約束

「それで、被害状況はどうですか?」
 豊かな響きを持つ、穏やかな声が言った。
 ここは、軍務省三十五階にある会議室である。
 近頃、コロニーの内乱が頻発しており、つい先日、コロニーGでも、大規模な暴動が勃発した。その鎮圧に関する会議が、開かれているのである。
 会議室のもっとも奥まった上座に席を占めるのは、むろん軍部の長、ユージィン・アフォルター軍務大臣。
 円卓を囲むのは、参謀総長始め、そうそうたる軍のお偉方連中である。
 その中で、情報部長官ヴィクトール・クリューガー中将は、いつものようにユージィンのほぼ真正面に座っていた。
 といっても、何も好きこのんで、この席に座っているわけではない。
 情報部は今でこそ、軍部内でも大きな力を持ち始めてはいるものの、数年前までは参謀本部の一部署だったに過ぎず、こういった席では、どうしても他部署の長に一歩譲る立場になる。
 もっとも、ヴィクトールが長官の座についてからの2年間で、めきめきと、誰も無視し得ない力をつけてきた情報部である。あと、2、3年もすれば、おそらく軍部内で、最も力を持つ部署になるだろうし、それとともに、ヴィクトールの権力も、とてつもなく大きなものになるだろうことは、誰の目にも明らかだった。
 だが、今のところは、まだ、情報部は参謀本部などに比べれば、弱小部署である。
 そして、また、三十一歳になったばかりのヴィクトールは、軍幹部の中では最も年若い。
 そんなわけで、こうした会議では、いつも末席に座ることになり、その結果、ユージィンから一番遠いものの、たいてい真正面に相手を見る席に座る羽目になるのである。
 ヴィクトールにしてみれば、そうでなければ、なんでわざわざ、あのいまいましい笑顔を、嫌でも見なければならない席に座るか、というところである。
 ヴィクトールは、なにやらメモをとるように、左手を動かしているユージィンの姿をちらりと見やった。
 かっちりとした軍服に包まれた身体は、どことなく線が細く、眼鏡をかけた細面の顔は軍人というよりも、学者といわれた方がしっくりくる。それも、大学の教授、などではなく、一介の講師、といった雰囲気だ。とても、軍務大臣などという顕職にある人物とは思えない。
 居並ぶ面々が、ヴィクトールをのぞいては、ユージィンより年上であることもあって、その物腰は非常に柔らかく、暴動鎮圧という、物騒な議題について話しているとは思えないほど、表情も柔和だ。
 だが、この、黒髪に印象的な青緑の瞳を持つ男が、その優しげな外見の下に隠し持っている鋭い爪を、ヴィクトールほど、よく知っている者はいなかっただろう。
(まったく、相変わらず、陰険な奴だ)
 ヴィクトールはひそかに、胸の中で相手を罵倒した。
 そのとき、ふいに、青緑の瞳が、まっすぐにヴィクトールを見つめた。
「クリューガー中将、なにか、質問でも?」
 柔和な笑みが深くなり、軽く首をかしげるようにして尋ねる。
 おそらく、誰がみても、そこに悪意があるなどとは思わなかっただろう。
 だが、ヴィクトールには、はっきりとわかった。
 かすかに細められた、眼鏡の奥の青緑の瞳が、揶揄するように輝いている。
(聞こえたよ、ヴィクトール)
 まるで、そう言わんばかりだ。
「いえ、別に」
 ヴィクトールは憮然とした表情を隠そうともせず、短く答えた。
 上官に向かって言うには、失礼な物言いではある。
 だが、もう、みな、ヴィクトールのこういった態度には慣れている。
 生粋のブルー・ブラッド、軍若手の実力者の筆頭、そして、ヴィクトール自身の存在感が、それを可能にしているのだ。
「そうですか。では、次の議題に移っても?」
「どうぞ」
 淡々とかわされる言葉のやりとりの中に、ひそかに仕込まれている棘に気づくものがいるのか、いないのか。
 学生時代からの朋友であると信じられてきた二人の関係が、どうやら、それだけのものではない、というのは、そろそろ、周囲の人間たちも気づき始めていた。
 だが、そんなことは、当人たちにとっては、もはや、どうでもいいことである。
 表面的には、きわめてにこやかに接し、笑顔をかわしあうのは、別に周囲の目を気にして、というわけではない。単に、周囲に、自分の心の内をのぞかせるのをよしとしない、本人たちのプライドの高さによるところが大きいのである。
 このときもまた、ユージィンは、いつものように、にっこりと微笑んでうなづくと、視線を戻した。
「では、次に各方面に渡る影響について、聞かせてもらえますか?」
 柔らかい声が、会議室に流れ、何事もなかったように会議が続行される。
 ヴィクトールは、画面を切り替え、報告の声を聞きながら、ふと視線を感じて目をあげた。
 見れば、ユージィンがこちらを見つめている。
 思わず、眉を寄せてにらみつけると、ユージィンが意味ありげに微笑み、すいと視線をそらした。
 そのまま何食わぬ顔で、いかにもまじめに報告に聞き入っているような顔をして、メモを取り始める。
(今度は、何をたくらんでいる?)
 これだけつきあいが長ければ、いやでもユージィンの微笑みの微妙な違いがわかるようになってきている。あれは、いかにも、何かをたくらんでいる微笑だった。
 ヴィクトールは憮然として、目をそらした。
 だが、ふと、ユージィンの左手が目の隅に引っかかる。
 その瞬間、ヴィクトールは、強い既視感に襲われた。
 ビルの三十五階ではあり得ないはずの、甘い香りを含んだ風に吹かれたような気がして窓の外に目をやる。
 見えるのは、無機質な姿に人工の太陽光を反射させて林立する、ビル群だけだ。
「では、他コロニーには影響はないということですか?」
 ユージィンの、独特の美しい声が響き、その声が、ある情景を、鮮やかによみがえらせる。
(「・・・・・・沈丁花か、もう春だね・・・じゃあ、十五年後のこの季節だ・・・・・忘れたらだめだよ・・・・・」)
 優しい声が、いくぶんいたずらめいた響きをのせて、脳裏によみがえる。
 あれは、いつのことだったか。
 遠い、あまりにも遠い記憶だ。 
 だが、ヴィクトールは、幻の甘い香りに誘われるように、知らぬうちに追憶の中に引き込まれていったのだった。

目を覚ましたヴィクトールは、ぼんやりと、右手を伸ばして前髪をかきあげた。
 頭が割れるように痛く、喉がひりつくように乾いている。
 一言で言って最悪な気分だった。
 天井からすると、どうやら寮の自分の部屋だ。
 室内が、明るいところを見れば、もう、朝のようだった。
 だが、とにかくだるく、胸がむかついて、何もする気がおきない。
「おはよう」
 不意に、降ってきた柔らかい声に、ぎょっとして、そちらを見上げた。
 そこにあったのは、いつもの、見慣れた笑顔だった。
「・・・・ユージィン?」
 ユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「おはよう、ヴィクトール」
「・・・・・おはよう・・・・」
 ヴィクトールは、つぶやくように答えながら、ぼんやりと頭をふった。
 まだ、頭の芯が覚めていない。
「・・・・何時だ?」
「九時だよ、朝の」
「授業は・・・!」
 あわてて起きようとしたヴィクトールを、ユージィンはあきれたように眺めた。
「・・・今日は、日曜だよ。まだ酔ってるのかい?」
「え?」
 ヴィクトールは、眉を寄せた。
 次第に記憶が戻ってくる。
 そういえば、昨日は、ユージィンと街に繰り出したのではなかったか。
 そうだ、そして、ユージィンの挑発にのって、飲み比べを始めたところまでは覚えている。
 ヴィクトールは、再び、むかつきを覚えて、うなった。
「まったく、君は酒癖、悪いよね。君を抱えて戻ってくるこっちの身にもなってくれ」
「・・・・おまえが、挑発するから悪い」
「挑発なんかしてないじゃないか。ただ、君の赤くなった顔が可愛いって言っただけだろう?」
「それが挑発だっていうんだ!」
 ユージィンは、くすくすと笑った。
「君、けっこう酒、弱いんだよね、実は」
 ヴィクトールは、思いきり嫌な顔をした。
「おまえと比べるな。普通で言ったら、おれは強い方なんだぞ。まったく、あれだけ飲んで、何ともないおまえが変なんだ」
 ヴィクトールは、心底、げっそりしたように言う。
 ユージィンはおもしろそうに、それを見やると、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「飲むかい?」
 ヴィクトールは、何も言わずに、ひったくるように奪い取った。
 一気に、水を喉に流し込んで、一息つく。
「寝たのか?」
「もちろん。君をここまで運んだ後、自分の部屋に戻ってね。で、起きてシャワー浴びて、たぶん君は、死んでるだろうなあ、と思って来てみたんだよ」
「・・・・・・信じられないな、まったく・・・」
 ヴィクトールは、つぶやいた。
 そして、ふと、ユージィンの左手が動いていることに気づく。
「・・・・何、やってるんだ?」
「スケッチ」
 みれば、ユージィンは、ヴィクトールのベッドの前に引っ張ってきた椅子に座り込み、せっせとスケッチブックに向かって、鉛筆を走らせている。
 ヴィクトールは嫌な予感に、眉を寄せた。
「・・・何を描いてる?」
 ユージィンは、にやりと笑った。
「君の寝顔」
「そんなもの描くな!」
 ヴィクトールは、あわてて、スケッチブックを取り上げようとした。
 だが、ユージィンは、素早く、伸びてきた腕をかわした。
 そして、また鉛筆を走らせる。
「君の寝顔、かわいいよねえ」
「冗談じゃない! やめろよ!」
「いいじゃないか、減るもんじゃなし」
「減る!」
「へええ、器用な顔だねえ」
 ヴィクトールは、ユージィンに飛びかかった。
「ちょっ・・・と・・・あ、痛っ! ヴィクトール!」
 ヴィクトールは力にまかせて、暴れるユージィンの腕をつかみ、スケッチブックに手を伸ばす。
「よこせ!」
「い、・・たっ・・・・・痛いって!」
 ヴィクトールはやっとのことで、ユージィンの身体を押さえつけ、スケッチブックをとりあげた。
 だが、一目見て、思わず唸る。
 そのスケッチは、ほとんど完成しかかっており、シーツに沈み込むようにして無防備に眠るヴィクトールの寝顔が、リアルなタッチで描かれていた。ラフなスケッチだが、今にも寝息が聞こえてきそうだ。
「可愛いだろ」
 押さえ込まれながらも、ユージィンが、にやにやと笑っていうのを睨みつける。
「可愛い可愛い言うな。男に向かって、それは失礼だぞ」
「だって、しょうがないじゃないか。実際、可愛いんだから」
 ヴィクトールはむっと、黙り込み、ページをぱらりとめくった。
 そこで、絶句する。
「・・・・どう? けっこういい出来だと思うんだけど」
 ヴィクトールの手がゆるんだ隙に、すばやく逃げ出したユージィンは、つかまれていた手首を痛そうにさすりながらも、いくぶん、意地悪そうに笑って言った。
 そこには、ヴィクトールが、裸の上半身も露わに眠る姿が描かれていた。
 腰から下は毛布にくるまっているものの、毛布から少し出ている右足も露わになっているところを見ると、おそらく下着一枚で眠っているのだろう。
 みるみるうちに、ヴィクトールの頬が赤く染まる。
「いつの間に!」
「だって、君、飲みに行くたびに酔いつぶれるじゃないか。それを、なんとかベッドに押し込むのは、誰の仕事だと思ってるんだい? 靴を脱がせて、しわになるから、制服も脱がせて・・・・・・本当に大変なんだよ。いつの間にも、何も・・」
 ヴィクトールは、あわてて自分の姿を見おろした。
 だが、今は、ちゃんと制服のワイシャツを着ている。
「あ、昨日は、ちゃんとは着せたままにしておいたよ。ちょっと肌寒そうだったからね」
 ユージィンが、無邪気に、にっこりと微笑む。
 ヴィクトールは絶句し、絵をもう一度見おろして、さらに頬を赤らめた。
「なぜ、こんなものを描く!!」
「だって、絵心をそそられたんだよ。しょうがないじゃないか」
 ユージィンが、また、にこにこと微笑む。
 その邪気のない笑顔に、ヴィクトールは何も言えなくなる。絶句したまま、あわてて、次のページをめくった。
 そこにも、さらに寝姿が描かれていた。
 枕を抱きしめるようにして眠っている姿、楽しい夢でも見ているのか、なにやら微笑みを浮かべて眠っている顔・・・・・。
 ヴィクトールは真っ赤になりながらも、次々とページをめくっていった。
 そのほとんどのページを埋めるのは、ヴィクトールの姿だった。
 寝ている姿も、まだまだある。だが、それだけではなかった。笑う顔、きまじめな表情を浮かべて、何かを考えているような顔、横顔、振り返った顔、歩く姿、走る姿、バスケットボールのまねごとをしている姿・・・。
 中には、どう考えても、実技の時間にスケッチしたとしか思えないようなものもある。おそらく、教室の窓から校庭を見おろして、実技の授業を見ていたのだろう。
「・・・・・・」
 ここまでくると、もはや、怒る気もしない。
 ヴィクトールはあきれた顔で、ユージィンを見やった。
「・・・・・・・・こんなに、おればかり描いてて、楽しいのか?」
 ユージィンは、驚いたように目を見開いた。
「楽しいよ。前に、言っただろう? 君は、実に絵心を誘うってね。それに、おれは美しいものが好きだとも言ったよね。君を見ていると飽きないんだよ。いくらでも描きたくなるんだ」
 そう言うと、ヴィクトールを見つめて微笑む。
 ヴィクトールは、なんとなく、反応に困り、無言でスケッチブックに目を落とした。
「・・・今、照れてるだろう?」
 ユージィンが、ヴィクトールの顔をのぞきこむようにして、言った。
「照れてない!」
「照れてるよ。おれは君の表情を読むことにかけては、自信があるよ。だって、君の顔をおれほど知ってる奴はいないからね」
 ユージィンは、笑いながら言うと、ひょいとスケッチブックを取り返した。
「まあ、だから、そういうわけで、君の寝顔を描かせてもらうよ」
「!! それとこれとは、話が別だ!」
 ヴィクトールは、あわてて、また手を伸ばした。
「ほら、それに、君、アンゲリカ嬢と結婚した暁には、夫婦の等身大の肖像画を描いてくれ、って言ってたよな。それなら、今から練習しておかないとね」
「寝顔の練習など必要ないだろうが! だいたい、決まったわけでもないし、そうなったとしても、まだ先の話だぞ。今の顔を描いたところで・・・」
「甘いなあ、ヴィクトール」
 ユージィンは、ヴィクトールの言葉を遮ると、にっこりと微笑んだ。
「・・・・おれはね、たぶん、今、君の未来の顔を描けって言われても描けるよ」
 ヴィクトールは、目を見開いた。
「まさか」
「本当だよ。さっき言っただろう? おれは、君の顔を知り尽くしているんだよ」
 そう言うと、ユージィンは、微笑んだまま、すっと手を伸ばした。
 そして、ヴィクトールの頬にそっと触れた。
「この輪郭、額の形、眉の形、鼻の形、唇の形・・・・・瞳の微妙な色合いも、そこに光が当たった時にどんな色になるかも、肌の色も、もちろん髪の色も・・・・・」
 そこで、手を軽く動かして、ヴィクトールの髪に指をからめた。
「この髪の毛の意外な柔らかさも・・・・・何もかも、おれは、知っている。そして、ここに浮かぶ、いろんな表情も知っているよ。君本人よりも、ずっとよく、この顔を知ってるんだ。確かに成長すれば、頬の線やあごの線は変わる。でも、基本的なパーツの形は、変わらない。だから描けるよ。たぶん、そう違わないと思うよ」
「・・・・・・・嘘だろう?」
「嘘じゃないよ。・・・・・描いてみようか?」
 そう言って、しげしげとヴィクトールの顔を眺める。
 そして、おもむろにスケッチブックを抱えると、新しいページを開き、鉛筆を走らせ始めた。
 左手がなめらかに動き、様々な線が、白紙の上に描き加えられていく。
 その様子をヴィクトールは、感心して眺めていた。
 ヴィクトールは自慢ではないが、絵は皆目、描けない。
 幼年学校などで、描かされたことはあるが、子供ごころにも、自分に絵心がまったくない、ということくらいは、わかったほどの腕である。
 こうして見ていると、ユージィンの手の動きは、まったくよどみがない。
 そして、線一本とってみても、まったく無造作に描いているようでいて、それが、もう、たとえばヴィクトールが描く線とは、もう、根本的に異なる、なにか表情のようなものを持っているのである。
 ユージィンは、すっかり没頭している。
 その青緑の瞳は、何かに夢中になっている時に、いつもそうであるように、熱っぽい輝きをおびてヴィクトールとスケッチブックを交互に動く。
 ヴィクトールは苦笑し、ベッドにおとなしく座ったまま、モデル役を務めた。
 初めて、ユージィンの絵のモデルになった時は、照れくささがあったものの、今では、そうやって見られ、観察されることに、心地よささえ感じるようになっていた。
 むろん、それは相手がユージィンだからだ。
 ヴィクトールは、自分がユージィンに傾けている愛情が、並々ならぬものであることは、よくわかっていた。そして、この、愛してやまぬ親友が、自分に関心を持ち、情愛を傾けてくれているということに、どれだけ自分が喜びを感じているかも、よくわかっていた。
 だから、こうやって、自分を見つめ、観察し、絵に描きとっていくユージィンを見るのは好きだった。自分がユージィンの関心を独り占めにしているのだ、ということに、えもいわれぬ喜びを感じるのだ。
 それが、昔の自分ならば、ばかばかしい、の一言で切り捨てたような、子供っぽい独占欲であることもよくわかっていたが、それすらも、もう、気にならなかった。
 とはいえ、ユージィンの自分に対する想いが、アルトゥールが自分に向けていた愛情とは、全く質も程度も異なるものであるのは、よくわかっていた。はっきり言えば、アルトゥールほどの愛情は、望むべくもない。なんといっても、ユージィンはふつうの人間なのだ。
 だが、アルトゥールが自分を愛するのは、当たり前のことだった。ユーベルメンシュとはそういうものなのだから。
 だが、ユージィンは違う。
 ユージィンは、その自由意志でヴィクトールを友人として認め、愛してくれる。
 そう考えると、いつもヴィクトールは、この上ない幸福感に包まれるのだった。
「できた」
 ユージィンが、満足げにつぶやいた。
 そして、スケッチブックを持ち上げて、ヴィクトールに見せる。
 描かれているのは、二十代前半くらいの青年だった。
 広い肩幅を持ち、均整のとれた体つきをした青年が、腕を組んで立ち、照れたような笑みを浮かべてこちらを見上げている。
 唇にかすかに微笑みをたたえ、切れ長の目をわずかに笑みに細めたその顔は、確かにヴィクトールの顔立ちだった。だが、頬の線はシャープになり、唇も薄く引き締まり、すっかり大人の男の顔になっている。
「どう?」
 ユージィンが、首をかしげて聞く。
 ヴィクトールは、面映ゆそうに小さく笑った。
「・・・・・・これが、おれか?」
「そう。たぶん、あと数年したらこうなるよ。本当にいい男だよね、君は。早く、こんな君が見たいよ。きっと、ますます描きたくなるだろうな」
 ユージィンは感嘆を込めていい、だが、そこで、不意に、にやりと笑った。
「まあ、この可愛い君が見られなくなるのは、残念だけどね」
「だから、可愛いと言うなというのに!!」」
 ユージィンはくすくすと笑った。そして、鉛筆を持った左手を挙げてみせると
「ね? 描けただろう?」
 勝ち誇ったように、笑った。
 その笑顔に、ヴィクトールは、なんとなくむっとして、ユージィンを軽くにらんだ。
「だが、本当におれがこうなるとは限らないじゃないか」
 ユージィンは、肩をすくめた。
「それはそうだよ。君が、ものすごく太ったら、こうはならない」
「ユージィン!!」
 ユージィンは楽しそうに笑って、ぐいと伸びてきた腕をひょいとかわした。
「そう、それにね・・・・・君の性格が変わらなければ、っていう条件付きだ」
 ヴィクトールはそこで、いぶかしげに、振り上げた腕を空中で止めた。
「・・・・・性格?」
「そう。性格ってのは、顔にでるんだ。だからね、これはあくまでも、今のまま、君が成長すればこうなるっていう絵だ」
「・・・・・そういうものか?」
「そういうものだよ」
 ユージィンは、いくぶん素っ気なく言うと、スケッチブックを自分の方に向けた。
「まあスケッチをするときは、目の前にあるものを正確に写し取っていくわけだけど、とくに人物画の時はね、表情をつけるだろう? それは、ただ写し取るだけだと、なんていうかな、生きてないんだよ。その表情をするからには、何か理由があるわけだ。それを考えて、というか、それをくみ取って描かないと、なんとなくぼんやりした絵になる。まあ、もっとも、いつもそんなことを考えてるわけじゃないけど、そういうもんだと思うよ」
「・・・・・・そうなのか」
「うん。だからね、極端に言うと、たとえば君の外見をスケッチで写しとるだろう? あとは、君の性格を考えたり、いつも観察をして表情を見たりしておけば、絵は描けることになる。まあ、簡単に言えばね。だから、こういうこともできるし、あるいは、逆に、あと何年後かに、いまの十六歳の君の顔もたぶん描ける」
「・・・・それは、さすがに無理だろう?」
「そんなことないよ。たぶん、描けるよ。君が浮かべる表情はきっと覚えているし、それに、君の性格もわかってるつもりだしね。それにね、外見に関しては、これだけ描いていれば、たとえちょっとくらい記憶が薄れても、たぶん、この手が覚えてると思うよ」
 ユージィンはそう言って、鉛筆を持った左手をあげてみせた。
「・・・・まさか」
 ヴィクトールは疑わしげに、ユージィンの、いかにも絵筆の似合う繊細な指を見つめた。
「なんだい? 信用しないのかい? じゃあ、賭けようか」
 ユージィンが、いたずらっぽく微笑んだ。
「賭ける?」
「うん、たとえば、そうだな、十五年後。おれが君の十六歳の顔を描けるかどうか」
「・・・写真を見れば、描けるじゃないか」
「見ないで描くさ。その時の君を前に置いて、描いてみせればいいだろう?」
「・・・・・」
「十五年後だから、君は三十一歳だよねえ。おれは三十三だ・・・・・・なんだか信じられないけどね」
 ユージィンは、少し照れたように笑った。
「どう? おれが描けたら、おれの勝ち。描けなければ、あるいは全然、違ってたら君の勝ち」
「本当にやるつもりか?」
「もちろん。おもしろいじゃないか」
「・・・・賭けるって・・・・・何を賭けるんだ?」
 ユージィンは、椅子に寄りかかって考え込んだ。
「そうだなあ・・・・・・」
 やがて、ふと、その頬にいたずらめいた笑みが浮かんだ。
「・・・・負けた方が、勝った方の言うことを三つまできく。どう?」
 ヴィクトールは、あきれたようにユージィンを見やった。
「・・・子供じゃあるまいし、なんなんだ、それは」
「いいじゃないか、別に。だって、三十三才の自分なんて想像もつかないよ。君だってそうだろう? だから、その時に考えた方がいい」
 ヴィクトールは、しばらく考え込んだが、やがて肩をすくめた。
「・・・・まあ、いいが・・・・・本当に、やるのか?」
「・・・往生際、悪いよ、ヴィクトール。だって、君は、おれができないと思うんだろう?」
 ユージィンは、にやにやと笑って、ヴィクトールの顔をのぞきこんだ。
「そんなことが、できるわけがない」
 ヴィクトールは、むっとして言った。
「じゃあ、いいじゃないか。やろうよ。おれが負けたら、ちゃんと君の言うことを三つまできくよ」
 ヴィクトールは、あきれたようにユージィンを見たが、そのからかうような笑みを見ると、もう一度肩をすくめてうなずいた。
「・・・・・いいだろう」
「じゃあ、決まりだね」
 ユージィンは、にっこりと笑った。
 そのとき、窓から、ふわりと暖かい風が、吹き込んだ。
 風に運ばれてきた、ほのかに甘い香りが室内を満たす。
「・・・・・沈丁花か・・・・もう、春だね」
 ユージィンが、穏やかに言って微笑み、窓の外に目をやった。
 ヴィクトールも、なんとなく、それにつられるように目を外に向ける。
 静かで穏やかな朝。
 寮の七階から見える空は広い。
 柔らかい空色と、ふわりと浮かぶ雲。
 空気は、春特有の甘さを含み、漂うような風が、肌の上を優しくすべる。
 何もかもが、穏やかで、優しげで、うっとりするような心地よさにあふれていた。
 そして、また、自分の前で、きれいな笑顔を浮かべて、窓の外を眺める親友の姿も・・・・・・。
 というよりも、その姿があるから、世界のすべてが明るく、優しく見えるのかもしれなかった。
 心の底まで、暖かくなるような気がして、ヴィクトールは目を細めた。
 やがて、ユージィンが振り向いた。
「じゃあ、十五年後のこの季節だ。おれは君の今の、つまり十六才の絵を描く。それが描けたら、おれの勝ち。描けなければ君の勝ち。いいかい?忘れたらだめだよ」
 十五年後。
 それは、想像もつかないほど、先の話だ。
 自分はどうなっているだろう?
 アンゲリカと結婚し、アフォルターの総帥になっているだろうか?
 おそらく、そうなるだろうとは思う。
 自分には、それができるだろうと思う。
 だが、それはあくまでも、おそらく、に過ぎない。
 不透明な未来像でしかない。
 しかし、確かなことが一つだけあった。
 それは、今、自分の前で微笑むこの親友は、十五年後でも、常に自分の傍らにいるだろうということだった。
 そして、今と同じように、優しく微笑んでヴィクトール、と呼んでいるだろう。
 それは、何とも言えぬ甘さと幸福感をもたらす未来像だった。
「それはこっちのセリフだ」
 ヴィクトールは、ユージィンを見つめて笑った。
「おまえこそ忘れるなよ。そのときになって、なかったことにしてくれ、って言ってもだめだからな」
「言わないよ」
 ユージィンは、自信ありげに微笑んだ。
 そして、また、スケッチブックをとりあげると、新しいページを開いた。
「というわけで、おれはさっそく練習に励むとするよ。じゃあ、ヴィクトール、服、脱いでくれ」
「・・・・な?!」
「一応、ヌードも練習しておかないと」
「ユージィン!!!」

「では、もう、質問はないですか?」
 優しい声に、ヴィクトールは、はっと我に返った。
 さまよわせた視線が、無機質な会議室と軍服姿の男たちを捉える。
「では、今日の会議はここまで、ということで。それぞれの部署に戻り、対策を練ってください。その結果を、明後日、持ち寄っていただき、再度、検討します。では、解散」
 ユージィンが、そう言って立ち上がると、会議室に居並ぶ面々も、ざわめきながら立ち上がった。
 そして、思い思いに敬礼をしては、会議室を出ていく。
 ヴィクトールは、それを見やり、軽くため息をついた。
 考えごとをして、仕事をおろそかにするなど、まったく自分らしくなかった。
 もっとも、この会議の内容はあらかじめ、ほぼ把握しており、ヴィクトールにとっては出る必要もないものだったが、それにしても、会議中にぼんやりとするなど、まったく自分らしくない。
 しかも、それが追憶に浸っていたなど、ばかばかしいにもほどがあった。
 ヴィクトールは、幾分荒々しい動作で立ち上がると、ユージィンの方を見もせずに、おざなりに敬礼をして会議室を出ようとした。
「クリューガー中将」
 そこへ、不意に、柔らかい声がかかった。
 ヴィクトールは反射的に、眉を寄せ、だが、すぐに無表情に戻ると、声の主を振り返った。
 自分の席に座ったユージィンが、にこやかに微笑んで、こちらを見上げている。
「少し、いいですか?」
 ユージィンが公の席ではいつもそうするように、穏やかに言った。
「はい」
 ヴィクトールは無表情のまま、ユージィンに歩み寄った。
 それへ、ユージィンが、なにやら四つ折りにした紙を差し出す。
「これを」
 ヴィクトールはいぶかしげに、手を伸ばし、それを受け取った。
 そして、無造作に開き・・・・・・・絶句した。
 声をあげなかったのは、情報部長官の面目躍如というところか。
 ユージィンは、穏やかに微笑んだまま、その様子を見ている。
 おそらく、はたから見れば、部下に指示を出した上官という図にしか見えないだろう。
 だが、ヴィクトールは、その青緑の瞳が、楽しくて仕方がないというように、きらめいているのを、もちろん、見逃しはしなかった。
 ユージィンは、ヴィクトールと目が合うと、にっこりと微笑んだ。
「では、そういうことで。お疲れ様でした、クリューガー中将」
 そう言うと、身軽に立ち上がり、身を翻して部屋を出ていく。
 その後ろ姿を呆然と見送って、ヴィクトールはもう一度、手渡された紙に目を落とした。
 それは、一枚のスケッチだった。
 描かれているのは、屈託なく笑う、一人の少年だ。
 この上なく幸せそうな、なんの影もない、心からの笑みを浮かべる少年。
 それは、まぎれもなく、自分だった。
 自分でも、ほとんど覚えていないが、確かに自分の少年時代の顔だった。
(・・・十五年後のこの季節に。約束だよ・・・)
 では、ユージィンはあの約束を覚えていたとでも言うのか?
 そして、描いたとでも?
 先ほどの会議で、ユージィンの左手が、動いていたのを思い出す。
 そういえば、ユージィンは字を書くときは右手ではなかったか。
 銃などは右手で扱い、絵を描くときだけ左手だったはずだ。
(・・・・何を考えているんだ、あいつは)
 ヴィクトールは心の内でつぶやいた。
 が、ふと、その時、紙の隅に、なぐり書きのように記された文字に気づいた。
『賭けは私の勝ちだ。三つだよ。これから考える。楽しみに待っていてくれ  ユージィン』
 ヴィクトールは、思わず唸ると、手を震わせた。
 そうだった。賭けをしていたのではなかったか。
 それを、あのユージィンが忘れるわけがないではないか。
 そして、賭の取り立てを忘れるような、かわいげのある性格もしてない。
「・・・あの野郎・・・・・・・・」
 ヴィクトールの唇から、ブルー・ブラッドらしからぬ言葉がもれ、そのまま紙を握りつぶそうとした。
 が、そこでふと手をとめ、スケッチに目を落とす。
 久しぶりに見る、ユージィンの絵だった。
 昔、自分が、ユージィンの絵がとても好きだったことを思い出す。
 ただ、巧いのではない。
 そこに描かれた人物の気持ちが、その喜びやうれしさはもちろん、その心の奧に抱えている痛みや哀しさまでも、感じ取れるような気がする絵で、絵など皆目わからぬはずの自分も、ユージィンの絵を見ていると、なぜか、楽しくなったり、せつなくなったりしたものだった。
 そこに描かれた自分は、いかにも少年らしく満面の笑みを浮かべ、視線の先にいるのであろう誰かに、信頼と愛情にあふれた視線を投げている。そして、その視線の向かうところは、どう見ても、この絵の描き手だ。
 それはそうだろう。
 自分がこんな笑顔を向けたことがあるのは、二人しかいない。
 アルトゥールとユージィン。
 それだけだ。
 そして、その二人とも、もう、とうの昔に喪われた。
 半身は、この世から喪われ、そして、親友は・・・・始めから幻だった。
 そして、その喪失とともに、自分のこの笑顔も、永久に喪われたのだ。
 かすかに胸に走った痛みは、喪ったものへの哀惜の情なのか、それとも単に、過ぎゆく時へのせつない感傷なのか・・・・・・。 
 ヴィクトールは、軽く頭を振った。
 まったく、らしくもないことを考えたものだ、と、思わず自嘲の笑みをもらす。
 そして、もう一度、スケッチをしげしげと眺めた。
 では、本当にユージィンは十五年前の自分の顔や表情を、絵に写し取れるほどに覚えているわけなのか。
 そして、不意に、脳裏に浮かび上がった、青緑の瞳をした友人の美しい笑顔に苦笑する。
 自分も同じだった。
 もう、十五年も昔のことだというのに、あのころのユージィンの笑顔や仕草は、まだ、はっきりとヴィクトールの心に刻み込まれているのだ。
 ヴィクトールは、もう一度首を振ると、今度こそスケッチを握りつぶした。

END

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