その噂がヴィクトールの耳に入ったのは、ある冬の日のことだった。
 もともとヴィクトールは、噂話の類には、まったく興味がない。
 もっとも情報部で働くようになって、噂にも何がしかの真実の情報が含まれていることや、それなりの利用価値があることは理解しつつあったので、以前よりは注意を払うようになってはいた。
 だが、それでも、もともと興味がないことではあったので、限度はある。
 そんなわけで、その噂がヴィクトールの元へたどり着いたときには、すでにそれは軍部内に、知らぬものはいない、というほどのものになっていた。
 もっとも、噂というものは、古今東西、その張本人の耳には一番最後に入る、という原則がある。単に、その原則にのっとっただけのことかもしれないが。
そう、その噂は、ヴィクトールに関することだった。
正確に言えば、ヴィクトールとその朋友、ユージィン・アフォルターに関することだ。
 内容は「ユージィン・アフォルター少将、ヴィクトール・クリューガー大佐不仲説」
それを、聞いたとき、ヴィクトールは心底、驚いた。
 自分とユージィンが、士官学校時代からの朋友であり、軍に所属した今でも、親密な交際を続けている、というのが、広く世間に知られたことであり、自分がユージィンを憎んでいることなど、知る者は、ほんのわずかしかいないはずだったからである。
 そんな素振りを、人前で見せたつもりはまったくなかったし、ユージィンに限って、そんな心の内を誰かにさらけ出すことなど、あり得ない。
 では、いったい、どこで、誰に気づかれたのか。

 だが、その噂の第二弾が耳に入るに至って、ヴィクトールは絶句することになった。
「不仲の原因は、クリューガー大佐がアフォルター少将を捨て、士官候補生のマクシミリアン・シュレンドルフにのりかえたからだ」ときたのである。
 それを聞いた瞬間、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
 開いた口がふさがらない、とはまさにこのことだった。
 いったい何だって、こんな噂が流れたのか、まったく見当もつかない。
 確かに、士官学校時代、まだヴィクトールがユージィンにべったりとなついていたころ、妙なうわさをたてられたことはある。
 だが、それもアンゲリカとのことがあってからは、すっかり立ち消え、今の今までそんな話がぶり返したことはない。
 それに、なぜここでマックスが出てくるのか。
 シュレンドルフ兄弟とは、確かに親しく付き合っている。やはり、同種だと思うと他の人間を相手にするよりも、親しみもわくし、いい青年たちだと思う。
 だが、それ以上に親しく、どこかへ連れ立って出かけるとか、そうしたことをした覚えはないのだ。
 
 いったい、この噂はどこから出てきたのか。
 根も葉もない噂であるからには、絶対にどこかに火元があるはずである。
 まず、頭に浮かんだのは、保守派の工作だった。
 ユージィンは、相変わらず、軍の中心を固める保守派のお偉方の受けは最悪である。
 移民で、しかもブルー・ブラッドではないくせに、アフォルターの婿養子の座をさらっていったというだけで、攻撃の対象になるのに、軍に所属してからの実績は眼をみはるものがあり、まだ、二十代半ばだというのに、少将まで一気に駆け上がってきたのである。これは、もう、攻撃してください、と言っているようなものだ。
 陰湿なイジメは日常茶飯事らしいが、将来に危機感を感じた保守派の面々が、ユージィン排斥に、ひそかに裏で動き始めているらしい、という話も聞く。
 となれば、この噂が保守派から出ているという可能性は、確かにあった。
 だが、と思う。
 あまりにも根も葉もなさすぎて、ばかばかしすぎる。
 こんな噂を誰が信用するというのか。
 たしかに、おもしろがる連中は多いだろう。軍の高官2人が関わり、しかもマックスを含め、三人が三人とも、ブル-・ブラッド有数の名家の一員である。話題性は十分だ。
 だが、ユージィンとアンゲリカの仲の良さは有名だし、ヴィクトールが数々の女たちと浮き名を流していることも周知の事実だ。
 そこにいきなりこれでは、いくらなんでも唐突すぎるだろう。
 つまり、確かに、同性愛はブルー・ブラッドの世界では忌み嫌われるものだが、こんなせこい噂程度で、ユージィンに実害が出るとも思えないのである。
 ユージィン派の筆頭と思われているヴィクトールとの不仲説が出れば、ユージィン支持層が動揺することはあるかもしれないが、だったら、わざわざ同性愛ネタなど持ち出さずとも、もっと確実なやり方があるはずだ。
 やり方が拙稚すぎる。
 ヴィクトールは、いつもの仏頂面をさらに憮然とさせて、考えこんだ。
 こちらを見る人々の目が、いつもより執拗で、しかもなんとなく好奇心に満ちているような気がするのにも、頭にくる。
 だが、考えてもいっこうに埒があかない。
 しかも噂は、日々、拡大の一途をたどっているようである。ばかばかしいが、さすがにまったく気にしないでいられるわけもない。
 そんなわけで、ヴィクトールは、いらいらと日々を過ごすことになった。
 だが、それから一週間ほど過ぎたある日、ことは微妙に様相を変えたのである。

「それでは、現状については、おわかりいただけたでしょうか?」
 柔らかな声が、室内に響いた。
 軍務省35階にある会議室。
 つい先日、コロニーFで、大規模な暴動が勃発した。その鎮圧に関する会議が、開かれているのである。
 議長をつとめるのはこの作戦の責任者である、ユージィン・アフォルター少将。
 円卓を囲むのは、各部署から派遣された、作戦責任者たちである。
 ヴィクトールは、ユージィンのほぼ真正面に座り、その見慣れた、穏やかな笑顔を見つめた。
 ユージィンはあの噂を知っているだろうか、と思う。
 もちろん、知らないはずはなかった。
 ユージィンは情報操作の天才だ。
 その情報収集能力は、さすがのヴィクトールも舌を巻くほどで、いったいどこからそんな情報を仕入れてくるのかと思うほど、多岐にわたった情報を常に入手している。
 その量も質も半端ではない。
 確かに国家保安部と深いつながりを持っているユージィンである。
 マッソウから、相当の情報は入るだろう。
 だが、それだけでは、あれだけの情報をコンスタントに手に入れるのは不可能なはずだった。
 つまりは、ユージィン独自の情報網を持っているのだろう。
 その、ユージィンが、たとえまったく仕事に関係のないことだとはいえ、軍部内を駆けめぐっているこの噂を耳にしていないはずがなかった。
(どう思っているのだろう)
 おそらく、本当に自分に不利になることならば、あのユージィンが黙って見過ごしているわけがない。
 だが、噂がここまで大きくなっても、ユージィンが動きを見せた形跡はない。
 ということは、おそらく、大した実害はなしと判断していると思っていいのだろう。
 あるいは。
 あるいは、もうすでに裏で動いているか。
 この噂を消す方向か、あるいはこの噂を利用する方向か。
 その方が、ユージィンらしいような気がする。
 と、そこまで考えて、ヴィクトールはあまりのばからしさに、我ながら呆れた。
 利用するといっても、もとが、あのばかばかしいにもほどがある噂である。利用したところで、一体何になるというのか。
 ヴィクトールは、軽く頭を振ってため息をついた。
 その時だった。
「クリューガー大佐」
 不意に声をかけられて、ヴィクトールは顔をあげた。
 青緑の瞳が、まっすぐに自分の方を見ている。
「なんでしょうか?」
 ヴィクトールは、素っ気なく答えた。
 だいたいが、ヴィクトールの物言いは素っ気ない。
 素っ気ないというよりも、愛想がない。
 少なくとも、男に対してはそうである。
 そんなわけで、ヴィクトールの言い方が冷たいのはいつものことだったが、おそらく、それまで、当のいまいましいユージィンのことを考えていたせいか、いつにも増して、愛想のない声が出たらしかった。
 というのも、ヴィクトールがそう言ったとたん、室内の空気が、しんと固まったのである。
 だが、むろん、そんなことを気にするヴィクトールではないし、それはユージィンも同じである。 
「お加減でも?」
 ユージィンは、相変わらず穏やかに微笑みながら、わずかに首をかしげるようにして言った。
 その優しげな声の響きは、ヴィクトールとは対照的に、知らぬ者が聞けば、それだけで魅了されるような不思議な魅力を持っている。
 それだけではない。
 微妙に強さや響きが変わるだけで、その印象ががらりと変わる。
 ある時は、この上なく優しげに、ある時は、恐ろしく威圧的にもなり得る不思議な声だった。
 いま、その声には、穏やかな響きしかない。
 だが、ヴィクトールは、ユージィンが穏やかな気持ちだけで自分に声をかけるわけがないことを知っている。
 常に、その裏には、なんやかやと思惑が渦巻いているのである。
 昔は、いちいち、ユージィンの言動の裏にあるものをすべて読みとろうとしたものだったが、最近ではさすがに面倒になってきて、たいていは、放っておくことにしていた。
 だいたい、ユージィンの腹黒さは底なしである。その裏にあるものを読みとろうとしていたら、身が持たないというのが、長年の経験で培った結論だった。
 おそらく、今も、裏にはごちゃごちゃとあるのだろう。
 だが、ヴィクトールは、じろりとユージィンを見つめるだけにとどめると、
「いえ、別に」
 と、短く答えた。
「そうですか」
 ユージィンが、微笑んで答える。
 が、次の瞬間、その青緑の瞳がわずかに鋭さを帯びた。
「先ほどから、心ここにあらずという雰囲気だったものですから」
 室内に、声にならぬざわめきが広がった。
 ヴィクトールも、思わず、眉を寄せた。
(喧嘩を売ってるのか?)
 いつものくせで、ユージィンを思いきり睨みつける。
 だが、ふとそこで、妙な違和感に気づく。
 ユージィンが、これだけあからさまなことをするのは珍しい。
 いや、もちろん、必要な時には、いくらでもあからさまな態度を見せる。
 穏やかに微笑んでいたかと思うと、次の瞬間に威圧的な視線を向けて、相手を黙らせることなどユージィンにとっては朝飯前だ。
 だが、それを、この自分に向けるというのが珍しいのである。
 もちろん、議論の中で、二人でやりあうことはある。だが、それ以外でこうして、ユージィンがヴィクトールに敵意を見せることなど、今までほとんど、いや、一度もなかったといってよかった。
 ユージィンは、二人だけでいる時と、他に誰かがいる時とで、ヴィクトールに対する態度をはっきりと変える。それはヴィクトールも同じだったが、ユージィンは、それがはっきりしている。
 二人でいる時は、いくらでも皮肉やからかいを浴びせかけ、ヴィクトールの反応を見ては楽しんでいるが、それを人前でやることはない。
 やったとしても、ヴィクトールにだけわかるくらいの棘を言葉に潜ませ、ヴィクトールがそれに気づいたことを確認して、ひそかに喜んでいるくらいなものだ。
 ヴィクトールも、それには気づいていたが、それがユージィンにとっては、他愛ない遊びのようなものなのだとわかっているので、勝手にやらせているだけである。
 だが、今のこれは、そういう遊びの棘とは違う。
 いかにも、あからさま過ぎる。
 そして、それは、室内にいた全員が気づいたらしかった。
 というのも、ユージィンが言ったとたんに、会議室に居並ぶ、軍服姿の男たちが、いっせいにユージィンを見、そして次に、ヴィクトールを見、次の瞬間、その面々のほとんどの顔に、おもしろそうな表情が浮かんだのである。 
 おそらく、仲間割れか、あのうわさは真実だったのか、などと思っているに違いなかった。
(バカか)
ヴィクトールは心の中で吐き捨てる。
 べつだん、どう思われようと知ったことではなかったが、こんな連中ばかりだから、ユージィンのような男一人に好き勝手をされるんだ、といらいらと周りをねめつけた。
「まあ、それはともかく」
 室内の微妙な空気に気づいているのか、いないのか、ユージィンが淡々と言った。
 ヴィクトールは、わずかに眉を寄せて、ユージィンを見つめた。
「先日提出していただいたレポートですが、手直しをしていただきたいのですが」
 今度は、明らかに威圧的な口調だった。
 その瞬間、室内の空気が緊張をはらんだ。
 およそ3分の2を占める反ユージィン派は、目をきらめかせて二人を見比べ、残りのユージィン支持派は、傍目にもわかるほど、身体をこわばらせている。
 ヴィクトールは、目を細めた。
 先ほどから、なにかが、おかしかった。
 だが、その原因がつかめない。つかめないまま、口を開いた。
「どこか、不備でもありましたか?」
「不備、ではない。最初から書き直していただきたい」
 ざわめきが室内に広まった。
 ヴィクトールは、思わず、さらに眉を寄せた。
 先日提出したレポート。
 それは、情報部員がコロニーFに潜入し得てきた情報をもとに、こちらの必要な装備、軍の配置、補給経路、その他をまとめあげたものである。
 自分の仕事に自信はある。そして、自分が、すべて書き直せ、などと言われるような仕事をするとは、思えない。傲慢なようだが、そうでなければ、ここまで実績をあげてはおらず、ユージィンより若干、遅れてはいるものの、やはりこの若さで、ここまで早く昇進してくるわけがないのである。
「その理由はなんでしょうか」
 いささか、階級が上の相手に言うには、問題のある口調であることは百も承知で言う。 案の定、ユージィンの目に鋭い光が走った。
「まずは、軍の配置が問題だ。相手はゲリラ戦だという話だが、かなり組織的に動き始めているという情報も入ってきている。となれば、この配置では心もとない。そしてそうなれば装備も異なってくる。長期戦を見こんだ補給経路の確保も必要」
「失礼ですが、その情報はどこから?」
「国家保安部だ」
 ヴィクトールは、じろりとユージィンを見つめた。
 そんなはずはなかった。
 ライバル機関である国家保安部の動向は、細かくチェックしている。情報部の人間が手に入れていない情報を、国家保安部が手にいれていることなど、あるはずがなかった。
 だが、と思う。
 もし、情報部内で、裏工作がされていれば、それもあり得る。
 裏工作、つまり、自分の知らないところで、何かが行われていれば、だ。
 ヴィクトールは、自分をまっすぐに見つめている青緑の瞳を見返した。
 どこかでユージィンの手が動いているのだろうか、と思う。
 生まれる前から陰謀をたくらんでいるような男だ。何をしても不思議ではない。
 だが、ふと、先ほどの違和感がよみがえってきた。
 そうだ、何かがおかしい。
 ユージィンが本心を見せることは、ほとんどない、と言っていい。
 というより、人に見せるのは、ユージィン本人が見せたい、と思ったものだけだ。
 ということは、この、自分に対するあからさまな敵意は、ユージィンが見せようとしているものだということになる。
(まさか……)
 ふと、あることに思いついて、改めてユージィンを見据えた。
(あの噂は・・・・)
 ユージィンの表情には、何の変化もない。
 ヴィクトールは、しばらくその顔を見つめてから、おもむろに頷いた。
「わかりました。再度調査の上、提出します」
 室内に、またかすかなざわめきが流れる。
「よろしく。クリューガー大佐」
 ユージィンは、淡々と言い、ヴィクトールに一瞥をくれると、ふいと視線をそらせた。 やはり、なにもかもが胡散臭かった。

 さっそく、その日の午後には、新しい噂が軍部内をかけめぐった。
 会議でアフォルター少将とクリューガー大佐がやりあった。
 いまにも殴りあいになりそうだったところを、皆で止めた。
 アフォルター少将は、目に涙まで浮かべていた。
(……………)
 まったく、この軍には、まともに仕事をしている奴はいないのか、だいたい、あの腹黒い男が泣くわけがないだろう!! と怒鳴りつけたかったが、そうもいかず、ヴィクトールはさらに苛立ちながら、例のレポートの見直しを始めた。だが、こんな状態で仕事が手につくはずもない。
 そして、ヴィクトールのいらいらが頂点に達したころ、ユージィン・アフォルター少将からヴィクトール・クリューガー大佐に呼び出しがかかった。
 すぐに、少将の執務室に出頭するように、との連絡が情報部にきたのである。
 情報部内は、色めき立った。
 もちろん、あからさまに好奇心をみせる者はいない。そこは、さすが情報部。ポーカーフェイスの訓練が行き届いている。
 だが、情報部員全員が、興味津々で自分の一挙一同を見守っていることなど、空気でわかる。ヴィクトールは、この上なく不機嫌な顔で情報部を後にし、軍務省幹部の執務室が並ぶフロアに出向いた。

 
 コーヒーと紅茶を運んできた秘書が執務室を出ていくのを確認して、ヴィクトールはそれまでの取り繕った様子をかなぐり捨てた。
 足を組み、胸の前で腕組みをすると、ソファの背もたれに寄りかかった。
 そして口をへの字に曲げ、目の前に座る上官をにらみつける。
 ユージィンはその様子をながめ、くすりと笑った。
「機嫌が悪そうだねえ、ヴィクトール」
 そう言うと、優雅な仕草で紅茶のカップをとりあげ口に運ぶ。
「……説明してもらおうか」
 ヴィクトールは、怒りを押し殺した声で言った。
「説明? 必要かい?」
 ユージィンはのんびりと言うと、微笑んだ。
「当たり前だ!! なんだって、あんな噂を流した!!!」
「ああ、さすがだね。そこまではわかったかい?」
「………おれは今、機嫌が悪い。殴られたくなかったら、余計なことは言うな」
 ユージィンは、のんびりとカップをテーブルに戻すと、両手を上げた
「わかったよ。まったく、君は相変わらず怖いなあ」
「……なぜ、あんな噂を流したんだ、と聞いている」
「情報操作の練習」
「……なんだと?」
 ヴィクトールの声が、いっそう低くなる。
「噂がどうやって広まるのか、実際に見たかったんだよね。だから実験してみたくてね。他にも、情報部と国家保安部、どっちに先に情報がいくか、とか知りたかったし、どういう経路をたどっていくのかも知りたかったし。まあ、今回は、君が情報部だからね。情報部には、ちょっと不利だったかな。でも、おかげで、おもしろい実験ができた。興味深いデータがいろいろ取れたよ。助かったよ」
 ユージィンは、にっこりと微笑むと、再びカップを取り上げ、おいしそうに紅茶を飲んだ。
 怒りのあまり、絶句したヴィクトールにユージィンは、いたずらめいた視線を投げた。
「悪かったねえ、ヴィクトール、君につらくあたるのは、とっても嫌だったんだけどね、作戦上、仕方がなかったんだよ」
「そんなこと、言ってないだろうが! なにが、助かったよ、だ! 実験だと? ふざけるな!」
 ようやく、口がきけるようになったヴィクトールは怒鳴った。
「だって、情報操作は、最も重要で有効な政策だろう? いざというという時に役に立つように、練習しておいた方がいいじゃないか」
 ユージィンはまったく、動じた様子もなくしゃあしゃあと言った。
「でも、思ったより噂ってのは、広まるのが早いねえ。士官学校の時は、みんな暇だったからね、噂が広まるのが早いのは当たり前だけど、まさか軍部でもこうとは思わなかったよ。みんな、暇なのかなあ。いやあ、すごいもんだね」
「士官学校、だと?」
「そう。あのころもいろいろやってみてたんだよ。君もいくつかは知ってるだろう? でも、今回のが一番おもしろかったよ」
 ヴィクトールは、何か言おうと口を開いたが、あまりのことに、言う言葉も見つからない。また、ユージィンにいいように使われたのだ。まったく、いまいましいが、ここまでくると、もう、怒りを通り越して力が抜けてくる。
 ヴィクトールは、憤然とソファに沈み込んだ。
 そして、相変わらず楽しそうなユージィンの顔をにらみつける。
「なんだって、あんなにくだらん噂を流すんだ」
「だって、くだらない噂の方が、広がりやすいんだよ。それに、あんまり真実味があったら困るじゃないか」
「それにしても、なんで、俺が貴様と・・・・・!!!」
 ヴィクトールは、そこで絶句した。
 言葉にできなかったのである。
「ああ、あれ?」
 ユージィンは、にやりと笑った。
「ああいうのが、一番広まりやすい噂なんだよ。まあ、もとから、下地はあったしね」
「下地だと?」
「そう。君と私」
 ヴィクトールは、再び絶句した。
 呆然とユージィンを見つめる。
「……冗談だろう?」
「本当だよ。知らなかったかい?」
 ユージィンは、気の毒そうにヴィクトールを見つめた。 
 といっても、その瞳の奧には、いかにも楽しげな光がきらめいていたのだが。
「それに、だいたい君には、その手の噂が多い」
「なぜだ!!! おれは、女の恋人がいるぞ! 複数だ!!」
 ヴィクトールは、思わず叫んだ。
「……君ねえ、それ、嫌味かい?」
「事実だ!!」
「ますます、嫌味だね」
 ユージィンが苦笑する。
「そんなことはどうでもいい。なぜ、おれにそんな噂がある!」
「私に聞かれても困るよ。まあ、たぶん、君が結婚しないからだろうけど」
「だからって……女とつき合ってるのは、みな知ってるだろうが!」
「いや、だからそれは、両刀ってことで」
 ヴィクトールは、あまりのことにソファにへたりこむと、喉の奧で唸った。
 そして、ふと、前でのんびりと紅茶を飲んでいるユージィンを睨みつけた。
「おい、まさかと思うが……それも貴様が……」
「嫌だなあ。そこまではしないよ、さすがに」
「本当だろうな」
「疑い深いね。まあ、他の噂は流したことあるけど」
「貴様!!」
 ヴィクトールは身を乗り出して、ユージィンの胸ぐらに手を伸ばした。
 それを、素早く避けてユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「だって、君の噂は本当によく広まるんだよね」
「なぜ、俺を使う?!  自分の噂を流せばいいだろうが」
「だって、それじゃあ、つまらないじゃないか。君が関わってくるからおもしろくなるんだよ? おもしろくない噂は広がらないんだからね」
「なぜ、俺がかかわるとおもしろいんだ!」
「だって君は人気者だから」
 ユージィンは、にこにこと笑った。
 その邪気のなさすぎる笑顔に、思わず何も言えなくなる。
 邪気があるのはわかっている。
 わかりすぎるほど、わかっているのである。
 だが、なぜか、それを見せられると、言葉に詰まる自分が情けない。
 ヴィクトールは、うなり声をあげた。
「ああ、でも、心配しないでいいよ。軍部内で君の噂を流したのは、これが初めてだから」
 この、涼しい顔に蹴りをくれてやりたい。
「そうだ、それに、マックス!! マックスはどうするんだ!! かわいそうじゃないか!」
 ユージィンは、片方の眉をあげた。
「……やっぱり、君は同種には優しいねえ」
 そこで、ふと口を閉ざし、悲しげにヴィクトールを見上げた。
「私には、かわいそうなんて、一度だって言ってくれたことがないのにね………うッ」
 ネクタイを掴まれて、喉元を締め上げられ、ユージィンはうめいた。
「……ヴィクトール……苦しいよ……」
「このまま、殺してやろうか」
「……わかった……悪かったよ……」
 ヴィクトールは、ユージィンをソファに突き飛ばした。
 ユージィンは、ため息をつくと、乱れたネクタイを直した。
「まったく、相変わらず乱暴だな、君は」
「うるさい! とにかく、マックスまで巻き込むことはないだろうが!! 責任を持ってこのばかげた噂を消せ!!」
 ユージィンは、にっこりと笑った。
「それは、だいじょうぶだよ。すぐに消えるから」
「なぜ、そんなことがわかる!」
「噂を消したかったら、別の噂を流せばいいんだ」
「貴様、また!!」
「ああ、大丈夫。今度は、君とは関係ない噂だから。もちろん、マックスともね。その辺はぬかりはないよ。安心してくれ」
「……なにが、安心してくれ、だ……」
 ヴィクトールは、力なくつぶやいた。
 もう、何を言う気も起きない。
 ヴィクトールは深くため息をつくと、首を振った。
 そして、長居は無用だとソファから立ち上がろうとした。
 が、ふと、あることを思い出し、ユージィンに向き直った。
「あのレポートの件は、なんなんだ」
「ああ、あれはね、本当だよ。君のところには、最新の情報が届いてなかったんだよ。だからしょうがない」
「何だと?」
「君のところに届いたのは、古い情報だよ。国家保安部に届いていたのが、最新情報だ」
 ヴィクトールは、眉を寄せた。
「ただ、国家保安部が手に入れた情報を、情報部員が取り損ねたとは考えにくいからね、きっと、情報部のどこかには最新情報が届いたはずだよ」
 ヴィクトールの瞳に鋭い光が浮かんだのを見て、ユージィンはにっこりと微笑んでうなずいた。
「きみも、参謀本部から嫌われてるからねえ。どうも、やられたらしいよ」
「……貴様が、なにかしたんじゃないだろうな」
 ユージィンは苦笑した。
「人聞きが悪いなあ。その件については私は何もしてないよ。気がついたんで利用させてもらったけど、それだけだよ」
「本当だろうな」
「本当に疑い深いねえ、君は。どうして、そう、いつもいつも私のことを疑うんだい? そんなに、私のことが信用できないのかな?」
 ユージィンは、真剣な眼差しでヴィクトールの顔をのぞきこむようにした。
 ヴィクトールは、ぐいと手を伸ばすと、ユージィンのネクタイを掴んで締め上げた。
「やっぱり、一度、殺してやる」
 ユージィンは、くすくすと笑うと、ヴィクトールの手をさりげなく、喉元からはずした。
「物騒だね。まあ、とにかく、神に誓って、その件に関しては私は無実だよ。裏で操作されたんだよ、きっと、ビュールマンの息のかかった連中だろうね。君も気をつけた方がいいよ。保守派に狙われているのは、私だけじゃないみたいだからねえ」
 ユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「お互い、頭の固い上司を持って大変だよね。まあ、とにかくレポートの書き直しは頼んだからね。まずは、情報部のどこに最新の情報があるのか、探したらいいよ。がんばってくれ」
 ヴィクトールは、思いきりユージィンをにらみつけると、立ち上がった。
 そのまま、何も言わずに扉に向かう。
「ああ、再提出は明日の午前中までに頼むよ。午後には、会議があるんでね」
 後ろからのんびりとした声が飛んでくる。
 ヴィクトールは、振り返りもせず、勢いよくドアを開け、執務室を出た。
 心底、いまいましかった。
 ユージィンも、もちろんいまいましいが、自分が保守派にしてやられたらしい、ということがもっと、いまいましい。
 そこで、はっと、あることに気づく。
 今、自分の怒りの矛先は、保守派に向かっている。本当なら、ばかばかしいことを仕組んだユージィンに向いていたはずの矛先が、すっかりそらされている。
 やはり、また巧く、ユージィンにしてやられたのだと、はらわたが煮えくりかえる。
「くそッ」
 ヴィクトールは、思わずつぶやくと、握った拳で廊下の壁を叩いた。
 その瞬間、すぐ近くのドアを開けて出てきた女性秘書が、驚いたようにヴィクトールを見つめた。
 そして、ちらりとその視線が、ヴィクトールが、たった今出てきたばかりの、扉へ向けられる。
 それは一瞬のことで、女性秘書はまったく表情を変えず、丁寧にヴィクトールに一礼すると、書類を片手に、別の扉の中へ消えていった。
 だが、ヴィクトールはため息をついた。
 今のは、絶対に誤解されただろうと思う。
 そして、また新しい噂が軍部内を駆けめぐるのだろう。
 ヴィクトールは、異様な疲れを感じながら、情報部に戻った。

END

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