「なんなんだ、あいつは……っ!」
ドアの向こうに、華奢な背中が消えるのを見送って、ヴィクトールはシーツの上にごろりと横になった。
まったく、何を考えているのだろう、と思う。
もっとも、ユージィンというのは、時おり、ヴィクトールには想像もつかないようなことを突然はじめることがあって、それに振り回される羽目になったのも一度や二度ではない。何を考えているんだ・・・・と思うのは、なにも今日に始まったことではなかった。
だがそれでも、限度というものがある。
だいたい、その直前に、例のとんでもない噂の話をしていたのだ。
ユージィンだって、自分たちがキスをしたり抱き合ったりするということだろうね、と困ったように言っていたじゃないか。それなのに、なぜ、いきなりあんなキスをしてきて、しかも平気でいるのだろう。わけがわからなかった。
ヴィクトールにとって、キスとは、そう簡単にするものではない。
それも、アルトゥールとしたような、触れ合うようなキスならともかく、あんなキスは……。
そこでふと、あることに思い至り、眉を寄せた。
もしや、と思うが ―――。
もしや……あの噂のとおりだとか……?
ユージィンが、自分に……特別な、つまり友情以上の感情を持っている……とか?
ヴィクトールは、一瞬、呆然とし、だが、すぐに首を激しく振った。
心臓が、激しく打つ。
違う。
そんなはずはない。
いままで、ユージィンがそんなそぶりを見せたことは一度もないのだ。
とはいえ、ヴィクトールは、自分が、こと恋愛に関しては、かなり疎いほうだ、というのは自覚している。幼年学校時代から、男女を問わず、誘いをかけられることが多かったにもかかわらず、そのほとんどに気づかなかったらしいのである。
はっきり言われればさすがにわかるものの、えてして、そういう場面においては、遠回しな誘い文句だの、意味ありげな視線だの、突然のプレゼントだの、そういう、いかにも推し図れ、と言わんばかりの攻撃が多い。
そして、ヴィクトールは、いつも、それの意味することにまったく気づかず、その点では、はるかに早熟だったアルトゥールが先に気づき、ことあるごとに、あきれられ、からかわれたものだった。
『なんで、気がつかないの?』
笑いを含んだ声で、よくアルトゥ-ルがささやいたことを思い出す。
だが、それでも、さすがに自分も、もう十六歳なのだ。
パーティなどで、ブルーブラッドの少女たちの熱い視線を感じないわけではないし、特別な意味をこめた目配せに気づかないわけでもない。
つまり、もし、そういう、友情以上の特別な感情がユージィンにあったとしたら……そう、これだけ四六時中、一緒にいるのだ。さすがの自分も気づくだろうと思う。
そうだ、そんなはずはない。
そして、自分もまた、誰が何を言おうと、ユージィンに友情以上の感情を抱いたことはないし、ましてや、妙な欲望を抱いたことなど一度もない。
これは、断言できる。
(断言できる・・・・?)
ふと、頭に浮かんだ疑問符に、愕然とする。
……当たり前だ。
ユージィンとキスをしたいなどと思ったことはない。
男同士でキスなどしたところで、気色が悪いだけだ。
だが。
それなら、なぜ……。
そう、なぜ、あのとき、ユージィンを押しのけなかったのだろう。
ユージィンは、べつにヴィクトールを押さえつけていたわけではなかった。
いつでも、ユージィンの身体を突き放すことはできたはずだった。
(なのに、おれは、押しのけることもせず、ユージィンにされるがままになっていた……)
不意に、 自分の唇をなぞるように、やさしく動いたやわらかい感触がよみがえり、ヴィクトールは、思わず右手の拳を唇に押し付けた。
頬がかっと熱くなり、心臓が、痛いほど波打つ。
顔の輪郭をそっとたどっていった指の感触、そこから沸き起こったぞくぞくするような、気持ちいいような、なんともいえない感覚がよみがえる。
(気持ちがいい?)
ヴィクトールは、はっとした。
そうなのだ。
あのキス、ユージィンが悪ふざけで仕掛けてきたあのキス。
あれが、決して嫌ではなかった自分がいるのだった。
だから、ユージィンを押しのけることができなかった。
そして、ユージィンの唇が離れていったとき、物足りなささえ感じた自分がいた。
(いったい……おれはどうしたんだ……)
ヴィクトールは、ベッドに転がったまま、頭を抱えた。
コンコン ―――。
ドアを叩く小さな音に、ヴィクトールは、はっと、我に返った。
あわててベッドの上に起き上がる。
やがて、応えのないことに焦るかのように、もう一度、今度は少し大きく、ノックの音が響いた。
(ユージィン?)
そう思った瞬間、どきり、という音が、外に聞こえるかと思うほど、心臓が跳ねた。
かっと頬が熱くなる。
ユージィンだろうか。
そうだとしたら……いったい、どんな顔をしていたらいいのかわからない。
「ヴィクトール?」
ドアの外から声が聞こえた。
ヴィクトールは、ふっと大きく吐息をついた。
ユージィンの声ではなかった。安心したような、それでいて物足りないような、奇妙な気分に陥る。
「ヴィクトール、いないんですか?」
ドアの外の声が、再び呼んだ。
ヴィクトールは、もう一度、ベッドにごろりと横になるとそっけなく、いらえを返した。
「なにか用か?」
そのとたん、ドアがあわてたように開かれる。顔を出したのは、同室のブルー・ブラッドの子弟の一人だった。
「ああ、やっぱり、いたんですか!早くしないと食事に遅れますよ」
「食事?」
ヴィクトールは、いぶかしげに聞いた。
部屋をのぞき込む青年の顔に、驚いたような表情が広がった。
「もう、夕食の時間ですよ?」
「え?」
ヴィクトールは、あわてて時計を見た。
七時五分前。
夕食は七時からだ。
ヴィクトールは、ベッドから飛び降りた。
ユージィンが部屋を出て行ったのは、遅くても五時半か六時ころのはずだ。ということは、一時間近くもぼんやりとしていたことになる。
舌打ちをしたい気分で、クローゼットから上着をひったくるように取り、腕を通しながら部屋を飛び出した。
呼びにきた青年も、まだ驚いたような表情を消さなかったものの、とにかく続いて走り出した。
士官学校とは、軍の縮図である。つまり、すべてにおいて規律が優先する。その中で、もっとも厳しく科せられる規律が、時間厳守。つまり、七時から夕食、と言ったら、七時には席についていないとならないのである。もし、たとえ1秒でも遅れれれば、当然、食事は抜き、その後には、過酷な制裁が待っている。
一年生の部屋は最上階。
食堂は一階。
走らなければ間に合わない。
本当は、廊下を走るのも厳禁である。だが、この際、そんなことは言っていられない。おそらく、上級生もすでに食堂に集まっているだろうことを期待して、二人は階段を駆け下り、食堂へ飛び込んだ。
だたっぴろい食堂はすでに、ほとんど席が埋まっていた。
基本的に席は自由である。だが、慣例によって、学年ごとに、ある程度の場所は決まっている。一年生は、一番、出入り口に近い辺りである。それが、二人に幸いした。ほとんど先輩たちの目を引かずに、ブルー・ブラッドの取り巻きが確保しておいた席に滑り込む。
食事中の私語は禁止なので、みな、黙りこくったままだったが、ヴィクトールは、ひそかに自分に注がれている、複数の好奇の視線に気付き、憮然とした。
それはそうだろう。
ヴィクトールといえば、規律の鬼で有名だ。決められた時間の5分前には、きちんと着席しているのが常である。それが、上着のボタンもしっかり留めないままで、ぎりぎりに滑り込んだのである。何かあったのかと勘ぐられても、仕方がなかった。
やがて、七時のチャイムがなった。
一年生の給仕係がいっせいに動きだし、食事を配っていく。
ヴィクトールは、幼年学校時代からたたき込まれている士官学校流のマナー、つまりは、椅子10センチほどに浅く腰かけ、背筋をピンと伸ばし、あごはかすかに引いて、両手は腿の上、という姿勢で食事が配られるのを待った。
だが、無意識のうちに視線がさまようのを、どうすることもできない。
身じろぎもせず、顔もほとんど動かさず、目だけをひそかに動かしてその姿を探す。
だが、探す姿は見つからない。
自分の方に向けられている青緑の瞳も人なつこい童顔も、どこにも見つからない。
最近は、夕食はいつでもユージィンと隣り合わせで食事をしていた。別に強いてそうしようとしていたわけではないが、たいてい一緒にいるので、食事も一緒に出かけるということになるのである。
それに、たとえ、一緒にいなくても、ユージィンが必ずヴィクトールの部屋に呼びに来る。
ふと、あることに気づき、ヴィクトールは眉を寄せた。
そうなのだ。
つまり、今日は、ユージィンが自分を呼びに来なかったというわけだった。だから夕食の時間がきていることにも気付かなかった。
胸の奧に、奇妙な痛みが走るのを感じ、ヴィクトールは、視線を下に向けた。
テーブルの上に、トレイにのせた食事が置かれる。次に回ってきた給仕係が、パンを皿に載せていく。そして、最後が、メインの肉と付け合わせだ。
手際のいい流れ作業。
だが、ふと、ヴィクトールは眉を寄せた。
自分の皿に手早く、付け合わせのマカロニサラダを盛りつけている手を見つめる。
細くてきれいな指。
その繊細な形をした手は、見慣れたものだった。
スケッチブックの上を走るのを見るたびに、きれいだと思っていた手だ。
その手の主を確かめたいという欲求を必死で押さえ込み、視線をトレイの上に固定しておく。
ヴィクトールが見つめる前で、細い指が器用にサーバーを扱って、サラダを盛りつけた。
が、それを見て、さらにヴィクトールは眉を寄せた。
皿の上に乗るマカロニは、どう考えても、いつもよりかなり量が多い。
その時、ヴィクトールの耳元に息がかかった。
「おまけ」
いたずらめいた響きのある声が囁く。
どきり、と胸が鳴った。
その、柔らかい、なぜか耳に残る声を、聞き違えるわけもない。
ユージィンだ。
ヴィクトールは、思わず振り向きそうになり、あわてて、その衝動を抑えた。
頬が熱い。
おそらく、また、頬が赤く染まっているのだろう。
できることなら、このまま、席を立ちたかった。頬を赤らめているところを、周りの連中に見られるなど、我慢ならない。
ヴィクトールは、必死で平常心を保とうと、膝の上に置いた手を、握りしめた。
こんな時、自分の肌が白いのがうとましい。君は、赤くなるとすぐわかるよね、と、ユージィンに言われたのだ。自分では見たことがないが、首筋まで赤くなるらしい。
ユージィンは、かわいいからいいじゃないか、などとのたまっていたが、ヴィクトール自身は、それを聞いた時、死にたくなるほど恥ずかしかったのだ。
昔は、こんなことはなかったはずだった。というより、頬が赤くなるような事態に陥ったことがなかった、と言ったほうがいい。
それはそうだろう。
今までは、誰もヴィクトールのことをからかおうなどとは、しなかった。そんなことをしようものなら、命の保証はないのだ、当然である。たしかにアルトゥールには、よくからかわれた覚えがあるが、それは家の中でのことだった。
だが、ユージィンは、違う。暇さえあれば、ヴィクトールをからかい、ヴィクトールで遊ぶ。そんなわけで、ユージィンと一緒にいると、必ず、赤面するような羽目に陥るのだ。
ヴィクトールは、まだ頬がかすかに熱いのを自覚しながら、恨みを込めた視線を横に流した。きまじめな顔をしたユージィンが、次々と皿の上にマカロニサラダを盛りつけているのが見える。
そこで、あることに気づき、ヴィクトールは、ふっと、小さく息をついた。
つまり、ユージィンは給仕係だったというわけなのだ。
給仕係は、少なくとも30分前には食堂にきて食事を配る準備をしなくてはならない。ユージィンがヴィクトールを呼びに来なくても当然なのだった。
(……なんだ)
ヴィクトールは、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
だが、その瞬間、また、まざまざと先ほどの情景を思い出し、うろたえた。
唇に重なった、柔らかくて暖かい感触。
ヴィクトールは、あわてて、拳を握りしめ、平静を保った。