、様々な運転手の車に乗ってきており、レノの運転は、たぶん、その中でも一、ニを争うくらいの腕前だろうと踏んでいた。
ルーファウスは、シートに身体を預け、窓から外を見た。
ループ状の車寄せを、まず、一台の黒塗りの車が出ていくのが見える。
社長車を先導する先発車だ。
そして、次に、プレジデントが乗る社長車。
続いて、ルーファウスの乗る車が、その後を追う形だ。
「ツォンから、後続車へ。出発する。間に車を入れるな」
ツォンが、マイクに向かい、指示を出す。
その指示どおり、ルーファウスの車の後ろに、後続車がぴたりと続き、大通りに出た。
今日は、神羅出資のコンサートホールの竣工記念式典が行われることになっており、プレジデントはもちろん、新副社長のルーファウスも、父と共に出席することになっていた。
警護はタークスが行い、社長警護を主任のヴェルド、ルーファウスの警護をツォンが担当することになっているようだった。
車が大通りを走り始めると、「レノ」とツォンが厳しい声を飛ばした。
「副社長がいらっしゃる。言葉遣いに気をつけろ」
「はいはい」
「はい、は一回だ」
「…はい」
レノが首をすくめるのを見て、ルーファウスは、小さく笑った。
「私は別に、言葉遣いなど気にしないぞ」
「いえ、こういったことは、きちんと教育しないとなりませんので」
生真面目にツォンが答え、ルーファウスは、苦笑した。
相変わらずだ、と思う。
ルーファウスが副社長に就任して、すでに四か月が過ぎようとしていた。
始めの一ヶ月ほどは、ツォンが、護衛兼秘書のように、常にルーファウスの傍らに張り付いていたが、やがて、ルーファウスが生活に慣れたとプレジデントが判断したものか、時折、ツォンではなく、他のタークスが顔を見せることも増えていた。
専属の秘書もつけられたことで、仕事面でのサポートはもう必要ではなくなり、ツォンでなくとも、務まるという判断なのかもしれなかった。
だが、最初の一ヶ月を、ずっと共に過ごしたことで、ルーファウスにとってツォンは、タークスの中でも、最も親しみのもてる、そして信頼できる存在になっていた。
それはもちろん、ツォンが非常に有能で、職務に忠実な、理想的な部下であることもあったが、それと同時に、ツォンの持つ、生真面目で、 まっすぐな性格によるところも大きかった。
余計なことは一切、口にしないが、その口から出る言葉は、常に誠実で表裏がないことを感じさせた。
正直、こんなにまっすぐな性格で、タークスなどが務まるのだろうか、と思うくらいだが、どうやら、主任のヴェルドの信頼も厚いところをみると、問題なくタークスの職務を遂行しているのだろう。
初めて会ったときは、それまで顔を見たことがなかったことや、その若さから、新人なのかと思ったものだが、実際には、中堅どころといっていい立場におり、ヴェルド主任もなにかと目をかけているようだった。
ルーファウスが顔を見たことがなかったのは、ルーファウスと関わりがあるような仕事、つまりは、要人警護のような、言ってみれば表舞台に立つ仕事よりも、もう一つのタークスの顔ともいうべき、裏の仕事、たとえば諜報活動といった、あまり大っぴらにはできないような職務に従事していたらしかった。
そのことを考えれば、この生真面目で、誠実そうに見える男も、その顔の下に、ルーファウスの知らない別の顔を隠し持っているのかもしれなかった。
とはいえ、今は、ルーファウスの警護を担当するのは、たいてい、このツォンで、ルーファウス付き、とでもいうような役割を与えられているようだった。
それに加えて、若手の教育なども担当しているようで、運転席の赤毛のレノと、ルーファウスの隣に座る、サングラスがトレードマークのルードのペアを、よく連れて歩いていた。
レノとルードがペアを組んでいるというのも、おもしろい。
ルードはレノとはまったく違うタイプで、とにかく無口であり、なにか話しかけても帰ってくる言葉は、はい、かいいえ、か無言。
常にかけているサングラスが、その表情を隠し、その長身とスキンヘッドの相乗効果で、非常に迫力のある外見をしている。
だが、時折、漏れ聞こえてくるレノとの会話などを聞いていると、意外に初心でデリケートな男らしく、その外見とのギャップに、ルーファウスは心の中でひそかにおもしろがっていたのだった。
ツォンにしろ、レノとルードにしろ、それまでルーファウスが抱いてきた、タークスというものに対するイメージからは、少し違うと言っていい。
たとえば、主任のヴェルドなどは、いかにもタークス然としていると思う。
一癖も二癖もありそうな男で、内心を絶対に他人に読み取らせない。
なにか、空恐ろしいものを感じさせる男で、さすが、タークスを束ねている男だ、と思う。
タークスが実際に、どんな組織であるかというのは、正直、ルーファウスにも、まだよくわかっていなかった。
副社長に就任して、まず手始めに取りかかったことは、社内資料を読み漁ることだった。
一般的な、社員ならだれでも閲覧可能な資料から、部長クラス、取締役クラスと、それぞれアクセス権が定められている機密資料まで、自分にアクセスが認められている資料には、すべて目を通した。
だが、そこで気がついたことがある。
明確に自分には隠されている資料があるのである。
もちろん、あからさまに隠されている、とわかるわけではない。
だが、どう考えても、資料が少なすぎる部分があるのである。
それは、治安維持部門に関する資料だった。
治安維持部門、つまりは、ソルジャーとタークスに関する事柄だ。
そして、副社長である自分に隠されているもの、それは、当然、社長である父親が、自分に見せたくない事柄である、ということになる。
それを、父親が自分に見せない理由。
それは当然、この部門が、もっとも、権力を維持するうえで重要な部分であるからだろう。
副社長に就任したからといって、自分が社長になれるとは限らないことなど、ルーファウス自身にもよくわかっていた。
そしてまた、父親が、こと権力を維持することに関しては、天才的な手腕を発揮し、そのおかげで、神羅がここまでの巨大企業に成長したことも、ルーファウスにはよくわかっていた。
そしてまた。
あの父親が、たとえ血をわけた息子であったとしても、そして、その息子に対して、愛情というものをたとえ持っていたとしても、その息子にすら、完全に心を許すことはないこともよくわかっていた。
父は、誰も信じない。
それは、あの瞳をみれば、よくわかる。
ルーファウスは顔立ちは完全に母親似だったが、その蒼い瞳は、父親のものを譲りうけている。
その、自分のものと同じ、冷たい蒼い瞳に、鋭い視線を投げられると、ルーファウスは、幼い頃から縮みあがったものだった。
怒りがあるなら、まだいい。
怒りすらなく、ただ、相手を同じ人間とも認めていないような、傲岸な色を浮かべたその瞳は、温かさのかけらもないもので、その目を向けられるたびに、ルーファウスは、自分がその辺の石か何かにでもなったような気分になったものだった。
「副社長」
ツォンの静かな声に、ルーファウスは我に返った。
「そろそろ到着します」
窓の外を見れば、すでに車はコンサートホールの敷地内に入り、周囲を囲む緑豊かな庭園の中に造られた車道を進んでいた。
「ああ」
ルーファウスは、軽く頭を振った。
「わかった」
短く答え、小さく吐息をついた。

□■□■□■□

プレジデントとルーファウスを控室に案内したコンサートホールの支配人が、「こちらで少しお待ちください」と言い残し、慌ただしく部屋を出ていく。
ルーファウスは運ばれてきたコーヒーに口をつけ、ソファの背もたれに寄りかかった。
正直、父親と一つの部屋に二人きりでいるというのは、落ち着かない。
なんとなく、内装を見まわし、ドアの横にたつ、ヴェルドに目を向ける。
ヴェルドは、外にいるタークス達に指示を出しているらしく、ほとんど聞こえない声で、マイクに向かい、なにかを言っている。
すると、ドアがノックされ、ヴェルドが開けたドアから、タークスが一人、入ってきた。
ツォンだった。
ドアのところに立っていたヴェルドに何かを囁く。
ヴェルドが軽くうなずき、室内から出る。
そのかわりに、ドア横に、ツォンが立った。
その様子に、見るともなく目を向けていたルーファウスは、不意に名を呼ばれ、一瞬、びくりと身体を震わせた。
だが、自分の名を呼んだその声音で、父親の機嫌が悪いことに気づき、用心深く、向かい側のソファに座る父親に目を向けた。
「はい」
そんな心中は、表情にはまったく出さず、父親の言葉を待つ。
プレジデントは、ソファに足を組んで座り、じっとルーファウスを見つめていたが、やがて、口を開いた。
「最近、よくSPを撒くそうだな。どこに行っている?」
来たか、と思う。
思ったよりも遅かった。
セフィロスと逢瀬を重ねるようになって、すでに4カ月だ。
SPが撒かれたことすら気づかぬようにうまくはやっているつもりだが、完全に成功しているとは、さすがに思っていない。
結局、他の情事の相手を隠れ蓑にする程度のことしかできないのだ。
今の今まで、SPが報告しなかったとは考えにくい。
つまり、父親も様子を見ていた、ということなのかもしれなかった。
あるいは、ひそかに調査していたが、結局、なにもわからず、こうして自分に探りを入れてきたか、その辺りだろうと見当をつける。
完全にしらばっくれるか、それとも、大したことはないと思わせるか。
だが、この父親の口調と、真正面から切り込んできたやり方を見れば、ある程度は掴んでいて、疑いをかけてきていると考えた方がよさそうだった。
「すいません」
とりあえず、謝っておく。
「謝れと言っているわけではない。どこに行っているのか聞いている」
「……少し、プライベートで」
「女か?」
「……まあ、そんなところです」
「どこの誰だ」
ルーファウスは、黙っていた。
15才としては当然の、反抗期とでも、父親が思ってくれればいい。
(あるいは、父親に言えないような相手と熱烈に恋をしている、とでも)
心の中で、あざ笑うように思う。
「私に言えないような相手か?」
「……いえ、そういうわけではありませんが」
プレジデントは、じろりとルーファウスを見た。
相手を見透かすような、冷たく、鋭い視線だ。
もう15才になったというのに、やはり父親のこの目は、我ながら滑稽なほど、恐ろしい。
思わず、目をそらしそうになり、必死でこらえる。
(まるで、蛇に睨まれた蛙だ)
自嘲するように、心の中でつぶやく。
「おまえは、自分の立場がわかっているのか?」
「立場……ですか?」
「おまえは、いまのところ、神羅の社長の椅子にもっとも近いところにいる。だがな、社長になれるとは限らんのだぞ」
「わかってます」
「わかっているなら、足元をすくわれんように気をつけろ」
「はい」
「おまえは、わしの一人息子だ。わしとて、いずれはおまえに神羅を譲りたいと思っておる。だがな、神羅の利益にならないことはできん。わかるか?」
「はい」
「神羅の利益とは、なんだ」
ルーファウスは、眉を寄せた。
「収益を上げることと、カンパニーを安定的に維持すること……でしょうか」
「そのとおりだ。では、そのためには、経営者はなにをしないとならんかわかるか」
「経営戦略を正しく練ること。社会情勢を見極めること……ですか?」
「まあ、それも大事だが、そんなものは、下の者にやらせればいい。それを総合的に判断し決断を下せればいいのだからな」
「はい」
ルーファウスは、正直、父親の話が、どこに向かおうとしているのか、図りかねていた。
父親は、無駄なことは言わない。
この話が行きつくところに、意味があるのだ。
だが、その意図がわからず、策を練ることができない。
ルーファウスは、内心の焦りを押し隠し、父親の言葉を待った。
「トップの者に求められるのは、決断力と判断力、それともうひとつ、人脈だ」
「はい」
「おまえはまだ、子供だ。決断力だの判断力だのは、期待しておらん。これから、学んでいけばいいことだ。だが、おまえでも今からできることがある。それは、人脈を作り、増やしていくことだ」
「はい」
そこで、父親がふと、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「もっとも、こんなことはわしが言うまでもなく、おまえもわかっていたようだがな」
「はい?」
ルーファウスは、目を瞬いた。
それを見て、プレジデントは鼻で笑った。
「おまえが、今、何人のご婦人方の相手をしているか、わしが知らんとでも思っているのか」
ルーファウスは、黙っていた。
「別に、非難しているわけではない。むしろ、褒めてやりたいくらいだ。そのご婦人方におまえが気に入られるのは大いに結構。 それでカンパニーの仕事もやりやすくなるというものだからな」
だが、そこで、プレジデントは、浮かべていた笑みを、すっと消した。
冷たい表情が、ルーファウスに向けられる。
「だがな、そこでおまえが誰か、特定の女一人と親しくなったとする。そのご婦人方はどう思うと思う?」
ようやく、ルーファウスは、父親の言おうとしていたことを理解していた。
「当然、おもしろくないだろう。それが、自分たちの仲間でないなら、なおさらだ。全員にそっぽを向かれるぞ。そうなったらどうなる?おまえの相手は、全員、うちの重要な取引先の夫人方だ。それぞれ、地位も金も持っている。いいか、たかが女と思ったら大間違いだ。あのご婦人方の影響力はお前が思っている以上に大きい。下手をしたら、おまえのせいで、神羅に損害を与えられることになるのだぞ。そうなったら、わしとておまえを神羅の副社長においておくことなどできん。次期社長など、もってのほかだ。わかるか」
「………はい」
呟くように返事をしたルーファウスを見て、プレジデントは、大仰にため息をついてみせた。
「だから、まだお前は甘いというのだ。いいか、わしに言えんような女と親しくしているのなら、今すぐ、別れろ。もちろん、いずれはおまえも結婚しなくてはならん。後継者が必要だからな。だが、おまえの子供を産む女は、それなりの女でなくてはならん。わしが時期を見て、最高の女を選んでやる。だから、それまでは、若い女には手を出すな」
そこで、ふと表情を緩める。
「おまえは母親に似て、容姿に恵まれておる。それを最大限に利用しろ。社交界のご婦人方と、うまく付き合っていけばいい。何人と寝ようとかまわん。わかったか」
「…はい」
「その女と別れられないなら、わしが何とかする。いくらでも手はある。だが、その女を少しでも大切に思っているなら、さっさと別れることだ。タークスの手に渡したくはないだろう?」
ルーファウスは、思わず、ドアの横に立つ黒い姿に目をやった。
ツォンは、まったく部屋の中の会話など、聞こえていないかのような、完全な無表情でそこに立っていた。
その視線に気付いたのか、プレジデントも、ツォンに目を向けた。
「タークスならば、女一人を闇に葬る程度のことは、朝飯前だ。そうだろう、ツォン?」
ツォンの目が、とまどったように、プレジデントとルーファウスに向けられる。
「聞いていなかったふりなどせんでいい」
プレジデントが笑った。
「いえ……そういうわけでは……」
困ったようにツォンが言うのを、プレジデントはおもしろそうに見つめた。
「ルーファウス、このツォンはな、使える男だぞ。どんな命令でも、完璧にこなしてくる。『処理』もお手の物だ。なあ、ツォン」
ツォンの眉が、わずかに寄せられる。
だが、ツォンは、何も言わず、小さく頭を下げた。
プレジデントは満足げに笑った。
「ルーファウス。わかったな。その女とは別れろ」
プレジデントが、鋭くルーファウスを見つめた。
冷え切った蒼い瞳に、見据えられ、ルーファウスは、思わず息を詰めた。
「ルーファウス、わしに逆らうなよ」
「はい……父さん」
ルーファウスはつぶやいた。
だが、その時、不意にこみ上げてきた吐き気に、思わず口元を押さえた。
「ルーファウス?」
父親のいぶかしげな声に、「少し、レストルームへ。すぐ戻ります」と返し、ふらりと立ち上がる。
すぐに、ドアが開かれ、ツォンが後ろに続いた。
「ツォンから主任へ。副社長がレストルームに行かれます。わたしが付きます。控室内は、ルードに交代。廊下のカバーをお願いします」
歩きながら、ツォンが言うのが聞こえる。
「副社長、こちらです」
ツォンに導かれ、レストルームに入る。
「失礼します」
つぶやくように声をかけられ、背を押され、個室に入る。
そのとたん、我慢できず、ルーファウスはこみ上げてきたものを、吐き出していた。
何度も何度も、吐き気に襲われ、胃の中のものをすべて吐き出す。
肩を震わせ、吐き続けるルーファウスの身体を支えながら、ツォンがマイクに向かって指示を飛ばす。
「レノ、ミネラルウォーターと濡らしたタオルをレストルームにもってきてくれ。大至急だ」
ルーファウスは、唇を震わせ、荒い息に背を波打たせたまま、しばらく、じっとしていた。
「全部、出してしまった方が楽になります」
ツォンが囁くように言い、背を軽く擦る。
また、襲ってきた吐き気に、こみ上げたものを吐く。
もう、胃にも何も残っていないのだろう。
出てくるものは、胃液ばかりだったが、吐き気はおさまらない。
ルーファウスは、咳き込み、痙攣するように震える胃をおさえ、なんどもえずいた。

「大丈夫ですか」
気遣わしげな声に、ルーファウスは、小さくうなずいた。
レストルーム内の椅子に座らされ、汚れた口元も、涙でぬれた目元も、濡れたタオルで拭われ、ようやく、ほっと息をつく。
「飲めますか?」
グラスについだミネラルウォーターを差し出され、首を振る。
「スーツは大丈夫そうですね」
ルーファウスの全身を点検し、ツォンが言う。
「すまない」
ルーファウスは、呟くように言った。
「いえ」
「戻らないとならないな」
立ち上がろうとしたルーファウスの身体を、ツォンが支える。
「社長からご伝言が。気分が悪いなら、先に戻るように、とのことです。セレモニーは出席しなくてもよいと」
「いや」
ルーファウスは、首を振った。
「出席する。まだ間に合うのか?」
「ちょうど、社長が会場に向かわれたところですから、今、行かれれば間に合います」
「なら、行こう」
ツォンが、少し眉を寄せた。
「ですが、ご気分は?」
「吐くだけ吐いたからな。もう平気だ。顔色はどうだ?」
「先ほどよりは……よろしいかと」
「ならいい。行く」
「はい」
ツォンがマイクに向かって、「ツォンから主任へ。副社長、出席されます。いま、向かいます」と言うのが聞こえる。
ルーファウスは、鏡で全身をチェックし、髪を整えた。
「水を、もらおう」
「はい」
すぐに差し出された水を少しだけ、口に含み、ゆすぐ。
ルーファウスは、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと吐く。
負けられなかった。
ここで、出席しなければ、父親に負けることになる。
そして、自分自身にも。
そんな気がした。
「行くぞ」
「はい」
ルーファウスは、背筋を伸ばし、セレモニー会場へと向かった。

2011年5月9日 Up

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