絶頂を極めた身体が、腕の中で激しく震えながら、反り返る。
ヴィクトールは、その身体をしっかりと抱きとめながら、自分もまた、こらえていた欲望を、思いきり、吐き出した。
力を失い、崩れ落ちてきた身体を、抱きしめる。
その、荒い息づかいと、早鐘のように打っている心臓の鼓動に耳を傾けながら、ヴィクトールは、そっと、ため息をついた。
とうとう、安らぎに満ちた時間の終わりがきたのだった。
腕の中の、ぬくもりも、もう、手放さなければならない。
そのことに、言いようのない寂しさを感じる。
できることなら、このまま、このあたたかい身体を、抱いていたかった。
（何を、ばかなことを）
ヴィクトールは、自分の感傷に苦笑すると、汗ばんだラファエルの身体を、そっと、ソファの上に横たえた。
すがりつくように首に回されていた腕が、ソファの上に、ぱたりと落ちる。
ぬくもりが去り、冷たい空気が身体を冷やす。
なんともいえぬ喪失感を感じながら、ヴィクトールは、そっと、己の身体を抜き出した。
同時にしたたり落ちた、鮮血と欲望の残滓。
苦い後悔と、罪の意識に、胸が痛む。
ヴィクトールは、小さく息をつくと、なるべく、ラファエルの身体に振動を与えないようにして、ソファから降り、バスルームに向かった。
バスローブをはおり、取り出したタオルを熱い湯で濡らす。
そして、静かにリビングに戻ると、ぐったりと、ソファに横たわったままのラファエルの身体に、そっと、タオルを当てた。
ゆっくりと、ラファエルが目を開く。
だが、ヴィクトールが何をしようとしているかに気づいたらしく、とたんに、頬を真っ赤に染めた。
「あ……おれ、自分で……」
タオルに手を伸ばすようにして、身を起こそうとする。
だが、その瞬間、激痛が走ったらしく、顔をゆがめてソファに倒れ込んだ。
ヴィクトールは、小さくため息をついた。
「かなり、傷ついているはずだ。おとなしくしてろ」
静かに言い、もう一度、タオルを当てる。
ラファエルは、今度は、言われたとおり、じっとしていたが、顔をさらに赤く染め、いたたまれぬように、ヴィクトールから、目をそらした。
ヴィクトールは、ラファエルの下腹部や太腿に散った汚れを丁寧に拭き取っていった。
そして、ほぼ、きれいになったとみると、そっと、その身体を、俯せにする。
だが、そのとたん、眉を寄せた。
あらわになった下半身は、惨憺たる有様だった。
肌に流れる、いくつもの赤い筋。
渇いた筋の上に、さらに、まだ、新しい鮮血の痕が重なっている。
それは、ヴィクトールにとっては安らぎに満ちていたこの時間が、ラファエルにとって、どんなに残酷なものだったかを物語っていた。
ヴィクトールは、そっとため息をつくと、汚れきった肌をタオルで清めていった。
身体の中に残された汚れも、細心の注意を払って、できる限り、ぬぐい取る。
そして、手早く傷口の手当を済ませると、寝室からとってきた毛布で、ラファエルの身体を包み、毛布ごと抱き上げた。
「え、あ、歩ける……から……ッ……」
ラファエルは、あわてて、手を振り回した。
だが、落ちそうになって、とっさにヴィクトールの首にしがみつく。
「暴れるな。落ちるぞ」
ヴィクトールは、そのまま、ラファエルの身体を、リビングの奥につながる寝室に運び、ベッドの上に、そっとおろした。
「だいじょうぶか？」
低く問うと、毛布にくるまったラファエルは、真っ赤な顔をしたまま、何度もうなずいた。
「そうか……。何か、飲むか？」
少し考えて、ラファエルがまた、うなずく。
「酒でいいか？」
ラファエルがうなずくのを見て、ヴィクトールは、棚からグラスを一つと、ブランデーを取り出した。
グラスに半分ほど酒をつぎ、ベッドに持っていく。
ラファエルが、ゆっくりとグラスの中身を飲み干すのを見守り、空になったグラスを受け取った。
「もっと、飲むか？」
ラファエルが、小さく首を振る。
ヴィクトールは、うなずき、グラスをサイドテーブルに置いた。
そして、少し迷い、だが、そっと、ベッドの端に腰を下ろした。
しん、とした静寂が落ちる。
ヴィクトールは、口を開きかけ、だが、ふと、ためらった。
今さら、何を、言おうというのか。
すまなかった、とでも言うのか。
そんな言葉で、すまされることではないだろうに、と苦く思う。
言葉で、ラファエルの傷が癒えるわけもない。
汚してしまったラファエルの身体が、元に戻るわけもない。
ヴィクトールは、視線を床に落とした。
そう、自分は、この青年を汚したのだ。
無理矢理、身体を開き、男の身体を刻み込んだ。
そして、強引に快楽を味わわせた。
それは、強姦し、身体を傷つけることよりも、ひどい仕打ちだ、と今さらながら思う。
ヴィクトールは、そっと、吐息をついた。
自分に言えることは、なにも、ない。
何を、どう、言ったところで、自分のしたことが消えるわけでも、罪が軽くなるわけでもないのだから。
ヴィクトールは、ゆっくりと視線をあげた。
じっと、自分を見つめていたらしいラファエルと、目が合う。
その青緑の瞳を見つめ、静かに口を開いた。
「まだ、傷口が、ふさがっていない。今晩は、泊っていくといい。明日の朝、送って……」
だが、ふと、そこで口を閉じる。
送って行こう？
ラファエルにとっては、冗談ではないだろう。
思わず、浮かぶ、自嘲の笑み。
「車で送らせよう。執事に言っておく」
それだけ言うと、ヴィクトールは、静かに立ち上がった。
言いようのない寂寥感。
だが、自分には、そんなものを感じる資格すら、ない。
ドアに向かい、歩き出す。
が、ふと、手首を引かれ、足を止めた。
振り向くと、ラファエルが、ベッドから身体を乗り出すようにして、手首をつかんでいた。
青緑の瞳が、何かを訴えるように、真剣な光を湛え、まっすぐにヴィクトールを見つめている。
「あの、おれ……」
かすれた声が、ラファエルの唇から漏れた。
だが、そこで、ようやく、自分がしたことに気づいたように、ぱっと、ヴィクトールの手を離した。
その頬が、赤く染まっている。
ヴィクトールは、眉を寄せ、ラファエルを見つめた。
「……おれ……」
ラファエルは、もう一度、言った。
だが、そこで、言葉に詰まり、いったん開きかけた口を、閉じ、うつむいてしまう。
言いたいことがあるのに、言葉が見つからない、といった様子で、もどかしげに唇を噛む。
そのまま、毛布を両手でつかみ、何かを必死で考えるようだったが、やがて、思い切ったように顔をあげ、ヴィクトールを見つめた。
「えと……おれ……その」
そこで、ラファエルの頬が、また、真っ赤に染まった。
「……い、嫌じゃなかったから……」
消え入りそうな声だった。
だが、ヴィクトールの耳にも、その言葉は、はっきりと届いた。
思わず、目を見開いたヴィクトールを見て、ラファエルの頬が、さらに赤くなる。
だが、真剣な面もちで、そのまま、言葉を続けた。
「おれ、すごい、寂しくて……どうしようもなくて。でも、さっき……なんていうか、すごい、あったかかったんだ……」
いったん、口を閉ざし、まっすぐにヴィクトールを見つめる。
「あったかくて……うれしかったんだ……だから……いいんだ」
真摯な色を浮かべた青緑の瞳。
ヴィクトールは、呆然と、その瞳を見つめ、立ちつくしていた。
何か言おうにも、言葉が出てこない。
その様子を、どうとったのか、ラファエルが、不意に、うつむいた。
「おれ、ヘンなこと言ってるよな」
つぶやくように言って、唇を噛む。
「……あ……じゃ……寝るよ」
うつむいたまま言うと、毛布を引きかぶるようにして、ベッドにもぐりこむ。
その瞬間、ヴィクトールは、自分でも気づかぬうちに、腕を伸ばしていた。
ラファエルの顔の上まで引き上げられていた毛布を払いのけ、細い身体をすくい上げる。
「え……あ？」
とまどったような声をあげて、ラファエルが思わず、というようにあらがう。
だが、ヴィクトールはそのまま、ラファエルの身体を引き寄せ、強く抱きしめた。
「おれは……ひどいことをした」
痩せた身体を抱きしめたまま、つぶやくように言った。
腕の中で、ラファエルが、首を振る。
「それでも……許すと？」
ラファエルは、しばらく、黙ってヴィクトールの身体を預けていた。
そして、静かに言った。
「おれ……あんなに優しく抱きしめてもらったの初めてだよ。……それに」
ふと、そこで、一瞬、口を閉じる。
言おうか、言うまいか、迷うように唇を軽く噛み、やがて、心を決めたように、口を開いた。
「…目が……」
「目？」
「うん。目が……おれの目と……一緒だった」
ヴィクトールは、目を瞬いた。
「目って……おれのか？」
「うん。……なんか、おれの目と似てるな、って……なんでか、よくわかんなかったけど……。だから……最初から、怒ったりする気になんなかった」
ラファエルは、そう言うと、少し照れくさそうに笑った。
ヴィクトールは、不思議な感慨に打たれて、ラファエルの、はにかんだような笑顔を見つめた。
その言葉の意味は、明白だった。
つまり、ラファエルは、最初からわかっていたのだ。
自分が、癒やしがたい空洞を心にかかえ、苦しんでいたことに、気づいていたのだ。
そうだ、おれは寂しかった。
いや、寂しい、というのとは、少し違う。
目の前から、突然、喪われた魂。
すべてを切り捨て、ただ唯一のものだけを見つめて生きてきたというのに、その唯一のものが、突然、喪われた。
その、たとえようもない喪失感と、心に深くうがたれた空洞。
それが、苦しくてたまらなかった。
だが、苦しいと、認めることのできなかった自分は、それがなんなのかわからず、ひたすら、渇きに、うめいていたのだ。
そう、今なら、わかる。
自分は、苦しかった。
その苦しみを、癒やされたくてたまらなかったのだ。
以前ならば、そんな感情は忌避すべきものだと思っただろう。
そんな弱さを自分が持っていることすら、許せなかっただろう。
だが、と思う。
おれも、人間なのだ。
苦しいと思い、寂しいと思う、ただの弱い人間にすぎぬのだ。
そう思っても、不思議と不快ではなかった。
そして、もう一つ、今なら、わかることがある。
強さとは、弱さを切り捨てることではないのだ。
弱さを持ちながら、自分の中の弱さを知りながら、強くあろうとすること。
それが、本当の強さというものだ。
なぜ、それが、今まで、わからなかったのだろう。
寂しければ、寂しいと言えばいいのだ。
ぬくもりが、欲しければ、こうして、抱きしめ、抱きしめられればいいのだ……。
ヴィクトールは、腕の中の身体を、さらに、深く、強く、抱きしめた。
心に染みいるようなあたたかさに、陶然と目を閉じる。
「ほんとうに……あたたかいな」
ヴィクトールは、小さく、つぶやいた。
「うん……」
ささやくような声が答え、おずおずと、腕がヴィクトールの背に回った。
「……あったかいよ……」
どのくらい、そうしていただろう。
ふと、気づくと、背中に回されていた腕が、いつのまにか、力無く、下にたれていた。
ラファエルの顔をのぞきこむと、目は閉じられ、その唇からは、安らかな寝息が漏れている。
ヴィクトールは、苦笑し、静かに、ラファエルの身体をベッドに横たえた。
毛布をそっとかけ、静かな寝顔を見守る。
「”ラファエル”……か」
ラファエル。
癒しの天使。
「……ほんとうだな」
ヴィクトールは、小さく微笑んだ。
この青年に愛される者は、幸せだろう、と思う。
愛し、愛されて生きること。
この青年ならば、それが、できるだろう。
ふと、自分にも、もしかしたら、こうしたぬくもりに包まれて生きる道があったのかもしれない、と思う。
だが、自分は、ユージィンと出会った。
そして、道を選びとってしまった。
自分には、その道しか、見えなかったから。
そして、もはや、引き返すことはできない。
いや、おそらく、引き返す術は、あったのだろう。
だが、自分は、それをしなかった。
したくなかったのだ。
たとえ、それが、滅びの道であろうと、地獄へ続く道であろうと、その道を行くことを選んだ。
愛し、憎み、己のすべてを賭けた男とともに逝くことを、選んだのだ。
だから、これで、いい。
心は、不思議と静かだった。
手を伸ばし、ラファエルの額にたれかかった前髪を、そっと、かき上げる。
ふと、その顔が、父親に重なる。
（ユージィン。おまえは、いま、どこにいる？）
闇を彷徨っているのであろう、魂に呼びかける。
分かちがたく結びついた、今となっては、まるで、半身のようにすら思える魂。
（早く、戻ってこい。おれは、おまえに、付き合ってやる。だから、帰ってこい。ここに……おれのところに……）
小さく声がして、ラファエルが、寝返りを打った。
その口元には、小さな笑みが浮かんでいる。
なにか、楽しい夢でも見ているのかもしれなかった。
ヴィクトールの唇に、ゆるやかに微笑みが浮かぶ。
それは、なんとも、優しく、そして、せつないほどの、哀しさに満ちた微笑だった。
ヴィクトールは、そっと身をかがめ、健やかな寝息をたてるラファエルの、なめらかな額に口づけた。
「おやすみ.……ラファエル」
小さくつぶやいて、そっと、立ちあがる。
そして、静かに部屋を出ていった。
END