日だまりの中で 5

 ヴィクトールは不機嫌だった。
 眉を寄せ、苛立ちをあらわにしながら、皿の上の料理を黙々と口に運ぶ。
 図書室でユージィンと話してから、1週間が過ぎていた。
 あれから、ユージィンはヴィクトールの部屋に来なくなった。
 といっても、態度が変わったわけではなく、会えば、ヴィクトール!と叫んで駆け寄ってくるし、じゃれついてくるのも一緒だ。
 だが、部屋には来ない。
 食事の時間にも、呼びに来ない。
 そんなわけで、当然、一緒にいる時間は減った。
 ヴィクトールの周りには、また、ブルー・ブラッドの取り巻き連中が嬉々とした様子で戻ってきた。
 もっとも、その目の奥には、隠しきれない好奇心が潜められてはいたものの、ヴィクトールの近くにいられる、という特権を取り戻した彼らが、みすみすそれをふいにするような危険を冒すはずもない。ユージィンとのことを詮索することはもちろん、ほのめかすようなこともいっさいしなかった。
 だが、直接の利害関係のない、その他大勢の士官候補生たちにとっては、これは、またとない暇つぶしの種になったらしかった。
 というのも、好奇心に満ちたまとわりつくような視線が、行く先々で、向けられるのである。
 おそらく、影でいろいろな噂がとびかっているのだろうと思うが、どうすることもできない。
 一番、ひどいのは全校生が集合する食事の時間だった。
 なにやら上級生にまで、その噂が伝わっているらしく、視線を感じて顔をあげると、まったく知らない上級生たちの興味津々といった表情にぶつかることも少なくなかった。
 こうしていても、複数の視線を感じる。
 こんな状態で、食欲などわくはずもなく、ヴィクトールは、皿の上に、まだ半分以上も残る食事をもてあまして、ひそかにため息をついた。
 ふと、目をあげて、ユージィンを探す。
 その姿はすぐに見つかった。
 少し前方のテーブル、その中ほどに、やはり取り巻きの青年たちに囲まれて座っているのが見える。
 ちょうど、向かい合わせの方向に座っていて、ヴィクトールの位置からはユージィンが食事をしている様子がよく見えた。
 ユージィンの食欲は、いつも旺盛だ。
 痩せたその身体からは、想像もつかないほどよく食べる。
 その食べっぷりは、見ていて気持ちがいいほどで、いまも次々と料理がその口の中に消えていくのを、ヴィクトールはいくぶんあきれて見つめた。
 ユージィンとて、状況は自分と同じはずだ。
 しかも、ユージィンには、ヴィクトールのような社会的地位という後ろ盾はない。
 ヴィクトールに対しては働く遠慮や畏れも、ユージィンに対してはないはずで、そのぶん、嫌がらせなどは受けやすいはずだった。
 だが、一向に気にしている様子もない。
 ユージィンの中身が、決して、その優しげな見かけどおりではないことは、ヴィクトールも気づいていた。
 よく言えば、芯が強い、悪く言えば、図太い、といったところか。
 ヴィクトールは、噂話という類のものにはとことん疎いが、それでも、自分の近くにいるユージィンが、端からはどう見られているか、ということくらいはわかっていた。
 ヴィクトールの母がいい例だ。
 その考えに従えば、ユージィンは得体のしれないどこの馬ともしれない者であって、己の欲望のために名門貴族の御曹司であるヴィクトールに取り入っている、ということになるのだ。
 ヴィクトール自身は、母のような考え方は反吐が出るほど嫌いだったが、それでも、この考え方が、自分を取り巻く社会ではまかり通るのだ、ということも、また、よくわかっていた。
 そしてユージィンは、自分よりも、そうしたことに敏感だ。
 つまり、ユージィンは、自分がどんな風に見られているかを承知の上で、ヴィクトールの近くにいるということだった。
 よほど芯が強くなければ、できないことだろうと思う。
 そんなユージィンにとっては、こんな噂のひとつやふたつ、どうということでもないのかもしれなかった。
 ユージィンの手が、ミネラルウォーターの注がれたグラスに伸びる。
 と、不意に、その顔があがった。
 あ、と思う間もなく、青緑の鮮やかな瞳が、まっすぐにヴィクトールに向けられる。
 ヴィクトールは、自分がずっとユージィンを見つめていたことに気づき、うろたえた。
 頬が熱くなる。
 目をそらそうとした瞬間、ヴィクトールを見つめる大きな目が、ふっと細められた。
 ユージィンが微笑んだのだ。
 自分にむけられた優しい表情に、心臓が跳ねる。
 ヴィクトールは、あわてて食事に目を戻した。
 サラダのブロッコリーに、いくぶん乱暴にフォークを突き刺し、口に入れる。
 だが、ユージィンのことが気になって仕方がない。
 もう一度、そっと目をあげると、青緑の瞳はまだこちらを見ていた。
 目が合う。
 ユージィンが、少し首をかしげるようにして、また微笑んだ ――――――。 
 
 □■□
 
 (だめだ・・・・)
 ヴィクトールはため息をついた。 
 離れていればいるほど、ユージィンの存在を強く意識しないではいられないのだ。
 気づけば、目でユージィンを探している自分がいる。
 まるで、一番最初の、まだ、名前しか知らなかった時のようだ、と思う。
 だが、いまは、少し見つめていると、すぐに、ユージィンが気づく。
 青緑の瞳が、ヴィクトールを探し当て、次の瞬間、うれしそうにその顔がほころぶ。
その笑顔に、また、目がはなせなくなる。
 その繰り返し。
 冷静になれるどころか、前よりもさらに、ユージィンのことが気になって仕方のない自分がいる。
 どうしたらいいか、わからなかった。
 ヴィクトールは、もう一度、ため息をつくと、窓の外にぼんやりと目をやった。
 休日だけあって、寮は閑散としていた。
 同室のブルーブラッドの青年たちも、みな、外出やら帰宅やらで、出払っている。
 ヴィクトールは、久々の一人を満喫できるはずだった。
 だが、とてもではないが、そんな気分にはなれない。
 今までならば ――――――。
 そう、先週までは、休日ともなれば、嬉々としたユージィンが部屋に押しかけてきたものだった。
 部屋でスケッチブックを広げるユージィンとたわいもない話をし、一緒に食事をし……時間は飛ぶように過ぎ、休日はあっという間に終わるのだ。
 だが、今日は時間の過ぎるのが、なんと遅いことか。
 ユージィンも、もちろん、寮にいるはずだった。
 だが、ここにはこない。
 当然だ。
 自分が来るな、と言ったのだから。
 ヴィクトールは、何回目かわからぬため息をついた。
 が、ふと、その目を見開く。
 寮の前に広がる、木がまばらに生える中庭。
 その中庭に、ちょうど、寮の入り口から出てきた姿があった。
 ヴィクトールからは、後姿しか見えない。
 だが、その、黒い髪、そして痩せて華奢にさえ見える背中。
 見間違えるはずもない。ユージィンだった。
 ヴィクトールは、思わず跳ねた心臓に、舌打ちをした。
 姿を見ただけで、なにを動揺しているのか、と思う。
(バカか、おれは……)
 首を振って、ユージィンの後姿から目をそらす。
 だが、ヴィクトールは、ふと眉を寄せた。
 なにかが変だった。
 自分の意識に引っかかったものを探して、もう一度、ユージィンの後ろ姿に目をやる。
 別におかしいところはない。
 が、ユージィンの両側を歩く青年たちに目をやって、ヴィクトールはさらに眉を寄せた。
 それは、いつものユージィンの取り巻きではなかった。
 もっとも、今日は休日だ。みな外出している、ということもあるだろう。
 だが ―――――― 。
 ヴィクトールは、目を細めて、ユージィンの隣を歩く青年たちを見つめた。
 二人とも、知らない士官候補生だ。
 といっても、もともと、ヴィクトールはあまり人の顔を覚えない。
 そんなわけで、同級生でさえ、知らない顔は多かった。
 だが、この二人の体格からすると、おそらく同級生ではなく、上級生のようだった。
 ユージィンは背が高い。同級生と比べれば、頭一つ分は余裕で高いのだが、そのユージィンよりもさらに背が高く、肩幅も広い。
 もう完全に少年の域を脱した青年の身体、そして数年にわたり身体を鍛え上げたことがわかる身体つきをしている。
 おそらく、3年か4年だろう。
 だが、自分ならともかく、ユージィンに上級生の知り合いがいるとも思えない。
 もっとも、ユージィンが絵が巧いということは、かなり知れ渡っていて、上級生の中にもスケッチを頼んでくる者たちがいるらしい、ということは知っていた。
 実際に、ユージィンが上級生たちの絵を描いているのを見たこともある。
 いまもユージィンは、いつものように、手にスケッチブックを抱えている。
 もしかしたら、単純に、上級生たちがスケッチを頼んできて今から描きに行く、というだけのことなのかもしれなかった。
 歩いている様子を見ても、無理やりどこかへ連れていかれているという雰囲気でもない。
 そうこうするうちに、ユージィンと上級生二人の姿が、建物の影に消えた。
 ヴィクトールは、3人の姿が消えた方向を見据えて、考え込んだ。
 方向からすると、寮の裏手だ。
 裏側も正面側と同じように、庭が広がっているが、すこしずつ木が多くなり、やがて士官学校の敷地を囲む塀に突き当たる。
 だだっ広い士官学校の敷地の中でも、もっとも奥に位置する場所で、当然、ひと気はほとんどない辺りだ。
 なんとなく、ひっかかるものを感じる。
 ヴィクトールは、しばらく宙をにらみつけていたが、やがて、心を決めた。
 手に持ったまま、一度も開かなかった参考書を机の上に投げ出す。
 そして、足早に部屋を出た。
 
 □■□
 
 裏庭は、案の定、まったく人影はなかった。
 ヴィクトールは、さりげなく辺りを見回しながら、緑の草を踏みしめ、寮を背にして、奥のほうへと歩いていった。
 こちら側は、表側に比べると、あまり草木の手入れもされておらぬようで、奥に行けばいくほど、丈の高い草に地面が覆われ、木々の枝や葉なども伸び放題になっており、視界が悪くなっていく。
 寮の建物から離れ、その姿が見えない辺りまでくると、低い潅木の茂みなどもとところどころに現れ、さらに見通しは悪くなった。
 隠れて悪事をするには最適だ、とヴィクトールはひそかに考えた。
 やがて木々や茂みの向こうに、コンクリートの塀が見えてくる。
 士官学校の敷地を囲む塀に違いなかった。
 そのとき、ふと、かすかな声が聞こえ、ヴィクトールは目を細めた。
 辺りを見回しながら、声のした方へ足音をしのばせて、歩いていく。
 やがて緑の葉の向こうに、ちらちらと動く人影が見えた。
 ヴィクトールは、聴覚も視力も、人並み以上に優れている。
 こちらからは見えても、相手側からは、ヴィクトールの姿は見えないはずだった。
 そう考えて、ヴィクトールは、ひときわ密集して繁っている潅木の茂みに身を隠すようにしながら、いくぶん大胆に足を進めた。
 そこまでくると、コンクリートの塀の近くにいる、青年たちの姿がはっきりと見分けられるようになってきた。
 手前に、二人の青年に挟まれるように立つ、黒髪の痩せた後姿が見える。
 ユージィンに違いなかった。
 そして、その向こうに、4,5人の青年たちの姿。
 おそらく、ユージィンの横に立つ上級生の仲間なのだろう。
「今日は、王子さまはいないのかな?」
 不意に、明瞭に声が聞こえてきて、ヴィクトールは足を止めた。
 いやな響きのある声だった。 
 その言葉に、どっと笑い声が起きた。
 決して好意的とは言いがたい響きを帯びた、その笑い声にヴィクトールは、眉を寄せた。
「それとも、もう捨てられたのか?」
 また、笑い声が沸き起こる。
 ヴィクトールは、小さく舌打ちした。
 これは、どう好意的に解釈しても、絵を描いてくれるように上級生が頼んでいる、などという雰囲気ではない。
「――― 絵を描くんじゃないんですか?」
 ようやく、ユージィンの声が聞こえてきた。
 だが、その声はこの状況にしては、落ち着いた、というよりのんびりした声で、ヴィクトールは、驚くよりあきれた。
(あいつは、状況がわかってるのか?)
 案の定、からかうような複数の笑い声が起きた。
「絵か」
 一番、最初に聞こえた声が、笑いを含んだ声で言った。
 どうやら、主導権を握っている人物らしい。
「まあ、絵は後でいいだろう。描く元気があったらだがな」
 くすくすと笑う声。
「描く元気は、なくなるだろうなあ」
「かわいそうだねえ。王子さまは助けにきてくれるかな?」
 揶揄するような声が、次々とかかる。
 先ほどから言葉に出てくる「王子さま」というのは、おそらく自分のことだろう。
 例のばかげた噂を真に受けたバカな連中が、ユージィンを目障りに思って呼び出した、というところだろう。
 おそらく、目的はリンチだ。
 ヴィクトールは目を細めた。
 3年か4年の上級生が6、7人。
 ヴィクトールの運動神経は、並ではない。
 授業で行われるフェンシングでも射撃でも格闘術でも、ヴィクトールは圧倒的な違いを見せ付けて、常にトップの座に君臨している。
 だが、それは、同学年の中で、ということである。
 相手が上級生、それも3年か4年ということなら、二十歳前後と思っていい。
 自分より4つ以上も年上の青年が相手となれば、おそらく、そう簡単にはいかないだろう。
 普通よりも成長が早いとはいえ、まだ16歳であることに変わりはない。
 運動神経は人並みはずれており、肉体も強化されてはいるが、それでも、体格の面では、上級生にまだ及ばない。
 しかも、複数が相手である。
 こちらは、自分とユージィンの二人だ。
 だが、ユージィンは、おそらく、上級生には力では敵わないだろうと思う。
 士官学校の苛烈な訓練に平然とついていってはいるが、それは、上級生たちも同じである。
 というより、体力と根性という面では、この環境に3年なり4年なり在籍している分、上級生たちに分があるだろう。
(だが……)
 ヴィクトールは、唇を噛んだ。
(いざとなれば……)
 そう、いざとなれば、自分には力がある。
 むやみと使ってはいけないと、幼い頃から封印し続けてきた力。
 己を守るために、どうしても必要な場合以外は、決して開放してはいけないと、戒め、押さえ込んできた力。
 いま、自分の親友が、何よりも大切な存在が、窮地に陥っている。
 それを助けるためになら、使っていけないはずがない。
(勝てるか?)
 自問自答する。
(当たり前だ)
 間髪いれずに、心の中で答えが出る。
(おれを怒らせたらどうなるか、思い知らせてやる) 
 ヴィクトールは大きく息を吸いこみ、潅木の茂みを迂回すると、前に飛び出した。
 目に入ったのは、6人の士官候補生の後ろ姿だった。
 その6人の身体に隠されるように、ユージィンの姿が見える。
 肩と両手を、数人がかりで押さえつけられ、コンクリートの塀に押し付けられているらしかった。
 ヴィクトールの中で怒りが爆発する。
 なにかを考える余裕もなかった。
 怒りに身を任せて、中央にいる、ひときわ背の高い青年に踊りかかる。
 当然、相手はヴィクトールより背が高い。
 だが、その青年がユージィンの方へ身をかがめていたことが幸いした。
 苦もなく、その襟首を掴んでユージィンから引き離し、そのまま、その鳩尾を渾身の力で殴りつける。
 とっさのことに反撃をする間もなく、青年は、苦しげにうめいて、地面に膝をついた。
「クリューガー?!」
「ヴィクトール!」
 青年たちとユージィンの叫びが、交錯する。
 だが、ヴィクトールは何も聞いていなかった。
 別の士官候補生の脛を蹴り飛ばし、自分に殴りかかってきた腕を掴んで、下にひき下ろし、その頬を殴りつける。
 後ろから襲い掛かってきた身体をかわし、顎を殴りつけ、腹部を膝で蹴り上げた。
 確かに、青年たちとヴィクトールでは、圧倒的な体格差があった。
 だが体格の違いなど、ヴィクトールの人並みはずれた運動神経と、強化された肉体の前には、なんの意味もなかった。
 それに、たしかに相手は複数ではあったものの、みな、ヴィクトールの一撃で、地面に倒れていく。
 数人で一気に襲い掛かられれば、もしかしたら危なかったかもしれないが、1対1、あるいは、1対2程度ならば、ヴィクトールの敵ではなかった。
 ヴィクトールは軽やかに動きまわり、確実に上級生たちを仕留めていった。
 おそらく、それはほんの2、3分の出来事だっただろう。
 気づけば、もう、周りで立っている者はいなくなっていた。
 地面にうずくまり、あるいは這い蹲り、痛みにうめいている上級生たちを、ヴィクトールは、息も乱さず、冷ややかに見下ろした。
「ヴィクトール!」
 名を呼ばれて、ヴィクトールはようやく我に返った。
 ユージィンが、駆け寄ってくる。
「助かった。ありがとう」
 ほっとしたような顔でそう言うと、ヴィクトールの腕を掴んだ。
「でも誰かに見られたら面倒だ。逃げよう」
 ユージィンは早口で言うと、ヴィクトールの腕をつかんだまま、駆け出す。
 ヴィクトールは、腕を引っ張られながら、もう一度、地面に転がる上級生たちを見下ろした。
 一番最初に倒した青年と目が合う。
 相手の蒼白な顔が、恐怖に引きつるのを見て、ヴィクトールは冷笑を浮かべた。
「ヴィクトール、早く!」
 ユージィンが急き立てる。
 ヴィクトールは、踵を返すと、ユージィンの後を追った。 

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