日だまりの中で 4

 どうかしている……。
 ヴィクトールは、モニターに浮かび上がる文字の羅列を見つめたまま、小さくため息をついた。
 夕食後、まとわりついてくるような士官候補生たちの好奇の視線にうんざりしながら図書室にやってきて、用兵学の参考資料をデータベースから呼び出してみたものの、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。
 ユージィンのことが、頭から離れないのだ。
 耳に残る、いたずらっぽいささやき。
 目に焼きついている、器用にサーバをあやつっていた、細い指。
 集中しようとすればするほど、頭をよぎるのは、親友の姿なのだ。
(いったい……どうしたんだ、おれは・・・)
 ヴィクトールは、邪念を振り払おうと、首を振った。
(もとはと言えば、ユージィンのせいじゃないか!)
 頬が熱くなるのを感じながら、脳裏に浮かんだ、親友の笑顔をにらみつけた。
(あんなことをするから……!)
 そうなのだ。
 あれが、すべての始まりなのだ。
 それなのに、先ほどのユージィンときたら、まるで何事もなかったような顔で、いつものように機敏に先輩たちの間を動き回って、かいがいしく、食事係をつとめていた。
自分が、あんなに困惑し、いったいどんな顔をしてユージィンと顔を合わせればいいのか、真剣に悩んでいたというのに、ユージィンはまったくいつもと同じだった。
 次第にむかむかと苛立ちが募ってくる。
『ついからかいたくなる』
 ユージィンはそう言っていた。
 そうなのだ、ユージィンにとっては、あのキスはただの悪ふざけであって、大した意味のあるものではなかったのだ。
 先ほどの会話を思い出す。
 ――― 『そういうおまえはどうなんだ?』
 ――― 『おれ?』
 ――― はぐらかすような笑み。
 ――― 『それなりにね』
 ユージィンの意味ありげな言葉を思い出す。
 冗談めかした言い方だったが、つまりは、ユージィンはあんなキスを今までもしたことがある、ということだった。
(・・・・誰と?)
 自然とその疑問が浮かび上がる。
 だが、恋人がいる、という話は聞いたことがない。
 それに、ユージィンは休日でも、ほとんどと言っていいほど外出せず寮にこもっている。
 もし、そんな存在がいるならば、休日くらいは会いに出かけるだろうし、となると、今、恋人がいる、というのはなさそうだった。
 では、かつていた、ということだろうか?
 ユージィンは、ヴィクトールより年上だ。あり得ないことではなかった。
 いったい、どんな女性なのだろうか。
 だが、そこまで考えて、ヴィクトールは首をかしげた。
 ユージィンには、なんとなくそぐわないのだ。
 確かに、年上だが、童顔のせいかまったくそうは思えない。それだけではない。ユージィンにはそうした、言ってみれば性的なものがまったく感じられないのだ。
 女性相手に、あんな濃厚な ――― と、ヴィクトールは思ったのだが ――― キスをするユージィンというのは、まったく想像がつかない。
 だが ――――――
(ほんとうにそうなのだろうか?)
 ヴィクトールは、ふと眉を寄せた。
 考えてみれば、ヴィクトールはユージィンの過去をほとんど知らない。
 ヴィクトール自身があまりそういうことを詮索する性質ではないし、ユージィンもまた、自分のことをあれこれと話すタイプでもない。
 そんなわけで、ユージィンのことで知っていることと言えば、移民であること、そして、両親ともすでに他界していること、裕福な家庭で育ってはいないこと、それくらいである。
 もっともそれだけ聞けば、ユージィンの子供時代の生活が、さほど恵まれたものではなかったことは、容易に察しがつく。それもあって、ユージィンがほとんど自分の過去のことを話さないことも、話したくないのだろう、とあっさりと納得していたのである。
 だが、改めて考えてみると、ほんとうに自分がユージィンのことを何も知らないことに気づく。
 今まで、どんな生活をしてきたのだろう?
 どんな友人が、そして、どんな恋人が、ユージィンのまわりにいたのだろう?
 ユージィンが、目元をゆるませ、やさしく微笑む。
 思わず見とれるほど、きれいな笑顔。
 その笑顔が、誰かに向けられている。
 誰か、自分以外の、誰かに ―――――――――。
(嫌だ ――― )  
 不意に、心に強く浮かび上がった言葉に、ヴィクトールは愕然とした。 
 嫌?
(ユージィンが、自分以外の誰かを見るのは嫌だ ―――――― )
 間髪いれずに心の中に答えが浮かび上がる。
 ヴィクトールは、呆然と宙を見据えた。
 胸が痛い。重い。
 胸の中に、石をたくさん詰め込まれたかのようだ。
 この感情は知っている。
(これは ―――――― 嫉妬だ)
 自分が、このヴィクトール・クリューガーともあろう者が、女のように嫉妬している
 ユージィンが、キスをしたかもしれない相手、顔も名前も知らない相手に、嫉妬をしている……。
(どうかしている……)
 ヴィクトールは、両手で顔を覆った。
 
 
□■□
 

「ここにいたんだ」
 ささやくような声がして、隣の椅子が静かに引かれた。
「探し回っちゃったよ」
 我に返って顔をあげると、優しい微笑みが自分に向けられていた。
 心臓が跳ねる。
 今、一番会いたくないと思っていた顔がそこにあった。
 どういう顔をしていたらいいか、わからない。
 自分の中にある、あんな醜い感情に気づいてしまっては、ユージィンの顔がまともに見られなかった。
 ヴィクトールは、動揺を押し隠し、視線をそらした。
「――― なにか用か?」
 内心とは裏腹に、落ち着いた声が出たことに安心する。
 だが、ユージィンは、なにかを感じ取ったらしかった。
「 ――― どうしたんだい?」
隣に腰をおろしたユージィンが、いぶかしげに顔をのぞきこんでくる。
 ヴィクトールは、首を振った。
「別に。勉強中だ」
 そっけなく言って、モニターをのぞき込み、資料に集中するふりをする。
「……ふうん……」
 ユージィンの視線が、探るように自分に向けられているのを感じる。
 だが、ヴィクトールは気づかないふりをして、文字の羅列をにらみつけ続けた。
 ユージィンの視線を痛いほど感じながらも、意地になってモニターをにらみ続けていると、やがて、すっとユージィンの視線がはずれた。
 思わず、ほっと、ひそかに息をつく。
 このまま、どこかへ行って欲しかった。
 だが、ユージィンは席を立つでもなく、やはりなにかの勉強をはじめようとでもいうのか、椅子を前に引いてきちんと腰かけた。
 やがて、パラリと音がしたところをみると、ノートを広げたらしい。
 ヴィクトールは頑固にモニターを凝視していたが、落ち着かないことこの上ない。といって、部屋に帰れというわけにもいかない。
となりでは、なにやら、鉛筆を走らせる音が聞こえてくる。
 勉強をはじめたのだろうか。意地になって、モニターを睨みつけ続けていると、ふと、腕に何かがあたった。
 ちらりと目をやると、なにやら白い紙が、腕の横から差し込まれてきた。ノートを切り取ったらしく、端がぎざぎざに切れている。
 目をあげると、紙を押し込んできた当人は、何食わぬ顔で机に広げたノートに目を戻している。
 ヴィクトールは眉を寄せ、紙をつまみあげると、裏返した。
 そのとたん、思わず、吹き出した。
 そこに描かれていたのは、ヴィクトールだった。
 だが、いつものような写実的な絵ではなく、大きくデフォルメされて、三等身の身体で腕を組んで、仁王立ちをしている姿だ。顔も、眉を寄せ、唇をひん曲げ、額に青筋を立てている。
 周りから視線を浴びて、ヴィクトールは、はっと口を押さえた。
 そして、隣でにやにや笑っているユージィンの顔をにらみつけた。
「ユージィン!」
 精一杯の怒りをささやき声にこめる。
 だが、ユージィンは意に介した様子もなく、実にうれしそうに声を殺して笑っている。
「だって、今の君、こんな感じだよ?何を怒ってるんだい」
「怒ってなどいない」
 ヴィクトールはむっつりと言った。
「怒ってるよ。君は顔にすぐ出るんだから」
「……」
 ヴィクトールは、むっとして黙り込んだ。
「 ―――そういう顔してると、また描くよ?」
 ユージィンはヴィクトールの指からノートの切れ端をとりあげ、裏返すと、鉛筆を取り上げた。
 その嬉々とした様子にヴィクトールはため息をついた。
 結局、こうなるのだ。
 一緒にいれば、いつの間にか、ユージィンのペースに巻き込まれてしまう。
 今までは、それすらも心地よかった。
 だが ―――――― 。
 ヴィクトールは、もう一度ため息をついた。
「わかった…」
 つぶやくように言うと、ユージィンは、いたずらめいた笑みを頬に刻んだまま、眉をあげてみせた。
「何を怒っているんだい?」
「……話すから」
 ユージィンの笑みが、深くなる。
 その勝ち誇ったような顔に、いくぶんむっとしながらも、軽く目配せをすると、モニターの電源を切って立ち上がり、図書室の奥に歩いて行った。
 後ろから、さりげなくユージィンがついてくるのを確認して、軍事関係のマイクロフィルムがしまわれている棚が並ぶ、もっとも奥まった辺りにすべりこんだ。
 まわりに誰も人がいないことを素早く確認する。
 ユージィンが、なにかを探すような振りをしながら、棚の反対側から回りこんできた。
 そして、少し首をかしげるようにして、ヴィクトールを見つめた。
 話す、とは言ったものの、ヴィクトールは躊躇した。
 なにをどう話せばいいのかわからない。
 自分の心の中にある醜い感情のことを言うわけにはいかない。
 だが、考えてみれば、これはいい機会なのかもしれなかった。
 心の中の負の感情、あんなものを抱えたままで、ユージィンと今までどおり付き合えるかどうか、正直に言えば自信がない。
 ヴィクトールは心を決めた。
「ユージィン」
「ん?」
「しばらく、おれの部屋に来ないでくれ」
「 ―――え?」
 ヴィクトールの言葉は予想外だったのか、ユージィンの目が大きく見開かれた。
「おまえが部屋にくると、勉強ができない」
 ユージィンが目を瞬き、ヴィクトールをじっと見つめた。
 その大きな、湖を思わせるような美しい瞳に見つめられると、まるですべて、心が見透かされているような気になってくる。
 ヴィクトールは、思わず、視線を床に落とした。
「つまり……おれがいると邪魔?」
 ユージィンが言葉を選ぶように、ゆっくりと言う。
 胸が痛い。
 そうではない、と言いたかった。
 だが、これ以上、ユージィンのペースに巻き込まれたら、自分が自分でなくなってしまうような気がして恐ろしい。
 いつ、この醜い感情をむき出しにしてしまうか、わからない。
 そうなったとき、ユージィンがどう思うか……それを考えただけで、恐ろしいのだ。
 ヴィクトールは、顔をあげ、ユージィンを真正面から見つめた。
「そうだな」
 ヴィクトールは、短く言った。
 ユージィンの顔が悲しそうに曇り、わずかにうつむいた。そのまま、なにかを考え込むように眉を寄せていたが、ふと顔をあげた。
「もしかして、さっきのキスのことを怒ってる?」
 ヴィクトールは、首を振った。
「いや……あれは、べつに……。怒ってはいない。驚いただけだ」
 ユージィンが眉を寄せた。
「じゃあ、あの噂が気になっている?」
「まあ、気にならないと言えば嘘になるが……考えてみればくだらない話だ。それが原因じゃない」
「じゃあ、なにを怒っているんだい?」
「だから……べつに怒っているわけじゃない」
 ユージィンは悩むように眉を寄せた。
「ひとつ聞いていいかな?」
「なんだ」
「おれのことが嫌いになった?」
「いや。そうじゃない」
 ヴィクトールは、即座に否定した。 「そうじゃないんだ。つまり……おれの問題だ」  ユージィンの瞳がヴィクトールをじっと見つめる。  その、なんでも見透かしてしまいそうな澄んだ瞳に居心地が悪くなる。  思わず、目をそらそうとした瞬間、不意に、ユージィンの顔に微笑が広がった。
 きれいで、やさしい、人をひきつけずにはおかない笑顔。
 ヴィクトールは、思わず見とれた。
「なら、よかった」
 ユージィンは、心底、ほっとしたように言った。
「それならいいんだ。わかったよ。君の邪魔はしないことにするよ。部屋には行かないようにする。そのかわり」
 ユージィンは、にやりと笑った。
「部屋の外で、君を追いかけまわすことにするよ」
 いたずらめいた笑み。
「な……」
「君の絵が描けなくなったら、この味気ない寮生活の唯一の楽しみがなくなってしまうよ」
「そんな大げさな」
 あきれたように言ったヴィクトールに、ユージィンは人差し指を突きつけた。
「大げさじゃないよ。おれが君のことをどんなに好きか、君の絵を描くことがどんなに楽しいか、君にはわからないんだろうなあ」
 さらっと言われた言葉。
 ヴィクトールは、まじまじとユージィンを見つめた。
 ユージィンは、にっこりと笑って、ヴィクトールを見ている。
 邪気のない、やさしい笑顔。
 ユージィンは、いまの言葉が、どんなにヴィクトールを喜ばせたか、わかっていないのだろう。
 ユージィンは、いつも自然体だ。自分をよく見せようとか、嫌な部分を隠そうとか、そういうせせこましい小細工をしようとは思いもしないのだろう。
 だから、こんなに自然に、好きだ、という言葉が言えるのだろうと思う。
 自分には、いえない。自己顕示欲だの、独占欲だの、嫉妬だの、そういった負の感情を胸いっぱいに抱え込んだ自分には、こんなにきれいな「好き」という言葉はいえない。
 こんな風に、好きだ、と言えたらいいと思う。
 ヴィクトールは、眩しいものでも見るような心地で、ユージィンを見つめた。
「じゃあ……おれは先に戻るよ」
 にこにこと手を振って、ユージィンが身を翻す。
 やがて、その姿が棚の向こうに消えた。
 一抹の寂しさを感じながら、ヴィクトールはため息をついた。
 でも、これでいいのだ、と思う。
 少し離れてみれば、自分の気持ちも落ち着くだろう。
 ユージィンは親友だ。失いたくない、大事な友人だ。
 くだらない独占欲だの、嫉妬だの、そんなものでこの関係を汚したくなかった。
 ヴィクトールは、もう一度、大きくため息をついた。 

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