St.Valentine’s Day

ドアが開いて、少年はびくりと身体を震わせた。
 習慣になった、この仕草は無意識のものだ。
 それに気付いて、入ってきた若い女は悲しげに目を伏せた。
 だが、無言でドアをしめ、無機質でがらんとした部屋の中央に置かれたテーブルに近づく。
 そして、白衣の裾を押さえるようにして、少年の向かいに置かれた椅子に座った。
 ユージニー・バンフォード。
 半年ほど前に、この研究所にやってきた精神科医だった。
 少年は、誰が入ってきたのかを、一度ちらりと確認しただけで、あとは、下を向いたまま、膝の上で組んだ自分の手をじっと見つめている。
 ユージニーは、しばらく黙り込んだまま、少年が自分から顔をあげるのを待った。
 そして、じっと少年を観察する。
 この少年のデータは完璧に頭に入っていた。
 コロニーE出身。
 現在8才。
 2才の時に父親の命を奪い、母親によってこの遺伝子研究所に連れてこられた。というより、母親の親戚の手によって、だ。
 母親は、精神的ショックでほとんど、精神に異常を来していたらしい。 それほど、この少年の父親の死に様はすさまじいものだったということだった。
 それ以来、6年間、この研究所で、さまざまな実験のサンプルとして扱われてきた。
 一度もこの研究所から外に出たことはない。
 知能指数は、異常に高く、そしてESP能力も、他のサンプルを圧倒する高さを誇る。
 しかも、その力はまだまだ、未知数で、多岐にわたっており、ほぼ万能だった。
 だが、性格は不従順。
 というより、時折、異常な凶暴性を発揮し、その時の残酷さは想像を絶するものがある。
 今までに起こした事件は数知れず、その事件による死者も一人二人ではない。
 つまり、この研究所でもっとも力が強く、もっとも危険なサンプル。
 それが、この少年だった。
 だが、こうしてみている限りでは、とてもではないが、この少年がそんなに恐ろしい存在とは思えない。
 8才にしては、小さい方だろう。
 というより、身長は平均的にはあるのだ。
 だが、横幅が、まったく追いついておらず、そのガリガリに痩せた身体が、見る者に小柄な印象を与える。
 手も足も細く、頼りなげに伸びている。
 そして、細いまだ幼さの残る首の上に乗る顔も、小作りで、いかにもおとなしげな印象があった。
 うつむいているために、はっきりとは見えないものの、ここからでも、その長い睫がはっきりと見える。そして、その睫の下に隠されている目が非常に大きく、印象的なことを、ユージニーは知っていた。
「こんにちは」
 ユージニーは、ようやく言った。
 それでも、少年は顔をあげなかった。
 頑固に下を向いたまま、唇を噛んでいる。
「顔を見せてくれる?」
 ユージニーは柔らかく言った。
 だが、少年はまったく反応を示さない。
 ユージニーは、小さく吐息をつくと、白衣のポケットを探った。
 そして、かさかさと音をさせながら小さな包みを取り出し、そっと、テーブルの上に置いた。
 好奇心に負けたのか、少年の目がちらりと、テーブルの上に向けられる。
 だが、またすぐに、その目は下に向けられた。
 ユージニーは苦笑し、だが、指をそっと伸ばして、テーブルの上においた包みをゆっくりと少年の前に押しやった。
 少年が、目だけをゆっくりとあげる。
 そして、その包みを見つめると、いぶかしげに眉を寄せ、やがて、問いかけるようなまなざしをユージニーに向けた。
 わずかに、あごが上にあがり、少年の顔が少しだけあらわになる。
 その瞬間、少年の腫れあがった右頬が目に入り、ユージニーは思わず、息をのんだ。
 それに気付いて、少年が唇を噛む。
 だが、今度は顔を伏せず、ぐいと顎をあげて、真正面からユージニーに面を向けた。
 その顔は、ひどいものだった。
 赤紫に腫れ上がった頬、痛々しく腫れ、切れた唇。
 恐らく、泣き腫らしたのだろう。
 その大きな目は、真っ赤に充血し、まぶたの周りも、熱をもったように赤らみ、腫れていた。
 だが、悲惨な、さんざんに痛めつけられたその幼い印象をもつ貌の中で、印象的な、美しい瞳はまっすぐにユージニーに向けられ、挑戦的にきらめいていた。
 明らかな敵意を潜めた、その瞳は叫んでいた。
 見ればいい。
 痛めつけられた、この惨めな顔をみるがいい。
 お前たち、大人がやったんだ。
 ユージニーは、目が縁が熱くなるのを感じた。
(だめ。泣いてはいけない)
 必死で涙をこらえる。
 ここで、自分が泣いてはいけないのだ。
 意志の力を総動員して、涙を防ぎ止める。
 そして、そっと微笑んで少年を見つめた。
「…こんにちは」
 少年の瞳が、一瞬、揺らぐ。
「やっと、顔を見せてくれたわね」
 ユージニーは、さらに微笑むと、手のひらを差し出すようにして、先ほどテーブルの上に置いた包みを示した。
「プレゼントよ」
 少年の視線はユージニーから離れない。
「…あなたにあげようと思って、今日、買ってきたのよ。受け取って」
 少年は、じっとユージニーを見つめていたが、やがて、ふっと視線を落し、包みを見つめた。
 そして、問いかけるように、もう一度、ユージニーを見上げる。
「開けてみて」
 少年はためらうように、その包みをながめていたが、やがてそろそろと左手を伸ばし、包みを自分の方に引き寄せた。
 剥き出しになったその手首にも、まだ生々しい傷痕が何本も走るのを見つけて、ユージニーは思わず、目をそらした。
 だが、少年は、そのプレゼントにいくぶん、心を惹かれたようで、両手を使って上にかかったリボンをほどきはじめた。
 包装紙を取り去り、中から現われた箱の蓋をあける。
 そして、ふと視線をユージニーに向けた。
「…これ、なに?」
 小さな声だった。
 だが、初めて少年が声を出したことで、ユージニーはほっと息をついた。
 そして、にっこりと微笑む。
「チョコレートケーキよ」
「……」
「食べていいわよ。フォークもついてるでしょ」
 少年が、探るような目を向ける。
「なんにも入ってないわ」
 ユージニーは、冗談めかして言い、だが、そこでふと口を閉じた。
 少年が、警戒するのも無理はない。
 今まで、さんざん、薬物や麻薬の類の実験台にさせられているのだ。
 こうして、食事に入れられていたこともめずらしくないのだろう。
「ごめんなさい。でも、ほんとうに、ただのチョコレートケーキよ。プレゼントなの」
 少年の大きな目が、じっとユージニーを見つめた。
 そして、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやく。
「…なんで?」
「え?」
「プレゼントって……」
 ユージニーは、少年が何を言おうとしているのか、ようやく気付いた。
「ああ、今日はね、聖バレンタインの日なのよ」
「……?」
「キリスト教の祭日。というより、カトリックのね、祝日なの」
「……カトリック」
「そう、私は違うけど、両親がカトリックだから、毎年、2月14日はちゃんとお祝いするの。本当は聖ヴァレンタインが殉教した日。でも、恋人を選ぶ日、とも言われていてね、今日は恋人たちの大事な日なのよ。好きな相手に花束を贈ったり、ケーキを作ってもてなしたり・・・・ね」
 少年は、かすかに首をかしげた。
 外の世界を知らないのだ。
 おそらく、何を聞いてもぴんとこないのだろう。
 だが、ようやく警戒を解いたらしく、左手でフォークを取った。
 そして、ケーキをつつく。
 フォークで削り取ったチョコレートの小さい固まりを、口元に運び、だが、またそこで、一瞬、ためらう。だが、ユージニーが微笑んで見つめているのに気付くと、ようやく、ケーキを口に入れた。
 その瞬間、大きな目がまっすぐにユージニーに向けられた。
「どう? おいしい?」
 少年が、ためらいながらも、うなずく。
 その頬がかすかに赤く染まっているのに、気づき、ユージニーは微笑んだ。
「よかったわ。本当は、もっと大きいのを持ってきてあげたかったんだけど、見つかると困るから・・。また今度買ってきてあげるわ」
 少年は、無言でフォークをケーキに突き刺し、また、口元に運んだ。
 一口食べて、また、ちらりとユージニーを見上げる。
 そして、ユージニーが軽くうなずくのを見ると、やがて、一心にケーキを食べ始めた。
 その姿は、どう見ても、ただの8才の少年だ。
 町を走り回る少年達と、どこが違うというのか。
 確かに、恐ろしい力を持ってはいるのだろう。
 だが、その力を持って生まれてきたのは、この少年の罪ではない。
 そう生まれてしまったというだけのことだ。
 それなのに、なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。
 6年間、一度も外に出ることもなく、この、無機質な白い壁の中で、毎日毎日、実験という名の苦痛を与え続けられる生活。
 愛情を向けられることもなく、暴力がまかり通る世界で、サンプルと呼ばれ、実験動物扱いされる毎日。
 それは、考えるだに恐ろしい生活だ。
 自分が、もしそんなことになったら……。
 とてもではないが、1ヶ月もしたら発狂しているだろう。
 大人の自分でさえ、恐ろしいというのに、この子は、まだ8才なのだ。
 半年前、精神科医として、この研究所に配属になった時、ユージニーは子供たちの扱いの酷さに驚き、何度も何度も抗議をした。 医大を出て、研修期間を終えたばかりのユージニーにとって、その酷さは目をつぶることのできないものだった。
 だが、そのたびに、返ってきた言葉はいつも同じだった。
 月面都市のため。
 確かに、ここの子供たちの研究が必要なことなのだ、というのは理解できないではない。
 火星都市で続々と誕生しつつあるという人間兵器、ユーベルメンシュ。
 それに対する純粋な恐怖感は、ユージニーにもあった。
 戦争になったら、ユージニーの属する月面都市社会は、そんな人間兵器を大量に有する火星都市に勝つことはできないだろう。そして多くの人々が、その恐ろしい人間兵器に殺されることになるのだろう。
 それは、恐ろしい。
 絶対に、嫌だ。
 自分が死ぬのも、家族や恋人や友人が死ぬのも嫌だった。
 だから、そのために、ESPの研究が必要なのだ、というのは、わかるのだ。
 そして、この少年が月面都市が有する研究所のサンプルの中で、もっとも、そのユーベルメンシュに近い、というより、匹敵しうる力を持っており、そのために、この少年の研究が最重要事項になっているというのも、よくわかる。
 だが、もっと他にやり方があるだろうに、と思うのだ。
 研究は、すればいい。
 だが、研究をする、というのと、まったく人間性を無視した扱いをする、というのとは、問題が違う。
 きちんと、人間として扱い、その上で研究することも可能なはずだ。
 だが、ユージニーがそう言うと、上司たちは一様に、鼻を鳴らした。
 あの、サンプルと一年、いや、半年つき合ってみればいい。
 そんなことは、つゆとも思わなくなるぞ、と。
 あれは、まるで動物だ。
 知能指数は高いかもしれないが、動物なみに凶暴で、理性など、かけらもない。
 いや、そう言ったら動物に失礼だな。
 あれは、化け物だ。
 化け物以外のなにものでもない、と。
 確かに、少年の凶暴性は異常だった。
 だが、こんな扱いをされていれば、そうなって当然だろう。
 2才から、こんな所に放り込まれているのだ。
 まだまだ、愛情の必要な時期に、その全てをはぎ取られ、守ってくれる者もなく、愛情を向けてくれる者もなく、ただひたすら、残酷に冷酷に扱われてきたのだ。
 この少年が、こんなになってしまったのは、大人たちのせいなのだ。
 私たちのせいなのだ……。

 ユージニーは思わず、手を伸ばしていた。
 その瞬間、少年が、びくりと身体を引いた。
 大きな目をさらに見開いて、身体をこれ以上ないほどに固くし、椅子の背もたれに背を押しつける。
 その瞳には、明らかな恐怖がある。
 だが、その唇はぎゅっと噛みしめられ、大きな目は、負けまいとでもするように、しっかりと見開かれ、まっすぐにユージニーに向けられていた。
 その姿は、まるで、さんざんに虐められ、人間とみれば毛を逆立てて精一杯の虚勢をはる子猫のようだった。
 その瞬間、ユージニーの目の縁から、熱いものがしたたり落ちた。
 いけない、と思ったが、もう、後の祭りだった。
 いったん、堰を切ったものは、もう、止まらない。
 涙が流れ落ちるままに、立上がるとテーブルを回って少年のそばに膝をついた。
 そして、小さな身体を抱きしめる。
 少年は、抵抗しなかった。
 だが、その身体はこれ以上ないほど、強ばり、全身を緊張させてユージニーを拒んでいる。
 ユージニーは少年を抱きしめたまま、そっと、その柔らかい髪をなでた。
「かわいそうに……」
 囁くようにつぶやく。
「……かわいそうに……つらいでしょうね……」
 不意に……。
 少年の身体が、震えた。
 大きく身震いをするように震え、そして、その拳がぎゅっと握られた。
 そして、しゃくりあげるように、その喉が震える。
 ユージニーは、さらに優しく少年を抱きしめた。
「泣いていいのよ。思いっきり泣きなさい」
 だが……。
 少年は、泣いてはいなかったのだった。
 その顔は、なにか、鋭い痛みをこらえるかのように歪み、青緑の瞳は、じっと宙を凝視していた。
 だが、ユージニーは、それには、気付かなかった。
 もし、その表情を見ていたら、おそらく、自分が間違いを犯したことに気付いただろう。
 なぜなら、その乾いた、美しい瞳の奧で、まるで燠火のようにくすぶっているのは、まごうかたなき強烈な敵意と深い憎しみだったのだから。
 ユージニーは、優しく少年の髪をなで続けていた。
 少年が、少しずつ少しずつ、身体の力を抜いていく。
 だが、それとともに、その瞳に次第に形作られていくものがあった。
 それは、強い意志。
 そして、未来への渇望。
 青緑の瞳が、美しく、しかし、物騒に煌めく。
 少年が、自分の未来を選び取った瞬間だった。
 

「今日が何の日か知ってますか?」
 不意に声がして、マッソウは読んでいた資料から目を離した。
 ベッドのヘッドボードに寄せて置いたクッションに背を預けたまま、視線を、声のした方に移す。
 見れば、鮮やかな青緑の瞳が、楽しげな光を浮かべて、こちらを見上げていた。
 マッソウは、小さく笑った。
「なんだ、起きて早々、謎かけか?」
 ユージィンも微笑むと、肘をシーツについて気だるそうに上半身を起こし、俯せのまま枕を引き寄せた。
 枕を抱え込むようにして、片頬を乗せ、マッソウに顔を向ける。
「夢を見たんですよ」
「夢?」
「ええ、昔ね、担当の精神科医がチョコレートケーキをくれたことがあったんですよ」
「ふん?」
「2月14日。聖バレンタインの日」
 マッソウは、眉をあげた。
 そして、ふっと得心がいったような顔になる。
「ああ、確かカトリックでは祝日だったな。その精神科医はカトリックか」
「ええ、彼女の両親がね。……ユージニー・バンフォード」
 マッソウは、一瞬、ユージィンを見つめ、そして、ふと皮肉めいた笑みを浮かべた。
「なるほど。確か、イギリス系か?彼女は」
「はい」
「そうか、恋人を選ぶ日、ということか」
「さすが、よくご存じですね」
 ユージィンは、小さく笑った。
「まあ、彼女は単に、私を憐れんでケーキをくれただけでしたけどね、でも、そのことは覚えてたんですよ、ずっと。だから、その後、火星に来て驚きましたよ」
 マッソウは、ふと手を伸ばし、ユージィンの額にかかった前髪をかきあげた。
「運命の日、不幸の日……か?」
 ユージィンは、くすりと笑った。
「ええ、本当はそうなんですね」
 マッソウは、ユージィンの髪を指で弄びながら、肩をすくめた。
「本当は、というか、まあ、要するに昔で言うドイツ系民族が主流だからな。そのまま、昔の言い伝えを引きずってきているというだけだろうが」
 ユージィンは、くすくすと笑った。
「不幸の日、運命の日、というのと、恋人を選ぶ日。おもしろい符合だと思いませんか」
 マッソウは、指をユージィンの髪から離し、そのまま、枕に乗っている顎を捉えた。
 そして、微笑みを浮かべている顔をのぞきこんだ。
「確かに、君に関しては、見事に一致しているな」
「どういうことです?」
「君を愛した者は、不幸になる」
 ユージィンは、片眉をあげた。
「ユージニー・バンフォード」
 マッソウはつぶやくように言った。
「別に、彼女は私を愛したわけではありませんよ」
 ユージィンは、肩をすくめた。
 だが、マッソウはそれには答えず、シーツの上に投げ出されていた、ユージィンの左手を取った。
 そして、無言のまま、その薬指にはまった結婚指輪に触れる。
 だが、やはり何も言わずに、手に持っていた資料をサイドテーブルの上に投げやると、ユージィンの身体を引き寄せた。
 そして、抱き込むようにして覆い被さる。
「……クリューガー君もそうかな」
 ユージィンは、驚いたようにマッソウを見上げた。
「ヴィクトール、ですか? 彼は、私を憎んでいますよ?」
 マッソウは、小さく笑うとユージィンの額に口づけた。
「さあ、どうかな。憎しみと愛とはよく似ているものだ」
 ユージィンは、苦笑した。
 そして、マッソウの背に手を回す。
「あなたは?」
 ユージィンの瞼に口づけようとしていたマッソウは、一瞬、虚をつかれたように、動きをとめた。
 すぐ近くで、青緑の瞳が、いたずらめいた光を浮かべて、マッソウを見つめている。
「あなたはどうなんですか?」
 今度はマッソウが苦笑する番だった。 
「私か? まあ、この年になると自分の身がかわいいからな。君を愛して自滅するのはごめんだ」
 そう言って、軽くユージィンの唇に口づける。
「悲しいことを言いますね」
 ユージィンは、そう言いながらも、くすりと笑った。
 マッソウもまた、小さく笑うと、その顎を指で掴んだ。
「思ってもいないことを言うのは、やめたまえ」
「そんなこと……」
 ユージィンが抗議するように口を開く。
 マッソウは、その言葉を吸い込むようにして、深く唇を重ねた。

END

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