日だまりは遠く……≪日だまりの中で エピローグ≫

 宴はたけなわだった。
 グラスと氷の触れ合う音、女たちの香水の香り、あちこちで響く華やかな笑い声。
軍人主催のパーティだけあって、女性の姿は少なく、軍服姿の士官が目立つ。
 その中を、ユージィン・アフォルター少将は、いつものようににこやかな笑みを浮かべ、巧みな話術で相手を魅了しながら、精力的に動き回っていた。
ユージィンの現在の肩書きは、少将である。
 これは、その年齢としては、前例のない出世だろう。
 だが、それでも、自分の位置が、決して安心できるものではないことを、本人ほどわかっている者はいなかった。
 アフォルターの婿養子ではあったが、まだ、後継者となるべき子はいない。
 そして、反アフォルターの勢力は、ますます、その力を持ち始めている。
 いつ足元をすくわれるかわからない、危険な状況にあることは、百も承知だった。
 そんなユージィンにとって、こうしたパーティは、絶好のチャンスだった。
 にこやかに微笑みかけてくる者の本音を探り、敵と味方に振り分けていく。
 そして、必要とあれば、味方に引き入れ、時には、えさをばらまき、敵に尻尾を出させる。
 さりげない言葉の端々に、甘い蜜と棘を潜ませ、巧みな話術で相手にそれとわからせないまま、その反応をさぐる。
 ユージィンにとっては、それは、空気を吸うのと同じくらい自然なことだった。
 だが、そうは言っても、やはり疲れを感じることはある。
とくに、連日パーティが続き、休む間もないとなれば、なおさらだった。
「あそこのコースはおもしろいよ。攻めどころ、守りどころがむずかしい。東コースの6番は打ちおろしのミドルホールなんだが、先週……」
 得意のゴルフ話を披露する陸軍中将に適当に相槌をうちながら、ボーイの運んできたカクテルをトレイから取る。
 さりげなくグラスを口に運び、思わず漏れた吐息を隠した。
「……風の向きが問題なんだよ、あそこは。かといって風向きばかりうかがっていたらいいショットは打てない。時には風と喧嘩したほうがいいこともある」
「なるほど……女性の扱いと同じですね」
 ユージィンの言葉に、中将は、わが意を得たりとばかりに声をたてて笑った。
「いい事を言った。まさにその通りだよ。さすが少将だ。うまく風を操っているんだろうね」
 含みをもたせた言い方に、周りで聞いていた士官たちが笑う。
「わたしは臆病者ですから、風とは喧嘩しませんよ。風向きばかりうかがってます。中将とは違いますよ」
「そんなことはないだろうに。よし、今度、一緒にコースを回らないかね?君となら楽しそうだ」
 そこで、にやりと笑うと、顔を寄せた。
「お望みなら、そのあとで、喧嘩できる風も紹介するぞ」
 ユージィンは、困ったように笑ってみせた。
「ゴルフは是非。ですが、風の方は……私には荷が重すぎますので」
「なにを言っているんだね。君はいくつだ。私は……」
 嬉しそうに、女性関係の話を始めた中将に適当に話を合わせながら、さりげなく会場に目を走らせる。
誰と誰が話しているか、どんなグループができているかを目に焼き付け、その勢力図を冷静に分析する。これもまた、重要な情報だった。
 そのとき、ふと、わずかに大きくなったざわめきに気づき、頭をめぐらせた。
 ちょうど、エントランスを抜けて、一人の背の高い軍人が入ってくるところだった。
 第一礼装に身を固め、長い足をきびきびと動かして、大股に室内に入ってくる。
 だが、その顔には、こうしたパーティにはつきものの笑顔はいっさいなく、唇を引き結び、完全な無表情だ。
 ヴィクトールだった。
 ユージィンは、小さく微笑むと、凛々しい姿が人々の間を抜けて、颯爽とあるいていく様子を見守った。
 あちこちから、声がかかるのを、幾分うっとおしそうに、だが、礼は失しない程度に挨拶を返し、ヴィクトールは迷いのない足取りで歩いていく。
「ああ、クリューガー少将か。彼が来るのは珍しいね」
 中将も気づいたらしく、同じようにヴィクトールに目を向けていた。
「そうですね」
 言葉を返しながら、まっすぐに一人の軍人の下へ歩いて行くヴィクトールを見守る。
 おそらく情報部の上官だろう。
 ボーイが運んできたグラスを取り、にこやかに、とは言えないが、それでも、かすかな笑みさえ口元に漂わせ、なにかを話している。
(大人になったものだ)
 ヴィクトールが聞いたら、怒りのあまり卒倒しそうなことを心の中でつぶやき、ユージィンはひそかに笑った。
 ふと、そこで眉をあげる。
 ヴィクトールが、ふいに首をめぐらせるような仕草をしたのだ。
(気づいたかな)
 ユージィンは、じっとヴィクトールを見つめた。
 だが、切れ長のブルーグレイの目は、ユージィンのいる辺りを素通りしていった。
 二人の位置はかなり離れている。
 ユージィンのことが見えなくても不思議ではない。
 だが……。
 ユージィンは、注意深く、ヴィクトールの様子を眺めた。
(たぶん、気がついている)
 そう思う。
 ヴィクトールの感覚は、常人とは違う。
 自分に向けられている視線などには、敏感なはずだった。
(それに)
 ユージィンは小さな笑みを浮かべた。
 あのヴィクトールが、自分の存在に気づかないわけがない、と思うのだ。
 なぜなら、自分がいつも、そうだからだ。
 こうしたパーティに来れば、無意識のうちに、目がその姿を探している。
 そして、強いて注意を向けようとしているわけではないのに、常に、そこにヴィクトールの存在を感じているのだ。
 もちろん、時折、自分に向けられている、鋭い視線に気づくこともある。
 もっとも、それで振り向いたところで、ヴィクトールの視線は、すでに外されており、目が合うことなど決してないのだが、それでも、ブルーグレイの瞳が、一瞬前まで、暗い熱を込めて、自分に向けられていた、と確信をもっていえるのだった。
 皆の話が仕事の話に変わったのをきっかけに、ユージィンは、中将に小さく声をかけた。
「中将、少し、上官に挨拶をしてまいります」
「ああ、行ってきたまえ。さっきの話、忘れるなよ。今度、コースを回ろう」
「是非。楽しみにしております」
 上機嫌な中将に、軽く頭をさげ、その場を離れ歩き出す。
 とはいえ、挨拶をしてくる、といったのは単なる口実で、今日のパーティでやるべきことはすでに終わっていた。
(もう帰るか……)
 挨拶と笑顔を振りまきながら、人々の間を抜けていく。
 視界の隅にヴィクトールをとらえ、目を向けると、いつの間にか、何人かがその周りに集まっているのが見てとれた。
 ユージィンはすばやく、そのメンバーの顔を頭に刻み込んだ。
 そして、再び、ヴィクトールを見つめてみる。
 だが、ヴィクトールは、まったく、こちらを見ない。
 ユージィンは、心の中で、ひそかに笑った。
「ユージィン」
 不意に声をかけられ、ユージィンは振り向いた。
 そこに立っていたのは、パーティ用のダークスーツに身を固めたカール・マッソウだった。
 とっさに、極上の笑みを浮かべる。
 マッソウは、さりげなく視線でうながすと、ユージィンを人の少ない壁際に連れ出した。
「帰るのかね?」
「ええ……少し疲れまして」
 苦笑したユージィンに、マッソウは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「君でも疲れるのか」
「ひどいですね。人間ですよ、わたしも」
「どうだかな」
 マッソウは軽く笑うと、周りに聞えぬよう、声を落とした。
「今晩は、どうする?」
 ユージィンは、すまなそうな顔をわずかにうつむけた。
「すいません……明日、かなり早いので……」
「……そうか」
マッソウの声音に、明らかな落胆が混じる。
ユージィンは、すばやく小さな笑みを浮かべると、早口でささやいた。
「明日の夜はどうですか?」
「……とくに予定はないが」
「では、明日の夜、うかがっても?」
「……いいだろう」
 マッソウは、満足げにうなずいた。
 意味ありげに、頬に刻まれた微笑。
 ユージィンは、一瞬、こみあげた嫌悪感を押さえ込み、小さく微笑んだ。
「……では、明日」
 マッソウは、小さくうなずくと、身を翻した。
その後ろ姿が、視界から消えると、ユージィンは、小さく息をついた。
 そして、首をめぐらす。
 だが、先ほどの場所に、求める姿は見つからなかった。
 さりげなく、人々の集う室内に視線を走らせる。
 だが、いない。
(……帰ったのか……)
 パーティ嫌いのヴィクトールが、義務だけ果たして、さっさと帰ることは、十分、あり得ることだった。
 ユージィンは、肩をすくめると、大きく開かれた扉を抜け、エントランスホールに出た。そこにいたボーイに車を回すように頼もうとして、ふと、足を止めた。
 エントランスホールに、こちらに背を向けて立つ、すらりとした後ろ姿がある。
 ヴィクトールだった。
 ほぼ同時に、ヴィクトールが振り向く。
 その凛々しい眉が、一瞬でぐいと寄せられ、ユージィンは心の中で苦笑した。
「ヴィクトール、もう帰るのかい?」
 にこにこと微笑んで話しかけ、横に並ぶ。
 そして、顔を寄せると、小さく囁いた。
「……怖い顔しない。人に見られるよ」
 ヴィクトールが小さく舌打ちをするのが聞こえる。
 だが、一瞬でその顔は、さすがに笑顔にはならなかったものの、普通の同期入隊の知己に向ける程度の表情にはなっていた。
「そうそう、それでいいよ」
 ユージィンが囁くと、ヴィクトールの瞳の奥に剣呑な光が走った。
「だって、君と私は朋友ってことになってるんだから」
 ユージィンはそう囁くと、にっこりと笑った。
 ヴィクトールは、嫌そうに唇をわずかに歪めた。
「……なにか用か」
 押し殺したような声でヴィクトールが言う。
「ああ、いや。私も、もう帰ろうかと思ってね。出てきたら君がいた、それだけだよ」
「ちがう。さっき、見ていただろうが」
 ユージィンは、眉をあげ、苦笑した。
「なんだ……やっぱり気がついていたのか。人が悪いな」
「あれだけ、しつこく見られれば、嫌でも気づく」
「嫌でも……ねえ。相変わらず、冷たいな」
「で、何か用か」
 ぼやくように言ったユージィンを無視して、ヴィクトールは冷たく言った。
「別に、用はないよ」
ユージィンは、にこにこと笑った。
「……なんだと?」
ヴィクトールの声に剣呑な響きが混じる。
「ただね、ちょっと、昔を思いだしてたんだよ」
 ユージィンの言葉に、ヴィクトールの眉が、不快そうに寄った。
 過去の話を持ち出されると、必ずする表情だ。
「昔、君は、しょっちゅう、わたしのことを、目で追ってたなあ、と思ってね」
「誰がそんなことをするか!」
 思わず声をあげたヴィクトールに、ユージィンはあわてて囁いた。
「ヴィクトール、声が高いよ」
 ヴィクトールは、唇を引き結ぶと、エントランスを抜け、庭に足を踏み出した。
 ユージィンはそれを追いかけながら、からかうように言った。
「してたよ。すごく、かわいかったなあ、と思いだしてたんだよ」
 ヴィクトールは何も言わず、庭の奥へと歩いていく。
 ところどころに、明かりのともされた小道を歩き、パーティ会場の喧騒もほとんど聞こえない辺りまで来たところで、ヴィクトールは唐突に足を止めた。
 振り向きざま、その手が、ぐいと伸び、ユージィンのネクタイをつかんだ。
「だまれ」
 だがユージィンは意に介した様子もなく、続けた。
「なつかしいよね。あのころは、君も・・・」
「黙れと言っている!それ以上、言ったら、しばらくそのへらず口をたたけないようにしてやる」
 ヴィクトールが、ささやくように言う。
 その声には、慣れない者が聞いたら震え上がりそうな怒りが込められており、さすがのユージィンも、口を閉じた。そして、苦笑すると、両手を上にあげた。
「……怖いな。君は本当にやりかねないからね」
「当たり前だ」
 ヴィクトールは、ユージィンのネクタイをつかんだまま、続けた。
「いいか、一つ言っておく。あの頃のことは、すべて、貴様の呪われた瞳が操ったことだろうが。おれが、何をしたとしても、それは、おれ自身がそうしようと思ったわけではない」
「……本当に、そうかな?」
「あたりまえだ!」
 ヴィクトールは、吐き捨てるように言った。
「その目がなければ、おれは、貴様など、名前すら知らないで済んだ。そのことをよく覚えておけ」
 言い捨てると、ユージィンの身体を突き飛ばす。
「相変わらず、扱いが悪いな」
 ユージィンは、ネクタイを直しながら、ぶつぶつとつぶやいた。
 だがヴィクトールは、ユージィンのぼやきなど聞いていなかった。
「もう一つ、言っておく。用もないのに、こっちを見るな。うっとおしい」
「ひどいな」
 ユージィンは、苦笑した。
「君を見るくらいいいじゃないか。別に悪いことをしてるわけじゃないし……」
「貴様の場合は、見るだけで犯罪だ」
 ユージィンはくすくす笑った。
「別に力なんか使ってないよ?」
「当たり前だ。使われてたまるか。おれにまた、力なんぞ使ったら、その場で目を潰してやる」
 ユージィンは、眉をあげた。
「怖いね。気をつけることにするよ」
 ヴィクトールはふんと鼻を鳴らした。
 そして、さっと身をひるがえすと、大股で歩み去っていく。
 その後ろ姿を見送りながら、ユージィンは、苦笑いを浮かべてため息をついた。
「眼のせい、か」
 つぶやいて目を閉じると、手で両目を押さえ、軽く揉んだ。
 最近、目の疲れが酷くなってきた。
 といっても、最近は、他人相手に力はほとんど使っていない。
 もう力に頼らなくても、人々を操る自信はあった。
 だが、目の疲れは一向によくならない。
 一日が終わる頃になると、激しい痛みを覚えることすらあった。
 いままで、身体を酷使しつづけてきたことのツケが回ってきたのだろう。
そう、昔、ヴィクトールを、この目の力で操った 。
 初めて視線を交わしたときに、すでに力を使っていたのだ。ヴィクトールには、抗う暇もなかっただろう。
 警戒心を持たない少年を操ることの、なんとたやすかったことか。
 ヴィクトールは、すべて自分の思い通りに動いた。
 そうだ。
 あのころのヴィクトールの姿は、この力に歪められた虚像だ。
 そして、ヴィクトールの目に映っていた自分もまた、虚像だった。
 すべてが、まやかし。
 それを、ユージィンほどよくわかっている者はいない。
 だが。
 ユージィンは、ふと、空を見上げた。
 夜空には、美しい星々がきらめいている。
 あれは、ただのホログラムにすぎない。
 母なる星、地球にすべての環境を似せた火星都市。
 それは、夜の空もまた、例外ではない。
 美しくきらめき、星座を型どり、暗い空を彩る星々。
 まやかしの、美しさ。
 だが、それでも、夜空の美しさは、人の心を打つ。
 ヴィクトールの屈託のない笑顔、そして、自分の名を呼ぶ、弾んだ声。
 まやかしに過ぎない、虚像。
 だが、それでも……。

 ユージィンは、ふと、我に返った。
 何を、くだらないことを、考えているのか、と思う。
 ばかげたことを考えた自分に、無性に腹が立ち、ユージィンは、いらいらと首を振った。
 だが、不意に、脳裏に響いた、なつかしい声に眉を寄せる。
(………『どこにも行くな』…… )
(………『これからもずっと一緒だ』……)
 その声にこめられたせつない程の想い。そして、あふれ出てきた、まだ柔らかい頬をした少年の心の声。
(『一人は、もう、嫌なんだ………!』)
 ユージィンは、拳を握りしめ、思い切り、爪を手のひらに食い込ませた。
(どうかしている……)
ユージィンは、もう一度首を振ると、庭を通り抜け、エントランスへ向かった。
 車寄せに行くと、すでにアフォルターの車が待機していた。
 ボーイが開けたドアから、車の後部座席に乗り込む。
「ご自宅でよろしいですか?」
「ああ、頼む」
 運転手の問いに、ネクタイを緩めながら答え、だが、ふと、その手を止めた。
「……いや、2区へ」
「かしこまりました」
 淡々と言い、運転手が車を発進させる。
 ユージィンは、深い吐息をつくと、ゆったりとシートに身を預けた。

 インターフォンを押すと、ややあって、中から、驚いたような声がスピーカー越しに聞こえてきた。
「ユージィン?」
「……はい……突然、すいません」
「いま、開ける」
 かちり、と音がして、ロックがはずれる。
 ユージィンは、通用門をくぐりぬけ、暗い庭をつっきる歩道を歩いていった。
 やがて、前方に明るく照らし出されたエントランスがあらわれる。
 その両開きのドアの横に、腕を組んで立つマッソウの姿があった。
 帰ってきたばかりらしく、ネクタイはとり、楽なようにボタンを一つ二つ、はずしているものの、ワイシャツ姿のままだ。
「よかった。お戻りでしたか」
「ああ、今、帰ってきた。どうしたんだ。さっき帰ったんじゃなかったのか」
 ユージィンの背に手を回すようにして、玄関の扉をあけながら、マッソウは言った。
「ええ……少し、手間取りまして」
「なにかあったのか?」
 マッソウの声が、かすかな警戒を帯びる。
「なにもありませんよ」
 ユージィンは、小さく笑った。
「ただ……突然、あなたに会いたくなりました」
 ユージィンと並んで、エントランスホールから2階へ上る階段に足をかけようとしていたマッソウは、そこで一瞬、身体をとめた。
 だが、すぐに軽く首を振ると、苦笑して、階段を上り始める。
「昔のわたしなら、どうだったかわからんが、さすがに君と付き合って、もう10年近いのだよ? そんな言葉に、有頂天になるとでも思うかね」
 並んで階段をのぼりながら、ユージィンもまた、苦笑した。
「ならないでしょうね」
「当たり前だ。で、本当の理由はなんだ?」
 階段をのぼりきり、一番手前の、居間に通じるドアを開けて、ユージィンを招きいれるように、マッソウは身体をずらした。
 だが、そこで、ユージィンは足をとめた。
「でも、本当なんですよ。あなたに会いたかった」
 マッソウが、軽く眉を寄せる。
 その首に腕を回すと、ユージィンは耳元にささやいた。
「……今日、泊めていただいてもいいですか?」
 だがマッソウは、手をユージィンの身体に添えるでもなく、じろりと一瞥しただけだった。
「……なにがあった?それとも、なにが目的だ、と聞くべきかな」
 ユージィンは、くすくすと笑った。
「疑り深いですね」
「きみのことは、疑っても疑っても、足りやせんよ」
「まいりましたね……本当に、何もないんですよ」
 ユージィンは、困ったような顔でマッソウを見つめた。
「ただ……わたしでも、何も考えたくなくなる時はあるんです。何も考えずに、眠りたいときがあるんですよ……これじゃあ、だめですか?」
 マッソウは、片眉をあげた。
 ややあって、皮肉めいた笑みを頬に浮かべた。
「明日は、早いんじゃないのか?」
「ああ……あれは、いいです。キャンセルしますよ」
 マッソウは、軽く肩をすくめると、ユージィンの背に腕をまわした。
「いいだろう……来たまえ」
 ささやきながら、居間の扉を閉める。
 そして、ユージィンをうながし、廊下の突き当たりにある、寝室の扉を押し開いた。
 ユージィンは、寝室に足を踏み入れながら軍服のジャケットを脱ぐと、ベッドの手前に置いてあるソファにいくぶん乱暴に投げ捨てた。
 ネクタイに指をかけたところで、腕をとられ、そのままベッドにいざなわれる。
 マッソウともつれあうようにシーツの上に倒れこみ、ネクタイをほどかれる。
 ユージィンも手を伸ばし、マッソウのワイシャツのボタンをはずしていった。
「時々、君という男がわからなくなるな」
 ユージィンのワイシャツを脱がせながら、マッソウは、つぶやくように言った。
「小ざかしい策ばかり弄するかと思えば、こんな風に……」
 マッソウはふと口を閉じた。
 そのまま黙って、ユージィンの顔を見つめる。
「こんな風に……なんです?」
 ユージィンは、自分でベルトをはずし、服を脱ぎ捨てながら言った。
 マッソウは、しばらく何かを考えるように、ユージィンを見つめていたが、やがて、首を振ると苦笑した。
「これもすべて、君の手なのかもしれないが……まあいい」
 すべてを脱ぎ捨てたユージィンの身体を、引き寄せる。
 両手をひとまとめに掴まれ、シーツに押し付けられ、ユージィンは目を閉じた。
 一瞬、脳裏に、なつかしい顔が浮かび上がった。
 頬を真っ赤に染めた少年の顔。そして、やさしく触れ合い、そっと離れた唇の、あたたかい感触。
 だが、それはすぐに、現実の、荒々しく噛み付くようなキスに、打ち消された。
 キスと愛撫に、身体が熱くなっていく。
 身体を支配しはじめた快楽の波に、ユージィンは身を任せていった。

END

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