ロッカーを開けた瞬間、ばさばさっと落ちたものがあった。
 見れば、色とりどりの包装紙に包まれたものが、床に散乱している。
「なんだ?」
 ヴィクトールは、眉を寄せた。
 後ろから、ユージィンがひょいとのぞきこむ。
「ああ、チョコレートだろ?」
「チョコレート?」
「そう。バレンタインデーだから」
 ユージィンはそう言うと、自分のロッカーに向って歩き出した。
「バレンタイン……?」
 ヴィクトールは、眉を寄せたままつぶやいた。
 ユージィンは、驚いたように足を止めて振り向いた。
「なんだ、今までもらったことないのかい?君が?」
 ヴィクトールは、むっとしたようにユージィンを睨んだ。
「もらったことくらいある」
 ユージィンは、苦笑した。
「じゃあ、驚くことないじゃないか」
 そう言うと、すたすたと自分のロッカーまで歩いていき、扉を開ける。
 ばさばさ……とは、落ちなかった。
 だが、ユージィンのうれしそうな声が響き、ヴィクトールは、まだむっとしたままだった顔をそちらに向けた。
「おれにも来てるよ」
 ユージィンはそう言って、うれしそうに、きれいにリボンのかかった四角いものを振ってみせる。
 ヴィクトールは、腕を組んで、そこに立ちつくした。
 ユージィンは、他にも見つけたらしく、無邪気に、歓声をあげてロッカーに手を突っ込んでいる。
 そして、5,6個の包みを抱えて、うれしそうにヴィクトールのそばに戻ってきた。
「こんなにもらったよ」
 そう言って、にこにこと微笑む。
 ヴィクトールは、じろりと睨んだ。
「なんだい、怖い顔をして」
「ユージィン」
「うん?」
「ここは、どこだ?」
「ここ?……士官学校だね」
「そうだ」
「それがどうかしたかい?」
「それで、チョコレートをもらって、なぜ喜ぶ」
「え?」
「どこに女がいるんだ!」
 ヴィクトールは、思わず怒鳴った。
 だが、ユージィンは、無邪気に微笑んだまま、首を軽くかしげた。
「ああ、そういうことか。別にいいんじゃないのかい? 食べ物は食べ物だよ」
「……」
 ヴィクトールは、深くため息をついた。
 そして、床に落ちたものを拾い集めると、乱暴にロッカーに投げ入れる。
「あれ? 部屋に持って帰らないのかい?」
 ユージィンが驚いたように聞いた。
「こんなもの、いらん」
 ヴィクトールは言い捨てると、バタンとロッカーの扉を閉めた。
「え、だって、もったいないよ」
 ユージィンは、ロッカーとヴィクトールを見比べて言った。
「せっかく、くれたのに……」
「こんなもの、いるか。気色悪い。あとでまとめて捨てる」
 ヴィクトールはつけつけと言うと、ロッカーに背を向けて歩き出した。
「もったいないのに……」
 ユージィンは、まだぶつぶつとつぶやいている。
 それを無視して、ヴィクトールは、さっさと自室へ戻った。
「あ、これおいしいよ。君も食べるかい?」
 例によって例のごとく、ヴィクトールの部屋までついてきたユージィンは、その辺のベッドに座り込み、もらったチョコレートの包みをあけて、さっそく食べ始めていた。
 そして、口に入れるたびに、おいしい、とうれしそうに歓声をあげる。
 ヴィクトールは呆れて、その姿をみつめた。
「なんでそう、平気で食べられるんだ?」
「なんで?」
「男からもらって、うれしいか?」
「まあ、チョコレートは好きだから」
 ユージィンは、あっさりと言うと、ウイスキーボンボンらしきものを口に放り込んだ。
 ヴィクトールは、心底あきれかえって首を振った。
 そして、もう、相手にするのはやめようとばかりに、ユージィンに背を向けて、自分の机に向かうと、ノートを取りだし、今日の授業の復習を始めた。
 だが、しばらくして、ヴィクトールは、いらいらとペンを置いた。
 まったく、内容が頭に入ってこないのだ。
 いつもは、こんなことはなかった。
 ヴィクトールの集中力というのは、素晴しいもので、何かに集中しようと思えば、数秒でそのことに没頭できるし、他のことに惑わされることは、まず、ない。
 それもユーベルメンシュの特性のおかげなのかはわからないものの、とにかく、集中できなくて困ったことなど、生まれてこの方、なかった。
 それは、こうして近くにユージィンがいても同じだった。
 士官学校に入学して、ユージィンと親しくなって、まだ数ヶ月しか、たってはいない。
 だが、その間に二人は急速に親しくなっていて、ほとんど常に一緒にいるといってもよかった。
 それも、たいてい、ユージィンがヴィクトールの部屋に来ていることが多い。
 そんなわけで、ヴィクトールが勉強している間に、後ろで絵を描いたり、本を読んだりしてユージィンが遊んでいることは、よくあることなのだ。
 だが、そんな時でも、こんな風に、気が散って仕方がないことなどなかった。
 なのに、なぜ、今日はこんなに、集中できないのか。
 ヴィクトールは、いらいらと唇を噛んだ。
 後ろでは、ユージィンが、さらに別の包みを開けたらしく、ガサガサと音をさせ、そして、手紙か何かを見つけたらしく、○○先輩からだ・・・などと、つぶやいている。
 ヴィクトールは、ついに振り向くと、ぶっきらぼうに言った。
「静かにしてくれ」
 ユージィンが驚いたように顔をあげる。
「勉強できん」
「……」
 ユージィンは、まじまじとヴィクトールを見つめた。
 よほど驚いたらしく、その大きな目をさらに、大きく見開き、ヴィクトールを見つめている。
 ヴィクトールは、不意に居心地が悪くなった。
「いや……どうも、集中できない」
 なんとなく決まり悪くなり、ぶつぶつとつぶやく。
 ユージィンは、目を瞬かせてヴィクトールを見つめたが、不意ににっこりと微笑んだ。
 そして、わずかに首を傾げた。
「ヴィクトール、もしかして、妬いてるのかい?」
「な……?」
 ヴィクトールは、思いもかけないことを言われて、目を見開いた。
「妬く……?」
 ユージィンは、さらに微笑んだ。
「うん。だからおれが、人からもらったチョコレートを食べてるから、妬いてるとか」
「な、なんで……」
 ヴィクトールは、なぜか言葉に詰まった。
 そして、なぜか頬が熱くなったのを感じる。
 おそらく、自分の頬が赤くなっているだろうと、気が付き、ますます、ヴィクトールは動揺した。
「なんで、おれがそんなことで妬くんだ!変なことを言うな!」
 思いきり言い捨てて、乱暴に椅子を引き、ユージィンに背を向ける。
 そして、別のノートを開き、目を凝らした。
 だが、まだ、頬が熱い。
 ユージィンの視線を痛いほど、感じる。
 なぜこんなに自分が動揺しているのか、わからなかった。
 自分が妬く?
 そんなわけがない。
 なぜ、妬かなければならない?
 後ろで、ベットがぎしりと鳴った。
 ユージィンが立上がる気配がする。
 ヴィクトールは、なぜか緊張して、その気配を探った。
 このまま、部屋を出ていってくれればいい、と思う。
 だが、足音はヴィクトールの方に近づいてきた。
 そして、つと、横から手が伸び、ヴィクトールの肩に乗った。
「なん……」
 なんだ、言おうとして、ヴィクトールは息をのんだ。
 顎をぐいと掴まれて、振り向かされたのだ。
 そして、思いのほか、ユージィンの顔が近くにあったことに、さらに驚く。
 目の前で、青緑の美しい瞳がきらめいている。
 ヴィクトールは、魅入られたようにその瞳に見入った。
 その瞳が、大きくなる。
 いや、大きくなったわけではない。
 近づいたのだ。
 だが、そうと気付いたのは、唇になにか、暖かい感触を感じてからだった。
 暖かく、柔らかいものが、唇をおおっている。
 ヴィクトールは、目を瞬いて、すぐ近くにあるユージィンの顔を見つめた。
 重なっているのは、ユージィンの唇だった。
 キス。
 そう、これはキスだ。
 ヴィクトールは、ぼんやりと思った。
 だが、頭の芯がぼうっとしたようで、何も考えられない。
 それは、一瞬のことだったのか、それとも、数分のことだったのか。
 ヴィクトールには、わからなかった。
 だが、重なった時と同じ唐突さで、ユージィンの唇は離れた。
 不意に、冷たい空気が流れ込み、ヴィクトールの唇を冷やす。
 だが、ヴィクトールは、動けなかった。
 ユージィンが、にっこりと微笑んで、すっとヴィクトールから離れる。
 そして、何も言わずにベットの上に散乱していたチョコレートをまとめると、それを抱えて、一度も振り向かずに部屋を出ていく。
 扉がぱたんと閉まった。
 だが、ヴィクトールは動けなかった。
 いつまでも、よく見慣れた細い後ろ姿が消えた扉を見つめ続けていた。 
END