Raphael 2

 軍服を脱ぎ、寝室の隣にあるバスルームでシャワーを浴びる。
 ラフな部屋着に着替えて、自分専用のリビングに戻り、壁際の棚に置いてあったグラスとブランデーを手に、ソファに腰を下ろす。
 グラスに酒をつぎ、ぼんやりとそれを口に運びながら、ヴィクトールは、今さらながら、自分の行動に不可解なものを感じていた。
 なぜ、ラファエルを家に連れてきたのか。
 別に深い考えがあってのことではなかった。
 ただ、あのままにしておくわけにはいかない、と思っただけだ。
 だが、と思う。
 なぜ、あのまま、放っておいてはいけなかったのだ? と、頭の隅でささやく声がする。
 アフォルターの家のことなど、ヴィクトールには、関係のない話だ。
 ユージィンのことならば、ともかく、ラファエルが何をしようと、どんな扱いを受けていようと、そんなことは、気にする義理もなにもない。
 確かに、哀れだとは思う。
 だが、それは、あの青年の運命だ。
 アフォルターの一員として、ユージィンの息子として、そして、ユーベルメンシュとして生まれた、あの青年の運命なのだ。
「君は、同類には、本当に優しいよね」
 ユージィンの言葉が、脳裏によみがえる。
 よく、ユージィンは、こう言って、ヴィクトールをからかった。
 確かに、そうだ、と自分でも思う。
 他の人間に対しては、非常に冷淡な自分が、エーリヒとマックスに対しては、温かい気持ちを感じていたし、幸せになって欲しいとさえ、願っていた。
 だが、ラファエルに、それと同じような感情を持っていたかと言えば、それは、はっきりと、否、だった。
 はじめは、とにかく、嫌悪感しかなかったと思う。
 初めて、アフォルターのパーティで見た瞬間、ヴィクトールの心にわき起こってきたのは、どす黒い憎しみだった。
 もともと、最初から、ユージィンの息子だという事実がある。
 それで、ラファエルを好きになれ、という方が無理というものだ。
 それに加えて、あの姿である。
 髪の色こそ違うものの、身体つきも、顔立ちも、そして、忌まわしい青緑の瞳の美しさも、なにもかも、まったく同じ。
 そして、いかにも丸暗記した原稿を読み上げたとでもいうような、不器用な挨拶の最後に見せたあの、笑み。
 まるで、さっと光が当たったかのように鮮やかな、それでいて、いかにも優しげで初々しい、人を惹きつけずにはおかない、微笑み。
 どれもが、ヴィクトールの胸の傷を、まだ、血を流し続け、いっこうに、ふさがらない傷口を、かきむしった。
 ヴィクトールが、愛し、自分の心を預け、唯一無二の友と信じた男。
 そして、手ひどい裏切りですべてを奪い去っていった、あの男。
 忘れ得るはずもない、過去の情景に繰り返し出てくる、その姿が、そっくりそのまま、十数年の時を経て、目の前に現れたのだ。
 ヴィクトールの心が、さらなる憎しみに塗りつぶされたとしても、それは、いたしかたのないことだった。
 もちろん、少し話せば、息子があの父親とは、まったく異なる人格を有することくらいわかる。
 レジーナ・キャッスルがいみじくも言った「いい子よ」 という言葉。
 まさに、その言葉があてはまる性格をしていることも、わかる。
 だが、それと、好悪の感情はまた、別だった。
 もっとも、冷静に考えれば、ラファエルを拒絶するよりも、取り込んだ方が有益なのは、明らかであり、 ヴィクトールも、そういった個人的な感情は一切、排除し、関係を築こうと努力してはいた。
 だが、この青年を前にしていれば、嫌でも、父親の姿がたぶる。
 それは、もう、どうしようもないことだった。
 それを、押さえつけてみても、ともすれば過去の記憶に押し流されそうになる自分への嫌悪感は残る。そして、今さらながら、自分の心の傷の深さを思い知らされ、そのことに、さらなる屈辱を感じる。まったく、逃げ場のない、堂々めぐりに陥るのだった。
(それなのに……)
 ヴィクトールは、いつの間にか、空になっていたグラスに酒を注いだ。
 何を、好きこのんで、そんな厄介者を、抱え込んだというのか。
 あのままにしておけなかったというなら、せめて、車の中で落ち着かせてから、アフォルターに連れ帰ればよかったのだ。
 何も、わざわざ、自分の家に連れてくる必要など、なかったのだ。
 ヴィクトールは、苦いため息をついた。
 

 軽いノックの音がして、扉があいた。
 執事が、身を引き、その後ろから、相変わらず、おずおずとした様子のラファエルが姿を現す。
 思わず口をついて出そうになったため息を押し殺し、顔をあげたヴィクトールは、しかし、そのとたん、思わず、吹き出した。
 ラファエルの顔が真っ赤に染まる。
「な、な、なんだよッ!」
 間髪をいれずに、怒鳴る。
 だが、本人も、なぜ、ヴィクトールが笑ったか、よくわかっているのだろう。
「お、おれは、まだ、育ちざかりなんだ! まだまだ、これからなんだよッ!」
 頬をまっかにしたまま、ぎゃんぎゃんと叫ぶ。
「……いや……すまない……」
 ヴィクトールは、肘掛けに乗せた手をあげて、口を軽く覆い、笑いをこらえた。
 だが、ちらりと、ラファエルの姿を見やり、また、くくく、とこらえきれず、笑い出してしまう。
 ラファエルは、ヴィクトールの部屋着用のシャツと、ラフな雰囲気のパンツを身につけていた。
 だが、明らかに、サイズが合っていない。
 背の高さの差は、裾を折っているだけで、さほど気にならないが、とにかく、横幅が圧倒的にちがうのだろう。
 シャツの肩が落ち、そのおかげで袖がさらに余るらしく、手首のところで、何重にも折っている。
 ウエストもかなりあまるらしく、ベルトでかろうじて押さえている状態だ。
 ヴィクトールも、ここ最近の不調で、かなり痩せてきている。
 それでも、これだけの差があるというのは、いかに、ラファエルが痩せているかの証拠だろう。
「悪かった」
 ヴィクトールは、なおも、頬をひくつかせながら、言った。
 ラファエルは、耳まで赤くしたまま、ヴィクトールを睨み付けている。
「とりあえず、座ったらどうだ?」
 ヴィクトールは、自分の向かい側を指さした。
 テーブルの上には、料理の皿が、次々と置かれて行く。
 その香りに、心引かれたのか、ラファエルの目が、テーブルに引き寄せられる。
 ヴィクトールは、もう一度、無言で、ソファを指さした。
 ラファエルは、しぶしぶという様子で、歩み寄ってくると、居心地悪げに、ソファに腰を下ろした。
 執事が、ようやく、すべてのセッティングを終え、ヴィクトールに軽く頭を下げる。
 だが、テーブルの上に目をやったヴィクトールは、小さく眉を寄せた。
 用意された料理は、軽食というには、量が多すぎる。
 ヴィクトールの問いかけるようなまなざしに、しかし、執事は、軽く微笑んで一礼すると、空になったワゴンを押して、部屋を出ていった。
 ラファエルは、ソファに座ったものの、折った袖や、ずり落ちた肩を気にして、そわそわしている。
 ヴィクトールは、苦笑し、テーブルの上を指さした。
「腹が減ってるなら食べるといい」
「いや……その……」
 ラファエルが、顔を赤らめてうつむく。
 とたんに、そのお腹が鳴った。
 眉をあげたヴィクトールの顔を見、あわてて、手を振る。
「いや、あのっ……実は、夕飯、あんまり食べれなくて……食欲なくて!でも、今、見たら……」
 ヴィクトールは、何も言わず、もう一度、テーブルの上を指さした。
 ラファエルは、ためらい、だが、空腹には勝てなかったのだろう。
 フォークを取ると、遠慮がちに目の前のサラダをつついた。
 一口、口にいれ、目を見開く。
「おいしい……」
「そうか、よかったな」
 ヴィクトールは、また、苦笑した。
 だが、ラファエルの目は、すっかり、テーブルの上の食事に張り付いている。
「好きなだけ、食べろ」
 ヴィクトールの言葉に、こくんとうなずくと、猛然と、目の前にある、豊富な料理を口に運び始めた。
 ヴィクトールは、手の中のグラスをもてあそびながら、その様子を眺めた。
 おそらく、アフォルターでの食事は気まずいものなのだろう。
 そのなかで、ろくに食事もとれなかったに違いない。そして、クリューガー家の執事は、ラファエルが相当、空腹であることを見通し、これだけの料理を用意したのだろう。
 ラファエルは、すごい勢いで料理をたいらげていく。
 そして、ふと、ヴィクトールに目を向けた。
「……あ、おっさん、食わねえの?」
 グラスを口に運ぶばかりのヴィクトールに、いぶかしげな視線を向ける。
「おれは、いらん。よかったら、これも食べるといい」
「え……ほんとに?」
 口調は、遠慮がちだが、瞳の輝きがそれを裏切っている。
 ヴィクトールは、無言で、自分の前の皿を差し出した。
 ラファエルは、今度は、素直にうなずくと、うれしそうに皿を受け取り、すぐさま、すごい勢いで料理を消化していった。
(まったく、よく、食べる……)
 ヴィクトールは、いくぶん呆れながらも、その姿に思わず、笑みを誘われ、唇をほころばせた。
 が、その時、だった。
(『ほんとに、よく食べるな』)
 脳裏に、はっきりと声が響く。
 ヴィクトールの、頬が強ばった。
 同時に、鮮やかに、ある情景が浮かび上がる。
 まずい、と思ったが、過去の記憶の奔流が、一瞬にしてヴィクトールを押し流した。

 熱気に満ちた喧噪。
 あちこちのテーブルで、大声をはりあげる士官候補生たち。
 試験が終わったあとの、開放感に満ちた大騒ぎが、あちこちで繰り広げられている。
(そう?)
 柔らかい声が言って、ほっそりした腕が伸び、大皿の上から、ピザをちぎり取る。
 その腕を、ヴィクトールは、押さえた。
 制服の袖をまくりあげ、男のものにしては華奢な、骨張った手首を露わにする。
 しげしげとその手首を眺め、無造作に、片手で握る。
(おい、片手の親指と人指し指で軽く、つかめるぞ)
 ヴィクトールは、あきれて言った。
(それだけ、食べて、どうして、こんなに肉がつかないんだ)
(しょうがないよ。つかないものはつかないんだから)
 目の前で、優しげな顔がかすかに、しかめられる。
 だが、その唇に、すぐにからかうような笑みが浮かぶ。
 表情の移り変わりは、鮮やかで、見る者の目を奪う。
(君は、もう、食べないのかい?)
 青緑の美しく輝く瞳に、楽しげな光が踊る。
(もう、無理だ)
 ヴィクトールは、細い手首を放し、お手上げ、というように両手を広げた。
(情けないなあ。俺たち、育ち盛りってヤツだよ?)
 細い腕は、先ほど取ろうとしたピザを、今度は、皿ごと自分の前に引き寄せる。
(……それ、全部、食べるのか?)
(当たり前じゃないか。残したら、もったいないよ)
(せこいことを言うな)
(しょうがないよ。おれは、君と違って庶民なんだから)
 少し、口をとがらせ、だが、ピザにぱくつくと、その唇が、うれしそうにほころんだ。
 いかにも旨そうに、ピザを食べ、指についたチーズを舐め取る。
(こんなに、旨いのに。ほんとに、食べないのかい?)
(これだけ、酒を飲んでるんだ。それだけで、いっぱいだ)
(これだけって……まだ、ぜんぜん、飲んでないじゃないか)
(どこか、全然、だっ!)
 テーブルの上に、ごたごたと並んだ空き瓶。
 それを見るだけで、気分が悪くなりそうだ。
(おまえが異常なんだ)
(そうかなあ~~)
 そう言った口に、今度は、マスタードをつけたソーセージが放りこまれる。
 ヴィクトールは、げっそりと、首を振る。
(ユージィン!)
 店にどやどやと入ってきた青年たちの一人が、声を張り上げ、ヴィクトールは振り向いた。
 どうやら、ユージィンのクラスメイトたちらしい。
(なんだ、ここにいたのか。やあ、クリューガー)
 もうすでに、酔っているのか、ヴィクトールの肩に、なれなれしく置かれる手がある。
 ヴィクトールは、眉を寄せた。
 もともと、ヴィクトールは、人に身体に触れられるのが嫌いである。
 それに、名前も知らない者になれなれしくされる、いわれもない。
 もっとも、ここで、手を振り払うほど子供ではないが、十分、不快だった。
 目の前で、ユージィンがわいわいと囲まれ、肩を抱かれたり、頭をこずかれたりしているのも、また不快だ。
 ユージィンが、べつだん、不快に感じていなさそうなのも、無性に腹が立つ。
 ヴィクトールは、立ち上がった。
 ユージィンが、驚いたように、顔をあげる。
(飲み過ぎた。先に帰る)
 ヴィクトールは、テーブルの上に無造作に金を置き、テーブルを離れた。
 周りの人垣が、さっと通り道を造る。
 ヴィクトールは、無言で、店を出た。 
 酔いは、すっかり醒めていた。
 そのまま、繁華街の人混みを縫うように、歩いていく。
 不意に、かつかつ、と足音がし、後ろから肩をぽんと叩かれた。
(歩くの、早いよ)
 わずかに息を切らせた親友が、苦笑する。
(なんだ、来たのか)
 仏頂面をしてみせたヴィクトールに、優しい微笑みが向けられる。
(さすがに、もう、腹いっぱいだ)
(おまえでも、腹がいっぱいになることがあるのか)
(ひどいなあ。人間なんだけど、一応)
(そうだったのか。初めて知った)
(こら)
 温かい身体が、背中に覆い被さってくる。
(お、おい、重い……っ……降りろ!)
(いやだよ)
 楽しげな笑い声。
 じゃれついてくる、細い身体。
 それを、邪険に押しのけながら、だが、ヴィクトールは、自分も笑っていることに気づいた。
 声を上げ、いかにも楽しげに……まるで、普通の子供のように……。

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