邂逅

ユージィンは左手に持った鉛筆をスケッチブックに走らせていった。
 目の前で微笑む女は、非常に美しい。
 年の頃は二十二、三か。
洗練された容姿に、優雅な仕草。
 身につけた衣服は、細身のパンツにキャミソール、薄手のカーディガンと、あっさりとしたラフなものだが、見ただけで趣味がよく、高級な感じがする。
 つまりは、いかにも上流階級という雰囲気を漂わせた女だが、ここはエリュシオン2区だ。2区にいる、このような若い、非常に美しい女と言えば、十中八九、ルナ・マーセナリーズだと思っていい。
 それも、平日の昼下がり、公園を一人で散歩しているとあれば、ほぼ確実にそういう類の女のはずだった。
 ルナ・マーセナリーズ。
つまりは高級娼婦だ。
 この辺りにくれば、おそらくそういった女たちがいるだろうと当たりをつけたユージィンの目論みは見事に当たったことになる。
 ユージィンは、このところ、ほぼ毎日、方々の公園に出かけては、通りかかった人々の似顔絵を描いていた。これが、なかなかの小遣い稼ぎになるのである。
だが、ユージィンの住む25区では、だめだった。
 あの辺りはスラムで、とてもではないが、自分の似顔絵を描いてもらおうなどと思う人種などいはいないし、いたところで、絵などに払う金は持っていない連中ばかりである。
 そんなわけで、最初は近くの23区や24区の公園をうろつき、最近では、エリュシオンの中心部とも言える、この当たりにまで足を伸ばしてきていたのである。
 もっとも、官公庁や軍関係のビルが立ち並び、支配者層のブルー・ブラッドなる連中の邸宅の並ぶ1区などは、さすがに足を踏み入れたことはなかった。
 おそらく、目立たぬようではあろうが厳重な警戒態勢がしかれているに違いない、あの付近にユージィンが足を踏み入れれば、それだけで即、捕まるだろう。
 だが、エリュシオン中心部でも、この2区だけは別格のはずだった。
 ルナ・マーセナリーズたちの多くが居をかまえるこの辺りは、その性格から幾分、大目に見られているのである。 
 だが、それでも2区の中心部に堂々と入っていく勇気は、さすがになかった。
そんなわけで、いくぶん中心からはずれたこの公園に居場所を決めたのだったが、自分の描いた絵を地面に適当に広げ、地面に座り込んで二十分もしないうちに、客が現われたのは、上々の結果だった。
 ユージィンは、丹念に女の顔を紙に写し取っていった。
 輪郭、目、鼻、口。
その作業は、ユージィンにとっては楽しいものだ。
 しかも、相手は美しい女だ。
 ユージィンは美しいものが好きだった。
 もっとも、ただ見て美しいだけではだめである。
 そこに強い意志や力があればあるほど、その美しさを感じる。
 今、目の前にいる女は、ただ美しいだけではなかった。
 さすがに身一つで世の中を渡っていこうとするルナ・マーセナリーである。
 その瞳の中には、強い光が輝き、ユージィンを魅了する。
 ユージィンは夢中で鉛筆を走らせた。
 それが伝わったのか、女はさらに微笑みを深くしてユージィンを見つめた。
「あなたの目、きれいね」
「……そうですか?」
「そんなにきれいな色の瞳、初めてみたわ。よく、言われない?」
「……いえ」
 ユージィンは、はにかんだように笑った。
 その頬がかすかに染まったのを見て、女は華やかに笑った。
「あら、可愛いわね。あなた、いくつ?」
「15です」
「学校は?」
 ユージィンは首を振った。
「行ってません。移民してきたばかりで…。働きたいんですけど、仕事がないんです」
「ああ、そう……」
 女の口調に納得したような響きが混じる。
 ルナ・マーセナリーズのほとんどは移民だと言う。
 おそらく、この女も移民組なのだろう。
 火星市民によくある、移民組に対する蔑視の響きは、その声にはない。
 かといって、大げさな同情もない。
 淡々とした、理解と、共感。
 それは、ユージィンには好ましいものだった。
「でも、いずれは絵を専門に勉強したいとか?」
「できれば…」
 ユージィンは、手を休めることなく答えた。
 だが、そこでふと、肩をすくめると、女に向かって苦笑した。
「まあ、でも、たぶん、無理ですが……」
 女の眉が、かすかにあがる。
「こういうことは、金がかかるんです」
 ユージィンは、淡々と言うと、微笑んで、また手を動かし始めた。
 女は、わずかに首を傾げた。
 何かを言おうと口を開きかけ、だが、思い直したように口を閉じる。
 そして、それ以上、もう、何も言わなかった。
 さらさらと、鉛筆の音だけが、響く。
 やがて、ユージィンは、手を止め、小さく吐息をついた。
「できた」
 小さくつぶやき、スケッチブックをじっくりと見つめる。
 そして、軽くうなずくと、丁寧にそのページを切り取り、いくぶんはにかんだような笑みを浮かべて、女に手渡した。
「あら……」
 女は、絵を目にするなり、驚いたように目を見開いた。
「あなた、上手ね」
 ユージィンは、うれしそうに笑った。
「よかった。気に入ってもらえましたか?」
「ええ、とても素敵な絵。こんなに美人に描いてくれてうれしいわ」
 ユージィンは、微笑んで首を振った。
「僕は、そのまま描いただけですから」
 女は、くいと眉をあげ、からかうような笑みを浮かべた。
「いやね。子供のくせに、殺し文句を言うもんじゃないわよ」
「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」
 ユージィンの頬が、またかすかに赤く染まる。
 女は、声をたてて笑うと、腰のポケットから財布をとりだした。
 そして、紙幣を数枚、無造作に取り出し、ユージィンに差し出した。
 ユージィンはとまどったように、紙幣と女を見比べた。
「いえ、もう、お金はいただいてます」
 女は華やかに笑った。
「美人に描いてくれたお礼よ」
 ユージィンは困惑したように、女を見つめた。
「でも」
「いいの。がんばってお金を稼いで、絵の勉強をしなさいな」
それでも、なかなか手を出さないユージィンの手を取り、その手のひらに紙幣を載せて握らせた。
「何を遠慮してるのよ」
 ユージィンは、困ったように女を見上げ、握らされた紙幣に目を落した。
「…すみません…」
「違うでしょ。ありがとうございますって言えばいいのよ」
 ユージィンは、なおも困ったような表情をしたまま、だが、小さく微笑んで女を見つめた。
「ありがとうございます」
「がんばんなさいね」
 女は、朗らかに笑うと、立上がった。
「これ、ありがとう。大事にするわ」
 ユージィンも、立上がると、今度は女の目をまっすぐに見つめて、にっこりと微笑んだ。
 女の目が、見開かれる。
 そして、まじまじと、ユージィンの顔を見つめた。
「本当にきれいな瞳ね。吸い込まれそうだわ」
 ユージィンは、何も言わず、わずかに首を傾げる。
「また、来る?」
 女の問いにユージィンは、うなずいた。
「じゃあ、その時は、また描いてね」
「喜んで」
 女は、しばらくユージィンの顔を見つめていたが、不意に微笑むと手を伸ばし、ユージィンの頬に触れた。
 そして、ぐいと顔を寄せ、唇に、軽く口づける。
ユージィンがあわてて、唇を手で押さえて、頬を染めたのに、にこりと笑ってみせると、女は、軽く手を振り、身を翻した。
そのまま、振り返らずに歩き去っていく。
 ユージィンは、微笑んでその後ろ姿を見送っていたが、やがて、女の姿が完全に視界から消えると、すっと笑みを消し、手に握らされた紙幣に目を落とした。
 高額紙幣が3枚。
 ユージィンにとっては大金だ。
 ゆるやかに、その唇の端がつり上がった。
 少年めいた貌には似合わぬ、皮肉めいた笑みが、頬に刻まれる。
 その、決して、たちのいいとは言えぬ表情が、ユージィンの顔を一気に大人びたものに変えた。
「ここに来て正解だったな」
 歪んだ唇から、小さなつぶやきが漏らし、くすり、と肩を笑いに揺らす。 
 そして、紙幣を、ジーンズのポケットに、無造作にねじこむと、また地面に座り込もうと腰を落した。
 と、その時だった。
 不意に、右手の木々の間から茶色い固まりが飛び出してきた。
 その固まりは、風を巻き起こしながら、情け容赦もなくユージィンが広げた絵の上を走り抜け、そして、すこし行き過ぎたところで、はたと立ち止まった。
 ユージィンは、突然の出来事に一瞬、目を瞬き、そして、嵐のように通り過ぎていった茶色い固まりの方へ目をやった。
 それは、大きな犬だった。
 毛並みもよく、立派な体格をした大型犬で、いかにも大事に育てられた犬だとわかる。 
 犬は、自分がしてしまった失敗をわかっているのか、なんとも情けなさそうな顔で、振り向き、ユージィンの方を見つめている。
 一瞬、遅れて、右手の方から、高い声が響いた。
「アルフ!」
 やがて、小走りで現われたのは、一人の少年だった。
 犬が一声吠えて、さかんに尻尾を振りながら、少年に駆け寄る。
「だめじゃないか。勝手に走っていったら」
少年は、息をわずかに切らせ、犬に向かって厳しい顔をしてみせる。
 ユージィンは、目を見開いてその少年を見つめた。
 非常に美しい少年だった。
 おそらく、ユージィンより、二つか三つ、年下だろう。
 少し暗めブロンドの髪に縁取られた顔は、おそらく完璧といっていいほど、整っていた。
 きめの細かい白いなめらかな肌と、通った細い鼻筋。
 勝ち気そうな、だが優美な弓形を描く眉。
 長い睫に縁取られた目は大きく、ほんのりと赤い唇は、いかにも柔らかそうだ。
 一言で言って、少女とみまごうかわいらしさだが、その中にあって、冷ややかな雰囲気をかもしだす切れ長の目元と、薄い色合いの双眸の強い輝きが、この子供が、間違いなく少年であることを示していた。
 少年が、ふと顔をあげ、ユージィンを見つめた。
 薄い、いくぶん灰色がかったブルーの瞳が、ぴたりとユージィンに当てられる。
 ユージィンは一瞬、うろたえ、そして、そのことに驚いた。
 これまで、ユージィンと目が合って、うろたえるのは必ず相手の方だった。
 こんなことは、ついぞないことだ。
なぜだろうと考える前に、ユージィンは力を使っていた。
 わずかに瞳に力を込め、目の前の少年を見つめる。
 だが、そこで、さらに驚きに目を瞬いた。
 読めない。
 まったく、少年の心が読めないのだ。
 そんなことはあり得なかった。
 ユージィンの特殊な力は強大なものだ。
 研究所のESP相手でさえ、あっさりと操ることができた程なのだ。
 常人であろう、この少年に自分の力が効かぬはずはない。
 ユージィンは、もう一度、そっと力を解放した。
 だが、やはり、読めない。
(・・・ESPか?)
 心の中で、ひそかにつぶやく。
 だが、それも解せない。
 もし、この少年がESPだと言うならば、ユージィンが力を使った時点で、気づき、何らかの行動を起こしていてもいいはずだ。
(あるいは……まったく別の能力者か?)
 ユージィンは、わずかに眉を寄せた。
 ふと、脳裏にある単語が浮かぶ。
(ユーベルメンシュ…)
 だが、思った先から否定する。
(……まさか、な)
 ユーベルメンシュというのは、火星都市の財産であるはずだ。
 こんな風に、その辺をふらふらしているとも思えない。
 いや、確か、ブルー・ブラッドの子弟の中に、ユーベルメンシュがいたのではなかったか。
(それか?)
 確かに、少年が身につけているものは、いかにも質のよさそうなもので、全身から、育ちの良さそうな、いかにも良家の子弟然とした雰囲気を漂わせている。
 ブルー・ブラッドかどうかはともかく、少なくとも名家の子弟であることは確実だろう。
とすれば、それもあり得る。
だが、それにしては、無防備だ、とも思う。
 ユーベルメンシュというのは、万能な能力者のはずだ。
 確かに、人並みはずれて美しいが、恐ろしさは感じない。
「……」
ふと、少年の唇が動き、ユージィンは、はっと我に返った。
 少年が何か、言ったらしい。
「え?」
 あわててユージィンは聞き返した。
「これ、アルフがやったのか?」
 いくぶん、高飛車な、だが、かすかに困ったような響きを湛えた声で、少年が繰り返した。
 指は、地面に散乱したスケッチに向けられている。
 紙には、いくつも犬の茶色の足跡が残り、一目見れば、状況は明白だった。
「そうだけど……」
 ユージィンは、内心の不信感を押し隠して苦笑した。
 どうやら、少年はまったく、ユージィンが力を使ったことに気付いていないらしい。
(妙なこともあるものだ)
 ユージィンは、心の中でつぶやき、少年を観察した。
 だが、少年は、困ったように下唇を噛んで、地面に散乱した紙を眺めているだけで、ユージィンの思惑にはなんの注意も払っていない。
「弁償する」
 やがて、少年の唇から、きっぱりとした言葉が漏れた。
「え?」
 自分の思いにとらわれていたユージィンは、目を瞬いて問い返した。
「弁償する。これ、全部買う」
少年が、きっぱりと繰り返す。
「あ、いいよ、別に」
 その言葉は、ユージィンの唇から、無意識に滑り出ていた。
「売り物じゃないから」
「でも……」
「こんなもの、すぐに描けるから」
「……でも……」
 少年が、困ったように繰り返し、唇を噛んだ。
ユージィンは思わず苦笑した。
「本当に…」
 いいから、と続けようとした時だった。
「アルトゥール!」
不意に、遠くで声が呼んだ。
 やはり、まだ変声期前の少年の声だ。
 今まで、むっとしたような表情を崩さなかった少年が、ぱっと顔を輝かせ、その声がした方を振り向いた。
 ユージィンもまた、少年の視線を追って、首を巡らせた。
 かなり遠く離れたところに、一人の少年が立ち、こちらを見ている。
 はっきりとは見えないものの、風になびくブロンドの髪が光を受けて輝くのが見える。
「ちょっと待って!! 今、行くから!」
 アルトゥールと呼ばれた少年は、満面の笑みを浮かべて、そちらに向かって手を振った。
 そして、ふとユージィンに、また困ったような視線を向けた。
ユージィンは、肩をすくめた。
「本当にいいよ。それより、友達が呼んでるから行った方がいいんじゃないのか?」
 そのとたん、少年は、ユージィンを軽く睨んだ。
 わずかにためらい、しかし、ぐいと顔をあげると、まるで何かを宣言でもするように言った。
「友達じゃない」
 ユージィンは、とまどって目を瞬かせた。
「え?」
「友達じゃない」
 少年が、繰り返す。
「…ああ、そう…じゃあ……兄弟?」
 ユージィンは、なおもとまどいながら、言い直した。
 少年が、何にこだわっているのか、わからない。
「違う。半身だ」
「ハンシン……?」
 聞き慣れない言葉にユージィンは問い返した。
「うん。半身なんだ」
「……半身……って?」
 ユージィンは、聞き返した。
 だが、その時には、少年はすでに身を翻し、遠くで待つ少年の方へ向って駆けだしていた。
 はずむような足取りが、少年の心のうちを物語っているような気がして、ユージィンは苦笑した。
 なんだかよくわからないが、あの少年にとって、向こうで待つ少年は特別な存在なのだろう。
 ユージィンは目を細めて、少年が駆けていく姿を見守った。
 やがて、待っていたもう一人の少年のもとにたどりつき、二人が並ぶ。
 そうして見ると、二人がほぼ同じ背格好で非常によく似た姿形をしていることが、遠目にも見てとれる。
「双子か?」
 ユージィンは、小さくつぶやいた。
 アルトゥールと呼ばれた少年が、ユージィンのことを報告しているのか、こちらを指さし、もう一人の少年になにやら話しているのが見える。
 だが、やがて、二人はユージィンに背を向け、歩き出した。
 その周りを犬がうれしそうに飛びはね、時折、少年達の髪が光を受けてきらりと輝く。
 それは、美しい光景だった。
 名家の、それも、もしかしたらブルー・ブラッドと呼ばれる支配者層に属する少年たち。
 ここは2区だが、彼ら富豪たちの家の建ち並ぶ1区の一画は、公園をいくつか突き抜ければ、歩けない距離ではない。
 犬の散歩に、少し遠出をしてきたのかもしれない。
 火星都市に生まれ、それも、富裕な家庭に生まれて育つ、それはどんなものなのだろうと思う。
 ユージィンには、まったく想像もつかない世界。
 まったく別の世界に生きる少年たち。
 彼らのようであるというのは、どんな気持ちがするものなのだろう・・・・。
 ユージィンは、二人の姿が、まばらに生えた木々の向こうに消えていくまで、じっと見つめていた。
 やがてすっかり、その姿が視界から消える。
 ようやく、そこで、ユージィンは、ふと我に返った。
 地面に散らばったままだった絵に気づき、拾い集める。
 そして、地面に座り込むと、スケッチブックを広げた。
 しばらく、白いままの紙面を見つめていたが、やがて、その左手が勢いよく動き出した。
 いくつもの線が、白い紙面を見る間に埋めていく。
 その手は休むことなく、動き続ける。
 やがてそこに描き出されたのは、先ほどの少年の顔だった。
 ユージィンは、首をかしげてそれを見つめると、またページをめくり、描き始める。
 はずむように走っていく姿、満面に笑みを湛えて手を振る姿、困ったように見つめる表情。
 先ほど見た姿を、次々と紙に写し取っていく。
 いつの間にか、ユージィンはすっかりその作業に没頭していた。
 ひたすら手を動かし、脳裏に焼き付いたあの美しい少年の姿を紙の上に甦らせていく。
 どのくらい時間がたったのだろう。
 ふと、線が見にくいことに気づき、ユージィンは顔をあげた。
 みれば、太陽がもう、沈みかけていた。
 公園の灯りが、ぽつりぽつりと灯っていく。
 ユージィンは、電灯の下にあるベンチを探して座り込むと、その灯りを頼りに、さらに絵を描き続けた。
 鉛筆がふと指から、滑り落ち、スケッチブックの上を転がった。
 驚いて、目を瞬く。
 なんのことはない、鉛筆を握り続けていた手が汗で濡れ、滑ったのだった。
 だが、やめられない。
 手のひらを、無造作にTシャツでぬぐい、また、鉛筆を手に取る。
 こんなに気分が高揚したのは、久しぶりのことだった。
 とにかく、描きたかった。
 あの少年の姿を、紙に写し取りたい。
 微妙な表情を、躍動感溢れるあの肢体を、描き出したい。
 描きたい。
 ひたすら、描きたい。
 その衝動に突き動かされるままに、ユージィンは、手を動かし続けた。
 だが。
 ふと、手元が暗くなり、ユージィンは、いぶかしげに顔をあげた。
 目の前に、男が一人、立っていた。
 男の身体が電灯の灯りを遮り、ユージィンの手元が暗くなったのだった。
 男の顔は、影になっていて、よく見えない。
 だが、スーツに薄手のコートを羽織ったその姿は、いかにも仕事帰りといった様子だった。
 白髪混じりの乱れた髪が、疲れたような雰囲気を漂わせている。
 ユージィンは、鉛筆を持った手を止め、とまどって男を見上げた。
 なぜ、わざわざ、そんなところに立っているのだろう、とぼんやりと思う。
 どいてくれないと、絵が描けない。
 だが、男は、どく様子もなかった。
 それどころか、まるで値踏みするような目で、しげしげと見つめてくる。
 やがて、小さなつぶやきが、その口から漏れた。
「いくらだ?」
 ユージィンは、一瞬、何を言われたかわからず、目を瞬いた。
 その様子に苛立ったように、男が足を踏みかえる。
「一晩だ。いくらだ?」
ようやく、男の言わんとすることを理解する。
 その途端、ふっと、全身の力が抜けた。
 同時に、身体の一部をもぎとられるかのような、鋭い痛みが全身を貫く。
 強烈な失墜感。
 今まで、心を支配していた高ぶりが、急速に冷えていくのを感じる。
 まるで引き潮のように、熱が引いていき、心の中が空っぽになる。
(ああ、そうか)
 空になった心に、しんと、その言葉が響いた。
(……そうだった)
 奇妙に胸の奥が痛む。
だが、ユージィンは、かすかに微笑んだ。
 そう、このつもりもあって、わざわざ2区までやってきたのではなかったか。
今までも何度か、夜の公園で声をかけてきた男に身体を売った。
 それはいい金になるからだ。
 生活費さえままならない今のどん底の生活に、それは生きていく手段だった。
 そして、2区に来たのは、金を持った男が多いだろうというのと、もしかしたら、ルナ・マーセナリーズが客になるかもしれないという目論みもあった。
男に買われるのは、正直に言って、身体がきつい。
 できるものならば、女が相手の方がいい。
 だが、そうは言っても客は客だ。
 ユージィンは、微笑んだまま、男を見上げた。
 そして、男の問いの答えを、小さくつぶやいた。
「いいだろう」
 男がうなずいて、うながすように、あごをしゃくる。
 ユージィンは、鉛筆をポケットに押し込み、スケッチブックを閉じた。
 だが、閉じる直前に、ふと、描きかけのスケッチが、目にとまり、思わず手を止めた。
 歩き去っていく二人の少年と、周りで飛び跳ねる犬。
 少年たちの上には、光がふんだんに降りそそぐ。
 そして、風に吹かれたブロンドの髪が、時折、日差しを受けてきらきらと輝く・・・・。
「行くぞ」
 いらだたしげな男の声が、幻を振り払った。
 ユージィンは、スケッチブックをぱたんと閉じ、小脇に抱えると立上がった。
 ぐいと延びてきた手に、腕を掴まれ、引き寄せられる。
 そのまま、抱きすくめられ、唇をおおわれる。
 煙草の匂いにわずかに眉を寄せ、だが、ユージィンはゆっくりと、手を男の身体に回した

END

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