Raphael 5

 ヴィクトールは、身体の動きをとめた。
 蒼白な顔をして、ぐったりとソファに倒れ込んだラファエルを見下ろす。
 とうとう、気を失ったのだった。
 涙に濡れた頬と、腫れ上がった瞼。
 痛ましく憔悴した顔を見るうちに、苦いものが、ヴィクトールの心に広がっていく。
 同時に、さきほどまでの狂おしい怒りが、嘘のように消えていくのを感じる。
 あとに残ったのは、むなしさと苦い後悔。
 ヴィクトールは、小さく息をついた。
 なぜ、あれほど自分は、ラファエルの無防備さに憤ったのだろうと思う。
 はじめは、哀れだと、思っていたはずだ。
 親の愛情を一途にほしがる姿は、ばかげていると思いはするものの、べつだん、憤るほどのことではない。
 無防備に人を信じる姿には、確かに苛立った。
 なぜ、そんなに簡単に、人を信用するのだ、と思った。
 だが、そんなことくらいで、なぜ、あれほど自分は……。
 不意に、自分を見つめていた、青緑の瞳を思いだす。
 ヴィクトールを、すがりつくように見上げてきたラファエルの瞳。
 まるで、捨てられた犬のように、寂しさに打ちひしがれ、手をさしのべたヴィクトールに、無防備に心を許してきたラファエルの姿。
 それが、ぴたり、と、ある姿に重なる。
 ヴィクトールは、息をつめ、宙を凝視した。
 そうだ。
 あれは、自分だ。
 かつての、自分自身だ。
 大切なものを喪い、打ちひしがれ、心の奥底で、寂しさに震えていた、十六才の自分。
 そして、不意に目の前に現れ、手をさしのべてきた者を、たやすく信じ、心を預けた自分。
 ラファエルの姿が、すべて、自分に重なる。
(そうか……)
 だから、あれほどに、怒りを押さえることができなかったのだ。
 救いを求めて、伸ばされた手を振り払い、手ひどく裏切った。
 まるで、かつての自分に対する復讐でも、あるかのように……。
 ヴィクトールは、苦い思いに、力なく首を振った。 
(ばかだな、おれは)
 心の中で、つぶやく。
(何を……やっているんだ……)
 自嘲に、唇をゆがめる。
 だが、今さら、何を思っても、もう、遅い。
 ラファエルは、自分を憎むだろう。
 当たり前だ。
 自分が、そう、仕向けたのだから。
 ヴィクトールは、涙に濡れたラファエルの顔を見つめ、苦い吐息をついた。
  
 その時、ふと、閉じられていたラファエルの瞼が、小さく震えた。
 見守るうちに、ゆっくりと、瞼が開き、下から、ぼんやりと見開かれた青緑の瞳が現れる。
 瞳は、しばらく、なにかを探すように、さまよい、そして、ようやく焦点があったとでもいうように、ヴィクトールの瞳をとらえた。
 涙に濡れた、大きな瞳が、ヴィクトールを見あげてくる。
 美しい色を湛えた瞳。
 見慣れた、二十年近くも見つめ続けてきた瞳と、寸分たがわぬ、だが、まったく異なった表情を浮かべる瞳。
 ヴィクトールは、その瞳を、じっと見つめた。
 青緑の瞳が、激しい怒りを浮かべ、自分を睨みつけてくるのを、静かに待った。
 だが、そうしながら、なぜか自分が、奇妙な寂しさを感じていることに気づく。
(なにを、今さら)
 ヴィクトールは、心の中で、己をあざ笑った。
 だが……。
 その時、ふと、手に何かが触れた。
 ヴィクトールは、眉を寄せ、視線を落とした。
 それは、ラファエルの指だった。
 ソファに置かれたヴィクトールの手に、わずかに、ラファエルの指先が触れたのだった。
 だが、その指先は、おそらく、痛みのゆえだろう、かすかに震えている。
 肌に直接伝わってくる、ラファエルの苦痛。
(おれは、酷いことをしている……)
 ヴィクトールは、苦い思いに、小さく息をつき、ラファエルの頬に、汗で貼り付いている髪を、そっと、はらった。
 それだけの動きでも、また、痛みが走ったのか、ラファエルの顔が歪む。
 ふと、また、ヴィクトールの手に、何かが触れた。
 何気なく目をやり、だが、ヴィクトールは、目を見開いた。
 ソファに置いた、自分の手。
 そこに、ラファエルの手が重なっている。
 震える指が、ヴィクトールの手にからまり、あたかも、それしか、頼れるものはないとでもいうように、すがりついているのだ。
 ヴィクトールは、そっと、手を動かし、ラファエルの手を握った。
 震える指が、ますます、強く、自分の手を握りしめてくるのを感じる。
 ヴィクトールは、複雑な思いで、つながれた手を見つめた。
 ラファエルは、いま、こうして、しがみついている相手が、他ならぬ、自分を容赦なく陵辱している男だということに、気づいているのだろうかと思う。
 痛みも苦しみも、すべて、いま、自分が必死ですがりついている相手が、与えているものだと、わかっているのだろうか。
 そんなはずは、なかった。
 もし、わかっていれば、こんなことはしないだろう。
 おそらく、痛みと苦痛に、何も考えられないだけに違いなかった。
 心を満たす、苦い思い。
 不意に、ヴィクトールは、ラファエルの身体を抱き上げた。
 なぜ、そんなことをしたのか、自分でもよくわからなかった。
 ただ、気づいたら、ラファエルの上半身を抱き起こし、自分の腰の上に乗せるように抱え上げていた。
 腕の中で、ラファエルの身体が、大きく震えた。
 その唇から、小さな悲鳴を漏らし、のどを大きくのけぞらせる。
 おそらく、自分の重みで、さらに、深く、ヴィクトールの身体を受け入れることになったのだろう。
 再び、その大きな目から涙があふれ出し、頬を伝う。
 あらがうように、ヴィクトールの肩に当てられた両手が激しく震える。
 ヴィクトールは、その手を取り、自分の首に回させた。
 ラファエルの身体を抱き寄せ、少しでも楽なように、自分に寄りかからせる。
 一連の動きで引き起こされた苦痛に、ラファエルの唇から、苦しげな息と、かすれたうめき声が漏れる。
 ヴィクトールは、なるべく身体を動かさないようにしながら、そっと、細い身体を抱きしめた。
 肌と肌が触れ合い、熱が混じり合う。
 ラファエルの苦しげな息づかいが、その鼓動とともに、肌に直接響いてくる。
 ヴィクトールは、息さえもしのばせて、細い身体を抱きしめ続けた。

 どのくらい、そうしていただろう。
 ようやく落ちつきを取り戻した、ラファエルの息づかいに耳を傾けながら、ヴィクトールは不思議な感覚に、とまどっていた。
 腕の中の痩せた身体。
 その身体を抱きしめているだけで、なんともいえぬ、心地よさに包まれるのだ。 
 不思議だった。
 今まで、何人もの女たちと肌を重ねてきた。
 だが、こんな風に、感じたことなど、一度としてなかった。
 ヴィクトールにとって、情事は、ただの欲望の処理にすぎなかった。
 そこには、愛情も、安らぎもなにもない。
 ただ、男と女が、身体を重ね、それぞれの欲望を発散するだけのこと。
 終われば、そこには、疲れた身体が二つ残るだけのことだった。
 だが、この、心地よさは、なんだろう。
 腕の中の身体は、あたたかさとぬくもりに満ちている。
 その、ぬくもりに、自分の身体ばかりか、心までも温かくなっていくような心地がする。
 ヴィクトールは、さらに深く、腕で包み込むように、ラファエルの身体を抱きしめた。
 誰かと肌を合わせるというのは、こんなにも、あたたかいものだったのか、と思う。
 人と抱き合うというのは、こんなにも、安らぎに満ちたものだったのか。
 そして、こんなにも、心を癒すものだったのか。
(おれは……知らなかったのだ……)
 ヴィクトールは、心の中でつぶやいた。
(……なにも知らなかった……)
 腕の中のぬくもりを、さらに感じ取ろうと、目を閉じる。
 だが、ふと、胸に苦い痛みがよみがえり、ヴィクトールは、唇をゆがめた。
(なにを……勝手なことを)
 吐き捨てるように、思う。
 自分は、ラファエルを力づくで抱いたのだ。
 無理矢理、身体を開き、酷く犯した。
 それで、なにを勝手なことを、言っているのか。
 ラファエルにとっては、安らぎでもなんでもない。
 ただ、ひたすら、屈辱と激痛に耐えるだけの時間ではないか。
(身勝手きわまりない)
 ヴィクトールは、自嘲に、唇をゆがめた。
 腕の中の身体は、静かな息を繰り返しながら、おとなしく抱かれるままになっている。
 ヴィクトールは、そっと、ラファエルの頭を抱き寄せ、その髪に唇を寄せた。
(……身勝手なのは、わかっている……)
(だが……)
 だが、もう少し、この温かさを感じていたいと思うのは、許されないだろうか。
 あとで、この青緑の瞳は、激しい憎しみと軽蔑を浮かべて、自分を見るだろう。
 それは、いい。
 憎まれ、恨まれることは、慣れている。
 だが、もう少しでいい。
 このぬくもりを、腕の中で、感じていたい。
 そう、もう少しだけ……。 

 痛みは、次第に薄れつつあった。
 身体の奥深くで、熱く息づいているものの存在は、だが、リアルな質感を伴って、ラファエルを苦しめる。
 本来、受け入れるようにはできていないところに、強引に、異物を受け入れているのである。それは、当然だろう。
 だが、ラファエルは、なぜか、不思議な安らぎの中にいた。
 それは、ぴたりと寄せられた身体の温かさであり、そして、抱きしめてくる腕の力強さであり、肌に直接伝わってくるヴィクトールの心臓の鼓動だった。
(あったかいな……)
 ラファエルは、ぼんやりと思った。
 こんなに、人の身体って温かいのか、と思う。
 ぬくもりに包まれ、力強く抱きしめられ、まるで、誰かに守られているような心地がする。
 その心地よさに、ラファエルは、うっとりと目を閉じた。
 ああ、そうか、と思う。
 自分は、誰かにこうして抱きしめて欲しかったのかと思う。
 強く、温かく、やさしく、ただ、抱きしめてもらいたかったのだ。
 初めて、母親に抱きしめられた時に、心に流れ込んできた、自分に対する恐怖。
 そして、父親に抱きしめられた時の、凍り付くような冷たさ。
 愛情にあふれた言葉と、優しい微笑みはあった。
 だが、そこには、本当の愛情も、優しさも、そして、ラファエルへの関心すらも、なかった。
 あったのは、ただ、外面をとりつくろう社交辞令だけ。
 家族みなで、演技をしているような包容。
 だが、これは、ちがう。
 言葉もない。
 向けられる微笑みもない。
 だが、ここには、温かさがある。
 こうして、抱き合っていると、否応なく、相手の心が、ラファエルの心に流れ込んでくる。
 いまの、ヴィクトールからは、恐ろしさも怒りも、そして、寂しさも、何も感じない。
 ただ、温かく、優しいだけ。
(ほんとに……あったかい)
 鼻の奥が、つんとするような、感覚。
 悲しくないのに、なぜか、涙が出てくる。
 たぶん、自分はこれを求めていたのだ、思う。
 ただ、優しく受け止めてもらうこと。
 そう、別に過大な愛情を期待していたわけでは、なかった。
 ただ、受け止め、受け入れてくれれば、それだけでよかったのだ。
 ラファエルは、自分を抱きしめる身体にまわした腕に、そっと、力をこめた。
 もっと、そのあたたかさを感じようと、肌を寄せる。
 規則正しい鼓動。
 ゆるやかな息づかい。
 すべてが、やすらぎと、穏やかさに満ち、ラファエルの心を優しさで満たした。
 ふと、首筋に、柔らかい感触が落ちる。
 閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
 それは、ヴィクトールの唇だった。
 柔らかい唇が、ゆっくりと肌をさぐり、やがて、ラファエルの鎖骨にたどりつく。
 だが、不快ではなかった。
 鎖骨に口づけを落とした唇は、そのまま、ゆっくりと下に、降りていく。
 胸元に口づけられ、ラファエルは、息をつめた。
 その瞬間、身体に埋めこまれたままのものを、締め付け、また、ぴりりと身体の奥に痛みが走る。
 だが、それは、先ほどまでのような、身体を引き裂かれる激痛ではなかった。
 再び、胸に唇を寄せられ、ラファエルは、そこから沸きあがってきた奇妙な感覚に、唇を震わせた。
 じん、と、胸が熱くなる。
 ラファエルは、思わず、手を伸ばして、ヴィクトールの頭に触れた。
 再び、唇を肌に感じ、柔らかい舌に優しく愛撫され、身体がほてる。
 身体の奥からわき起こってくる感覚に、いたたまれず、身体を動かさずにはいられない。
 ふと、下腹部に、熱を感じ、視線を落とした。
 ヴィクトールの手が、そっと、ラファエルのものを包み込んでいる。
 その手が、ゆっくりと動き、快感が、ラファエルの身体を走った。
 思わず、腰が揺れ、身体を貫くものを、しめつける。
 また、びり、と、痛みが走る。
 だが、優しい愛撫が、その痛みを和らげる。
「……あ……」
 ラファエルの唇から、声が漏れた。
 休みなく加えられる愛撫に、腰が揺れ、せつない吐息が唇から漏れる。
 愛撫に息をつめるたびに、身体を貫く、熱い楔をリアルに感じ取る。
 だが、それは、もはや苦痛ではなかった。
 知らぬうちに、ヴィクトールの髪に指をからめ、まるで愛撫をねだるように、自分の身体を押しつけているのに、気づく。
 だが、不思議と、恥ずかしさは、なかった。
 やがて、ゆっくりと、ヴィクトールの身体が動きはじめた。
「……っ……」
 さすがに、強い痛みが、ラファエルを襲う。
 だが、下腹部を巧みに愛撫され、肌を、唇と舌で優しくなぞられ、快楽と痛みの境があいまいになっていく。
 優しく突き上げられる動きに、自然に、身体が揺れる。
「あッ……」
 身体の奥に、また、あの感覚が、よみがえった。
 ヴィクトールの身体が、力強く、優しく、その場所を突き上げ、愛撫するように、こすり上げる。
「ああ……や……だ……」
 うねるように押し寄せてくる快楽の波に、息もつけない。
 同時にもたらされる、下腹部のしびれるような快感。
 そして、ヴィクトールの唇が触れている肌から、じわりじわりとわき起こる、優しい快感。
 それは、互いに高まりあい、混じり合って、ラファエルを翻弄する。
「ああ……あ……」
 受け止められないほどの快感に、涙があふれ出る。
 ラファエルは、甘い悲鳴をあげながら、ヴィクトールの身体にしがみついた。
 すがりつき、抱きしめられ、涙をぼろぼろと流しながら……やがて、気が遠くなるほどの、快楽の奔流に流されていった。

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