HAPPY DAYS!

 アンゲリカは途方にくれていた。
 ここは、ティファレトにある、アフォルター家の別宅。
 大きな窓から、太陽光がさんさんと差し込む、広々としたキッチンである。
 三年の間、ひたすら待ち続けた、ユージィンとの結婚式が執り行われたのは、三日前のことだった。
 代々のアフォルター家の跡取りが結婚式を執り行うことになっている教会で挙式のあと、ホールにて盛大な、お披露目のパーティ。
 それから、三日の間、ひたすら挨拶回りとパーティの連続。パーティには、慣れきっているアンゲリカではあったが、さすがに疲れきっていた。
 だが、これから三日間、ユージィンと二人きりで、ここ、アフォルターの別宅で過ごせるのである。
 これは、ハインツの心遣いによるものだった。
 アンゲリカは、アフォルターの一人娘として、非常に多忙な毎日を送っている。
 また士官学校を卒業したばかりのユージィンも、この秋から軍隊に入隊することになっており、すぐにも軍務につかなければならない、身の上である。
 そんなわけで、新婚旅行にも行けない二人のために、ハインツが三日間、アフォルターの別宅で、夫婦水入らずで過ごすように、取り計らってくれたのである。
 
 さて、そんなわけで、アフォルター別宅のキッチンに、アンゲリカはいた。
 朝七時である。
 昨日、ようやく最後のパーティを終え、別宅に到着したのは、夜中の一時過ぎのことだった。
 それから、何かと雑用をこなし、結局寝入ったのは、夜中の二時。
 なのに、こんなに朝早くからキッチンに立っているのには、わけがある。
 いつもならば、アフォルターお抱えのコックが、ちゃんと別宅に派遣され、本宅にいるのと全く変わらない生活ができるようになっている。
 だが、今回は、アンゲリカは、コックの同行を断った。
 自分で、料理を作り、ユージィンに食べさせる、これがアンゲリカの壮大な計画だったのである。
 もともと、ケーキなどを作るのは好きである。
 これまでも、ケーキは何度かユージィンに食べさせ、そのたびに、あのとびきりの笑顔を向けられ、「おいしいよ」という、優しさあふれる声をかけられて、天にも上る心地がしたものだった。
 だが、もう、妻、なのだ。
 恋人ならケーキでいいだろう。
 だが、妻!
 これは、やはり、ちゃんとした食事を食べさせられなければ、落第だろう。
 食事をきちんと作るのは、初めての経験だったが、なんとかできる自信はあった。
 そして、今後、自分がこうやってユージィンの食事を作れる機会がそうあるとも思えない。本宅に戻れば、まず無理である。
 つまり、この三日間が勝負なのだ。
 愛するユージィンの「おいしい」の一言が聞けるなら、そして、あの幸せそうな笑顔を見られるなら、どんなに朝早く起きなければならなかろうが、関係なかった。
 だが……。
 アンゲリカは、あらかじめ用意万端整えておいた、料理本とメモを前に、呆然としていた。
 そして、もう一度、冷蔵庫の中身を確認する。
 ない。
 やはり、ない。
 材料が、ないのである。
 いや、ないというのは、語弊があった。
 あることはあるのである。
 だが、少しずつ、ものが違う。
 たとえば、さつまいもがじゃがいもだったり、カリフラワーがブロッコリーだったりするのである。
「なんてことかしら」
 アンゲリカは怒りも露わにつぶやいた。
 ちゃんと数日前には、作るものも決め、必要な食材もチェックしてリストを作り、すべて用意しておくように、執事に指示しておいたのだ。
 アフォルター家の執事は、執事の鑑のような人物である。ミスはあり得ない。
 となれば、おおかた、また、コロニーの暴動のせいで、入荷しなかった野菜があったとかそういうことなのだろうが、理由がどうあれ、とにかく、ここに必要な材料がないというのが、現実だった。
 アンゲリカは、料理本をのぞきこんで、ため息をついた。
 この材料では、この料理は作れないではないか。
 唇を軽く噛み、時計をにらみつける。
 おそらくユージィンは、まだ起きてこないはずだ。
「いいわ、まだ間に合うわ」
 アンゲリカは決然とつぶやくと、二階にとって返した。
 家から何があってもだいじょうぶなようにと、持ち込んでいた大量の料理の本を全部かかえてキッチンに戻る。そして、片っ端からページをめくり、この材料でできる料理を探し始めた。
 だが、どれも、少しずつ材料が違ったり、量が少なすぎたり、あるいは簡単すぎたり、で、納得のできるものがない。
 なんといっても、初めて、自分の手料理をユージィンに食べさせるのである。
 いかにも簡単そうなものは、嫌だった。
 それに、時間から見ても、ブランチにした方が良さそうである。となれば、それなりにしっかりしたものを作る必要があった。
 アンゲリカは、キッチンの巨大なテーブルの上に料理の本を、広げるだけ広げ、冷蔵庫との間を行ったり来たりしながら、この困難に健気に立ち向かっていった。

                  

 ユージィンは、ベッドの上に身を起こし、のんびりと伸びをした。
 時計を見ると、朝の九時だった。
 こんなに、ゆっくりと眠っていたのは久しぶりだった。
 隣には、アンゲリカの姿はない。
 わたしがお食事を作りますわ、とかすかに頬を赤らめていたアンゲリカを思い出す。おそらく、今頃、下のキッチンで奮闘していることだろう。
 身支度を整えて下に降りていけば、ちょうどいい頃合いになりそうだった。
 ユージィンは、起きあがると、のんびりとバスルームでシャワーを浴び、簡単に身支度を終え、一階に下りていった。
 ほとんど、使用人を連れてきていないこともあって、広い別宅はしんと静まりかえっている。
 大きく開け放たれた窓から、カーテンを揺らして流れ込むさわやかな風に、ユージィンは、心地よさげに目を細めた。
 火星には、きちんと四季の区別がつけられており、気温も湿度も快適な範囲ではあったものの、少しずつ変化する。この、さらりとした、いくぶんひんやりとした風は、もう、すっかり秋のものだ。
 とすれば、ときおり、風に乗って運ばれてくる甘い香りは金木犀か。
 ユージィンは、ゆっくりとダイニングルームに向かった。
 重々しい扉を開き、広々とした、優に二十人程度ならば余裕で食事のできるダイニングルームに足を踏み入れる。
 人がいないため、がらんとした雰囲気を漂わせているダイニングルームに入っていった、ユージィンは、だが、そこで、いぶかしげに眉を寄せた。
 アンゲリカの姿がないのは、もちろんだが、大きな、どっしりとしたテーブルの上には、ナイフやフォークの用意もない。
 ユージィンは目を瞬くと、キッチンの方に足を向けた。
 ダイニングルームの奧に、両開きの扉があり、その向こうがキッチンである。
 その扉をそっと開けて、一歩、入ったとたん、ユージィンは絶句した。
 キッチンの中央に置かれた巨大なテーブルの上には、料理の本が散乱し、その上に、野菜やらなにやらがところ狭しと置かれている。
 そして、コンロの上には鍋がいくつもかけられているものの、すべて、火は止められており、とてもではないが、何かの料理がその中で、できあがっているとは思えない。
 そして、アンゲリカは、キッチンの一番奥、コンロや流し台に並ぶ料理台に向かって、こちらに背を向けて、立っていた。
 その背中が、いかにも緊張しているのを見れば、ユージィンがここにいるのには気づいているはずである。
 だが、アンゲリカは振り向かない。
「アンゲリカ?」
 そっと声をかけてみると、アンゲリカは、大きく息を吸うように肩を動かし、肩越しにちらりと振り向いた。
「……もう少し、待ってくださるかしら?」
 小さな声が聞こえてくる。
 だが、その声がかすかに震えているのを聞き取って、ユージィンは、思わず吹き出しそうになったのを、必死でこらえた。
 この状況は、一目瞭然だった。
 つまりは、奮闘むなしく、朝食が作れなかったということだろう。
 ユージィンは、しばし考え込んだ。
 このまま、おとなしく待っていてやるのがいいのか・・・。
 だが、旺盛な食欲を誇るユージィンである。いいかげん、空腹だった。
 それに、このまま待つとしても、できあがるまでにどれくらい時間がかかるのか、わかったものではないし、だいたい、できあがるかどうかもあやしい。
 一日、日干しにされるのは、たまったものではなかった。
 ユージィンは、かすかに唇をゆがめると、キッチンに足を踏み入れた。
「おはよう、アンゲリカ」
 柔らかく言って、ゆっくりとアンゲリカに近づく。
 そして、そっと後ろから抱きしめると、その首筋に口づけた。
「どうして、顔を見せてくれないのかな?」
 囁くように言って、頬に唇を寄せる。
「……あの……」
 身を固くして、頑固にまな板の上に目を落としているアンゲリカの顎をとらえ、振り向かせる。
 その目が真っ赤になっているのを、認めて、ユージィンは、微笑んだ。
「どうしたんだい?」
 ユージィンが優しく言うと、アンゲリカは、頬を染めて、顔をそむけようとした。
 だが、ユージィンは、その頬に右手を添えて自分の方を向かせると、そっと唇を重ねた。
 そして、優しく目元をゆるませて、アンゲリカの顔を見おろした。
 アンゲリカの頬がさらに紅潮する。
「どうしたの? 言ってごらん」
「……あの……わたくし……」
 アンゲリカは、うつむき唇を噛んだ。
「うん?」
「ブランチを作ろうと思ってたのですけど、材料がなくて……」
「材料が?」
「ええ、その……ちゃんと作るものも考えておいたのですけど、そのために必要な材料がなくて、それで、他のものにしようと思ったのですけど、今度は、それがうまくいかなくて……」
 ユージィンは、ちらりと、まな板の上や料理台の上に目をやった。
 なにやら、いろいろな種類の食材が散乱しており、たいていのものは揃っているようにも思える。
 これだけあれば、なんでも作れるだろうに、と、ひそかに思うものの、むろん、そんなことを表情に出すユージィンではない。
「そうか。大変だったね」
 心の内など、一片も面にも声音にも出すことなく、ひたすら優しく言う。
 アンゲリカは、頬を赤らめたまま、首を振った。
「でも、やっと、なんとか作れそうなものを見つけましたから、もう、だいじょうぶですわ。もう少し、お待ちくださいな」
 ユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「でも、もう、疲れただろう? いいよ、ちょっと休みなさい」
「でも、あなたの朝食が……」
 ユージィンは苦笑した。
「アンゲリカ、そうやって、なんでも完璧にやろうとするのは、君の悪いくせだよ。まあ、なんでもできてしまうから、そうなんだろうけど、でも、私の前では、そんなに必死にならなくていいんだよ。少しくらい力を抜かないと」
「でも……」
「でも、じゃないよ。それに、君がそんなにいつもいつも、肩肘をはっていたら、私はどうすればいいのかな? 私は、だめなところがたくさんある男だよ。きっと、これからばれてしまうだろうから、白状しておくけどね。あんまり行儀がいいとは言えないだろうし、整理整頓というものも、あまり得意ではないし。……きっと、君に、これから、いろいろと怒られるんだろうなあ、と思っているんだよ」
 そう言って、ユージィンは、いたずらっぽく笑った。
 アンゲリカがつられたように微笑む。
「やっと、笑ったね。君の笑顔が、私はとても好きだよ。……まあ、とにかく、私はそんな男だから、君もそんなに必死になって、なんでも完璧にしようなどと思わないでほしいんだよ。お互いに、いいところも悪いところもある。それでいいだろう? これから、何十年も一緒に過ごしていく夫婦になったんだからね」
「ユージィン……」
 アンゲリカは、ユージィンの微笑みに心を奪われたように、つぶやいた。
「いいね。アンゲリカ」
「ええ…」
 素直にうなずいたアンゲリカに、もう一度微笑んでみせて、ユージィンは、アンゲリカの肩を抱くようにして、テーブルの前に置いてあった椅子に座らせた。
「とりあえず、ここに座って。ココアでも作るから」
「あ、わたくしが」
 アンゲリカがあわてて立ち上がろうとする。
 ユージィンは、苦笑した。
「ほらほら、今、言ったばかりだろう? 君は、そこに座っていること。いいね」
 そして、身軽な足取りで、キッチンに立つと、ミルクパンを探し出し、ココアを作り始めた。
 そして、アンゲリカが刻んでいた野菜類を眺め、次に冷蔵庫をのぞいて、しばし考え込むと、手早く野菜やらなにやらを取り出した。
 テーブルの上の料理の本を手早く片づけ、その上に散乱していた野菜類を、料理台の方に運ぶ。
「あ、あの、ユージィン?」
 ユージィンは、振り向いてにこりと微笑んだ。
「私が作るよ」
「ユージィン!」
 アンゲリカは、あわてて立ち上がった。
「そんなの、だめですわ! 私が作ります!」
「いいから、いいから」
 そう言って、できあがったココアをカップに注ぎ、アンゲリカの前に置く。
「はい、これ飲んで、落ちついて」
「でも……」
 まだ、座るかどうか決めかねているようなアンゲリカに、苦笑すると、もう一度その肩に手を置いて、椅子に座らせ、その手にカップを握らせた。
「だいじょうぶだよ。食べられないものは作らないから」
「そんなことは!」
「私はね、けっこう、料理は得意だよ。昔は、自分で作ってたからね」
「そうなんですの?」
「そう。君と違ってね、家には執事もコックもいなかったからね。母は働いていたから、もっぱら、私が作ってたよ。士官学校に入ってからは、寮の食事だからね、まったく作らなかったけど、その前は、ずっと。だから、慣れたものだ」
 話しながらも、ユージィンの手は休みなく動き、ベーコンやら、じゃがいもやらタマネギやらを刻んでいく。
 確かに、その手つきは、危なげがなく、手際もいい。
「まあ、そんなに凝ったものは作れないけどね」
 ユージィンは、ちょうど大きさの合いそうな鍋を探しだすと、刻んだベーコンと野菜のうち半分を、投げ込んで炒め始めた。
 辺りにいい香りが漂う。
 ほどよく焦げ目がついたところで、水を適当に入れて、沸騰させる。
 そして、あちこちの戸棚を開けて何かを探すようだったが、不意に笑顔を浮かべると一つの缶詰を取り出した。 コーンをクリーム状につぶした缶詰だった。
 それを、ざっと鍋にあけ、かき回し、弱火にすると、ふたを閉じる。
 次に冷蔵庫から卵を取り出すと、ボウルの中に、片手で、次々と割っていく。
「なんだか、なつかしいな」
 ユージィンは、かすかに微笑みながら言った。
「火星に来たのが十四の時だからね。それから、十八まで、いろいろ作ったよ。失敗もたくさんしたけどね」
 そう言って、アンゲリカをちらりと振り返って、微笑む。
 だがそうしながらも、ユージィンの手は休むことなく、器用に動き、フライパンに野菜やベーコンの刻んだものの残りを入れて炒め、そして、適当に調味料を入れて味付けをすると、割った卵の中に、ざっとあけて、かき回した。
「まだ、たった四年前のことだなんて、信じられないよ。まあ、いろんなことがあったからね」
 かき混ぜて、どろどろ状になったものを、熱したフライパンに一気に流し込み、ふたをして、しばらく焼く。
 そこで、ユージィンは、ふと振り向いた。
「ここからが、勝負なんだよ」
 そう言って、アンゲリカに微笑んでみせる。
「なんですの?」
「ここで躊躇すると、大失敗なんだ」
 ユージィンは、楽しそうに笑った。
 そして、左手でフライパンを軽く動かし、うなずいた。
「行くよ」
 右手でフライパンのふたを押さえ、そのまま、一気に逆さまにする。
 そして手早く、フライパンをもとに戻し、ふたの上に乗った、なにやら、まだどろどろとした具を、水平に移動させてフライパンに移した。
「大成功!」
 ユージィンは、満面の笑みでアンゲリカを振り返った。
「こうしないと反対側が焼けないんだけどね、まだ表面がどろどろだから、早くやらないと全部ふたから落ちてしまうんだよ。とにかく、思い切りが必要なんだな。久しぶりだからどうかな、と思ったけど、うまくいったよ」
 ユージィンは、心底うれしそうに笑った。
 だが、アンゲリカは、何か不思議なものでも見るように、そのユージィンの顔を見つめた。
 それに気づき、ユージィンが、首をかしげる。
「どうしたんだい?」
「……いえ、ただ……」
「ただ?」
「あの、わたくしね、あなたのそういう顔、初めて見ましたわ。あなたって、そんな顔もなさるのね」
「え?」
 ユージィンは、虚をつかれたように口を閉じた。
 頬に浮かんでいた微笑みがわずかにこわばり、青緑の瞳が、かすかな鋭さを帯びてアンゲリカに向けられる。
 だが、それは、ほんの一瞬のことで、すぐにいつもの柔らかい微笑みが、まるで薄い紗をかぶせるように、ユージィンの顔を覆った。おそらく、誰が見ても、まったく気づかないくらいの変化でしかなかったはずだった。
 だが、アンゲリカは、ふと、心配そうに眉を寄せた。
「ごめんなさい。わたくし、なにか気に障ることを言ってしまったかしら……?」
 ユージィンは、いかにも驚いたように目を丸くした。
「どうして?」
「……いえ、なんとなく……ですけど……」
 アンゲリカがつぶやくように言って、ユージィンを探るように見つめた。
 ユージィンは、苦笑して首を振った。
「アンゲリカ、気にしすぎだよ。私が、どうして気を悪くしないといけないんだい? で、私はどういう顔をしていたのかな?」
 ユージィンは、にこにこと微笑んで、アンゲリカの顔をのぞきこむようにした。
 それは、まったくいつも通りの、穏やかで優しい顔だった。
 アンゲリカは、小さく微笑んだ。
「ごめんなさい……変なことを言って」
「謝ることはないよ。……で、私はどんな顔をしていたの?」
 アンゲリカは、くすりと笑った。
「なんだか、子供みたいだったわ」
「……子供?」
「ええ、そう。なんていうか、とっても楽しそうで、無邪気で、いたずらが成功した子供みたいな顔だったわ」
 ユージィンは、目を軽く見開いた。
「……こんなこと、言われるの、嫌かしら?」
 ユージィンは、再び苦笑した。
「まさか。ちょっと驚いただけだよ。そうか、子供ねえ。まあ、童顔っていうのは、よく言われるけどね」
「あら、あなたの顔がというんではないわ。表情が、というだけで……」
 アンゲリカはあわてて言った。
「いいよ、弁解しないでも」
 ユージィンが、笑う。
「弁解じゃないわ。だって、わたくし、あなたの顔、とても好きなんですもの……」
 そこまで言って、アンゲリカは、ぱっと頬を赤らめた。
 ユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう。私も君の顔も、姿も、何もかも、好きだよ」
 そう言って、右手を伸ばし、アンゲリカの顎をとらえる。
 が、そこで、あわてて、フライパンに目をやった。
「おっと、焼けすぎてしまう。アンゲリカ、皿、出して」
「あ、はい…」
「大きめの平たいのを、一枚」
「はい」
「オムレツのできあがり」
 ユージィンは、慣れた仕草で、皿の上に、ほどよく焦げ目のついたオムレツを移した。
 満足そうに微笑んで、フライパンをコンロに戻す。
「これね、スパニッシュオムレツって言うんだよ。食べたことないだろう?」
「ええ」
「おいしいんだよ。あ、あとスープ皿、2枚、サラダボウル2つ、用意して。フォークとスプーンも、出してくれ」
「はい」
 アンゲリカが並べた皿の上に、次々と料理が盛られていく。
「はい、スープ」
 スープ皿に注がれたのは、なにやらどろどろとした感じのものだった。
 見た目はコーンスープの色だが、中にじゃがいもやらタマネギやらベーコンやらがごたごたと入っており、なにやら野菜煮込み風である。
「サラダに、あとパン」
 彩りもあざやかなブロッコリーのサラダ、そして焼きたてで香ばしい香りを漂わせているフランスパンが、出てくる。
 アンゲリカは、呆然とそれを見ていた。
「はい、食べよう」
 ユージィンは、どこからか椅子を引っ張ってくると、アンゲリカの斜め前に腰を下ろした。そして、さっそくフォークを手に取る。
「え? でも、あのここで?」
 アンゲリカが驚いたように目を見張った。
 それへ、ユージィンはにっこりと笑った。
「こういうものはね、ダイニングルーム、なんていうところで食べるもんじゃないんだよ。ここで十分」
「でも……」
 アンゲリカは困惑したように、眉を寄せた。
 アンゲリカにとってキッチンは仕事をする場である。
 こんなところで食事をとるなど、考えたこともなかったのである。
 だが、ユージィンは、さっそくサラダをつつきながら、軽く言った。
「いいじゃないか。こういうのも。それに、誰も見てないよ。ここには私達しかいないんだ。ほら、冷めるよ」
 アンゲリカは、とまどいながらも、椅子に腰を下ろし、スプーンを手に取った。
 そして、スープを一口、飲む。
 不意に、その目が大きく見開かれた。
「ユージィン……」
「どう?」
「……おいしい」
 ユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「それは、よかった。お代わりもあるからね」
 アンゲリカは、オムレツに手を伸ばし、また、おいしいとつぶやいた。
 そして、ふと黙り込むとうつむいた。
「アンゲリカ?」
「あなたって、本当になんでもできるのね」
 ユージィンは、驚いたように目を見張った。
「そんなことないよ。それを言うなら、君だろう?」
 アンゲリカは首を振った。そして、つぶやくように言う。
「わたくしは、なんにも出来ないわ」
 ユージィンは、苦笑するとアンゲリカの顔をのぞきこんだ。
「ほら、そうやって、考え込まない。いいかい? そう思ってるのは、君だけだよ。それに、たとえ何にもできなくてもいいじゃないか。君ができないことは、私がやればいいんだ。そして、私ができないことは、君がやる。それでいいだろう? そして、二人ともできなければ、なんとか二人ですればいい。どう?」
 アンゲリカは、ユージィンを見つめた。
 その瞳は、全幅の信頼と愛情をあふれさせ、まっすぐにユージィンに向けられていた。
「ユージィン……」
「わかったかい?」
「ええ」
 ユージィンは、フォークを皿の上に置くと、そっと右手を伸ばしてアンゲリカの頬に触れた。
 そして、ゆっくりと唇を寄せる。
「愛しているよ、アンゲリカ」
「ええ……ええ、ユージィン。わたくしも…わたくし、本当に、あなたを愛してるわ」
 ユージィンは、優しく微笑むと、そっと唇を重ねた。
 アンゲリカが、うっとりと目を閉じる。
 その顔を見おろす、青緑の瞳の奧に、一瞬、なにか、苦い、苛立ちにも似たものが走った。
 だが、ふいと降りた瞼が、青緑の瞳もろとも、それを隠す。
 そして、二人の唇が離れた時には、その瞳は、いつものように、穏やかで優しい輝きだけを浮かべて、妻に向けられていた。
「さあ、早く、食べてしまおう。二人だけでいられるのは、二日しかないからね」
 アンゲリカは、幸せそうにうなずいた。
 その顔は、愛するものを得た喜びと、これからの人生への期待に光輝き、一片の曇りもなかった。      

END                

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