ぽつり、とフロントガラスに水滴が落ちた。
時計を見れば、夜の10時。
予報より、1時間早い。
ヴィクトールは、かすかに眉を寄せ、すっかり闇に覆われた夜空を見上げた。
墨を流したように暗い闇の中から、水滴が生まれ出るようにして、降り落ちてくる。
と、みるまに、フロントガラス一面が、細かい水滴で覆われていく。
ヴィクトールは、軽く舌打ちすると、ワイパーのスイッチを入れた。
ここ、火星都市は、完全に気候制御のされたドーム都市である。
簡単に言えば、人工的に地球の気候をドーム都市の中で再現しているわけであり、その一貫として、雲が発生し、雨が降るというシステムのため、時折、こうして、予報と気象がずれることがあるのだ。
歩道では、いきなり降り出した雨に、あわてて走り出す人々の姿がある。
みな、雨が降る前に家に帰り着こうとしていたに違いなかった。
「無能の集まりだな、気象庁は」
ヴィクトールは、いらいらとつぶやき、しかし、そこで、はっと口を閉じた。
たかが、雨が、一時間早く、降り出しただけのことではないか。
こんな些細なことで、なにを、いらついているのか。
ヴィクトールは、小さく吐息をついた。
わかっている。
最近の自分は、おかしい。
小さなことで、苛立ちを感じ、しかも、それを周囲に隠しおおせなくなっている。
情報部の部下たちが、ここ数日、まるで、腫れ物にさわるように、ヴィクトールに接し、極力、近づかないように、遠巻きにしていることにも気づいていた。
それが、余計に苛立つのだが、そのおおもとの原因が自分にあるだけに、どうしようもない。
そして、また、なぜ、自分がこんなに、ぴりぴりとしているか、その原因も、嫌になるほど、はっきりとわかっているのだ。
わかっているだけに、始末が悪い。
ヴィクトールは、もう一度、吐息をつき、首を振った。
車は、オフィス街を抜け、閑静な住宅地へと入って行った。
ブルー・ブラッドの邸宅が立ち並ぶ、超一等地である。
雨は激しさを増しており、歩道を歩く人影も、もちろん、ない。
高級住宅地らしい、しんとした雰囲気を漂わせた中を、ヴィクトールは、自宅に向かって、車を走らせて行った。
が、ふと、ヴィクトールは、眉を寄せた。
少し先の歩道に、何か、白い影が見えたのだ。
車が近づくにつれ、それは、はっきりと人の輪郭を取っていく。
(…酔狂な)
ヴィクトールは、心の中でつぶやいた。
この雨の中、傘もささずに、さりとて走るわけでもなく、歩道を歩いているのである。
ヴィクトールは、肩をすくめ、そのまま、その白い姿を追い越そうと、わずかにスピードをあげた。
街灯に照らされた、白い後ろ姿が、次第に近づいてくる。
ふと、ヴィクトールは、目を細めた。
その、後ろ姿に見覚えがあるような気がしたのだ。
細い、華奢にすら見える背中。
すらりと上背のある、痩せた身体。
(ユージィン?)
だが、すぐにそんなことはあり得ないと気づく。
ユージィンは、一週間ほど前、E-60に襲われた。
怪我自体は大したことがなかったものの、まだ、家から出られる状態ではないはずだ。というのも、知るものは少ないが、今、ユージィンの意識は、深く深く眠っている。
かわりに、表に出てきているのは、ヘルだ。
(では、あれは?)
ヴィクトールは、スピードをゆるめ、目を凝らした。
(……アロイスか?)
車が、白い人影を追い越す。
わずかに、うつむき加減で、肩をすぼめるようにして歩いていく姿が、窓に映る。
その、横顔は、まぎれもなく、アロイス・アフォルターのものだった。
ヴィクトールは、さらにスピードを落とし、静かに車を歩道に寄せた。
ゆるやかに車を止め、バックミラーに目をやる。
ラファエルは、まったく、こちらには、気づいていないようだった。
相変わらず、うつむき、雨にぐっしょりとぬれ、顔にたれかかる髪をはらおうともせず、ゆっくりと足を運んでいる。
アフォルターの家は、後方だ。
つまり、ラファエルは家から出てきたのだ。
だが、どう見ても、どこかへ出かける風情ではない。
着ているものも、ラフなシャツにGパン。
とてもではないが、アフォルターの御曹司とは思えない姿だが、身なりにかまわないラファエルがしそうな格好である。
出かけるならば、もう少しましな格好を、周りがさせるだろうし、だいたい、雨の中、歩かせるはずもない。
つまり、ラファエルは、たった一人で、おそらく、家のものには、内緒で出てきたのだろう。
そして、雨に濡れるのもかまわず、こんなところを歩いているとなれば、およその事情は察しがつく。
ヴィクトールは、ユージィンが襲われた日、アフォルターの邸宅に足を運んだ。
あの時、邸宅に流れていた、ぴりぴりとした警戒を漂わせた雰囲気。
御曹司とはいえ、異分子であるラファエルを取り巻く空気は、予想していたとはいえ、疑惑と恐怖に満ちたもので、その中で、ラファエルは、必死で無実を訴えていたのである。
だが、いくら無実を訴えたところで、一度、不信に染まった心は、そう簡単には、元に戻らない。
くわえて、ユーベルメンシュというものに対する、根元的な恐怖が、一般人にはある。
あれから、一週間。
ラファエルの置かれた状況は、大して良くなってはいないだろう。
(なるほど、な)
ヴィクトールは、バックミラーに映る白い姿を見つめた。
ラファエルは、淡々と足を運び、戻ろうとする気配も見せない。
雨は、さらに激しさを増し、その身体を容赦なく打ち付ける。
そして、もちろん、雨がやむはずもなかった。
ヴィクトールは、深くため息をついた。
ドアを開け、後部座席から取った傘をさして、雨の中に降り立つ。
まだ、ラファエルは、気づかない。
ポケットに手を突っ込み、うつむいて、ひたすら機械的に足を運んでいる。
だが、ようやく、ふと、その足が止まった。
ヴィクトールから数メートル、離れたところで、ラファエルがゆっくりと顔を上げる。
いぶかしげに、眉を寄せ、だが、そこに立つのが誰かに気づくと、その、大きな目が、さらに大きく見開かれた。
「……あ……」
よほど驚いたのか、目をしばたたかせ、ヴィクトールを見つめる。
「……どこまで、行くんだ」
ヴィクトールは、静かに言った。
そのとたん、ラファエルの唇が、かすかにゆがんだ。
その頬に、泣き笑いのような表情が浮かぶ。
「……もう少し……散歩」
小さな声で答え、笑って見せる。
だが、唇がかすかに引き上げられただけで、とてもではないが、笑顔にはならなかった。
本人も、そのことに気づいたのか、あわてたように俯いてしまう。
ヴィクトールは、小さく吐息をつき、ラファエルに歩み寄った。
そして、傘をさしかける。
「とりあえず、車に乗るといい」
ラファエルは、わずかに顔をあげ、ヴィクトールを見上げた。
青緑の瞳が、まるで、捨てられた犬のような光を浮かべ、ヴィクトールを見つめている。
ヴィクトールは、目をそらした。
「このままでは、風邪を引く」
そう言いながら、ラファエルをいざない、車の方へ、足を踏み出す。
だが、ラファエルは、立ちつくしたまま、動かなかった。
ちらりと、視線を落としたヴィクトールに向かって、口を開く。
「おれ、ユーベルメンシュだよ?」
唇から出たつぶやきは、雄弁に、今の、この青年の心を物語っていた。
ユーベルメンシュという存在であることの、孤独と悲哀。
恐怖と畏怖の対象とされることへの、嫌悪。
その唇に、かすかに浮かぶのは、自嘲の色だ。
この青年の心など、手に取るようにわかる。
なぜなら、自分もまた、通ってきた道だからだ。
ブルー・ブラッドとして、誇り高くあろう、強くあろうとしたヴィクトールでさえ、避け得なかった落とし穴。
それほどに、この、「特別であること」の孤独は耐え難い。
苦い記憶に、ヴィクトールの心が、再び、血を流す。
だが、ヴィクトールは、その記憶を振り払い、ラファエルを見つめた。
完成されたユーベルメンシュ。
半身が必要でない、「強い」ユーベルメンシュ。
それでも、やはり、心は、これほどにもろく、傷つきやすいというわけだった。
ヴィクトールは、小さく微笑んだ。
「ユーベルメンシュでも、風邪はひく」
ラファエルが、驚いたように、顔をあげる。
「とりあえず、乗るといい」
ラファエルは、ためらい、しかし、再度、うながされると、おとなしく車に近づき、ヴィクトールがドアを開けた後部座席に、乗り込んだ。
そのとたん、ぶるっと体を震わせ、鼻をすすりあげる。
ヴィクトールは、運転席に乗り込むと、後部座席のヒーターを入れた。
「しばらく、我慢しろ」
短く言って、静かに、車を出す。
「どこへ……」
ラファエルが、あわてたように、顔を上げた。
「安心しろ。アフォルターには行かん」
ヴィクトールは言うと、無言で車を走らせた。
車が止まると、それまで、物思いにふけっていたらしいラファエルが、ようやく顔をあげた。
「着いたぞ」
ヴィクトールは、車から降り、後部座席のドアを開けてやった。
雨避けのおかげで、雨に濡れることはない。
ラファエルは、おずおずと、車から降り立った。
「私の家だ」
ヴィクトールは、先に立ってエントランスに足を踏み入れた。
そこで、内側から扉が開かれ、執事が、出迎える。
「お帰りなさいませ」
ヴィクトールは、それへ軽くうなずいてみせ、
「客だ」
無造作に、顎をしゃくった。
「ようこそ、いらっしゃいませ。アフォルター様」
執事は、ラファエルの姿にも、頭の先からつま先まで、ぐしょぬれになった惨憺たる有様にも、驚いたようなそぶり一つ見せなかった。
にこやかに微笑み、深々と頭をさげる。
「あ、えと……お邪魔します……」
ラファエルは、しどろもどろである。
いくらアフォルターの御曹司とはいえ、まだ、ブルーブラッドの世界には馴れていない。
また、馴れる暇もなかっただろう。
執事の開けたドアから、暖かい家の中に、入る。
ヴィクトールは、おとなしくついてくるラファエルの肩をそっと、執事の方へ押しやった。
「バスルームに案内してやってくれ」
「かしこまりました。お食事はどういたしましょう」
「おれは、いらん。 君は? 腹は減ってないのか?」
「……ええと……あんまり……かな……」
ラファエルは、自信なげに答える。
ヴィクトールは、軽く肩をすくめた。
「軽食を二人分、部屋へ運んでくれ」
「かしこまりました。 では、アフォルター様、こちらへ」
余計なことはいっさい聞かず、執事がラファエルを促す。
青緑の瞳が、心細げに、ヴィクトールを見上げた。
ヴィクトールが軽くうなずいて見せると、ラファエルは、おずおずとした様子で、先導する執事に従い廊下を歩き出す。
その、華奢な後ろ姿を見送って、ヴィクトールは階段をのぼり、自室に向かった。