信号が赤に変わる。
ヴィクトールは、ゆっくりとスピードを落とし、車を止めた。
金曜日の午後11時。
週末の夜にもかかわらず、走る車は少ない。
このあたりは、繁華街の集中する2区の中でもはずれに位置し、住宅が多いせいだろう。人通りもほとんどなく、右手の歩道を足早に歩いていく人影がひとつあるだけだった。
信号が青に変わるのを待ちながら、見るとはなしに、歩道を歩く人影に目をやる。
ちょうど交差点にさしかかるところで、道の角に据えられた街灯が、そのうしろ姿を明るく照らし出した。
ふと、ヴィクトールの形のいい眉が寄る。
その背格好。
そして、歩き方・・・。
「あら・・・」
不意に、隣であがった声に、注意を引き戻され、ヴィクトールは、助手席に座ったガラに視線を移した。
ガラは目を細め、フロントガラス越しに前方を見つめている。
その目は、歩道を一人歩く人影にじっと注がれていた。
「ユージィンだわ」
ガラの言葉に、ヴィクトールは、ぐいと唇をへの字に曲げた。
そうではないかと思ったのだ。だが、後姿だけで、仇敵を認識してしまった自分に腹が立つ。
ヴィクトールは、いらいらとハンドルを握りなおした。
「あれ、そうよね」
ガラは、そんなヴィクトールの苛立ちに気づかぬように、交差点を右に折れ、植え込みの影に姿を隠そうとしている後姿を、無邪気なしぐさで指さした。
ヴィクトールは、唇をゆがめたまま、ちらりとそちらへ目をやった。
だが、一瞬で目をそらす。
「さあな」
ぶっきらぼうに答え、さっさと信号に目を戻した。
だが、小さな笑い声に、むっとした顔を助手席に向けた。
見れば、ガラが、こらえきれぬようにくすくすと笑っている。
「・・・・なにがおかしい」
「やっぱり、あれはユージィンだったな、と思って」
「・・・・なんだと?」
「あなたの反応、見てればわかるわよ」
ガラは、からかうように笑った。
「あなたも、ユージィンだって、すぐにわかったんでしょ?顔に書いてあるわよ」
ヴィクトールは、むっと押し黙った。
その顔を見て、またガラが笑う。
「・・・・・あれが誰だろうと、おれには関係ない」
ヴィクトールは、むっつりと言った。
「そうよね」
ガラが、微笑みながら言う。
その言葉に含みを感じるのは、気のせいだろうか・・・。
信号が青に変わる。
ヴィクトールは、不愉快な会話を打ち切り、アクセルを踏み込んだ。
ユージィンが歩き去った右の道ではなく、そのまま直進する。ガラの家は、この道をまっすぐ行ったところにあるのだ。
そこでふと、さらに不愉快なことに気づき、ヴィクトールは、唇をぐいと引き結んだ。
「こっちへ行ったってことは、マッソウのところね」
まるでヴィクトールの心を読んだかのようなタイミングで、ガラが言った。
「まあ、ユージィンがルナ・マーセナリーズと遊ぶわけもないから、2区にいるってことは、相手はマッソウに決まってるんだけど」
ガラはいくぶん、おもしろくなさそうだ。
「それにしても、ユージィンも無用心よね。昔ならともかく、いまだに歩いて行ってるのね。それもこんな時間に」
言われてみればたしかにそうだ。なぜ、ユージィンは車で送り迎えをさせないのだ?
エリュシオンは、治安はかなりいい方ではある。
それも中枢ともいえる、1区2区あたりは、かなり管理が行き届いており、安全な街であるといっていいだろう。
だが、ユージィンは、アフォルターの婿養子だ。軍の中では、まだ中堅どころで、たいした役職にはついていないとはいえ、アフォルターの一員だというだけで、何者かに危害を加えられてもおかしくはない立場にいる。こんな時間に一人でふらふらと歩いているというのは、考えてみれば相当に無用心な話だった。
「・・・・まあ、帰りはともかく、ね」
ガラが言った。
その口調に、ふと、ひっかかるものを感じて、ヴィクトールは助手席に視線を流した。
ガラは、あまりたちのよくない笑みを頬に浮かべ、くすくすと笑っている。
「ユージィンも苦労するわよね。まあ、あの人が苦労したところで、ざまあみろ、としか思わないけど」
ガラはそう言うと、猫のように伸びをした。
(・・・・・苦労・・・・?)
ヴィクトールは、眉を寄せた。
話がまったく見えない。
が、そこで、ヴィクトールの表情に気づいたらしく、ガラがふと眉をあげ、のぞきこんできた。
「どうしたの?」
だが、ヴィクトールは、すっと視線をそらせた。
別にあの男が、歩こうが車を使おうが、自分には関わりがないことだった。
「・・・いや、なんでもない」
素っ気無く言い、視線を前方に戻す。
ガラは、いぶかしげにちょっと首を傾け、ヴィクトールの顔を見つめていたが、ふとその顔に、意外そうな表情が広がった。
「もしかして、ユージィンがいつも歩いているの、知らなかった?」
「・・・・・・」
ヴィクトールの沈黙を肯定ととって、ガラはあらまあ、とつぶやいた。
「もうずっとよ。前はわたしももっと暇だったし、よくばったり会ったわよ。にこにこ笑って手を振ってくるから、苛めてやろうかと思って『マッソウのところへ行くの?』って聞いてやると、あの嫌味な笑顔で『呼ばれちゃってね。またお説教かと思うと憂鬱だよ』とかしゃあしゃあと言うのよね。まったく図太い男よねーほんとに」
ガラが呆れたような口調で言うのを、ヴィクトールはほとんど聞いていなかった、
(なぜ、車を使わない?帰りはともかく、だと?・・・・どういうことだ?)
さっぱりわからない。
視線を感じて助手席に目をやると、おもしろそうな光を浮かべてヴィクトールを見つめる黒い瞳とぶつかった。
嫌な予感にヴィクトールは、押し黙った。
なにか、非常に不愉快なことになりそうな気がする。
ガラがこういう顔をするということは、ユージィンが車を使わないことに、なにか理由があるのだ。それも、運動のため、などという当たり前の理由ではないことは確かだ。
だが、いまやあからさまに、いわくありげな表情になったガラの手前、ここで引き下がるのは癪だった。
ヴィクトールは、心の中で舌打ちをした。
「・・・・なぜだ」
ヴィクトールが不機嫌丸出しの声で問うと、やはり、ガラの顔に、さらに意味ありげな微笑が浮かんだ。
「聞かない方がいいと思うわよ、あなたは」
予想通りの展開に、ヴィクトールは、もう一度、心の中で舌打ちをした。
「いいから言え」
冷たく言い放つ。
ガラは、苦笑して肩をすくめた。
「そんな声出さないでよ。怖いじゃない」
「言え」
ガラはもう一度苦笑すると、わかったわよ、とつぶやき、唇をヴィクトールの耳元に少し寄せた。
「匂いを消すためよ」
一瞬、その意味を図りかねて、ヴィクトールは、いぶかしげにガラを見つめた。
匂いを・・・・消す・・・・?
ガラは、片眉をあげて、いかにも意味深な笑みをうかべている。
不意に、その意味に思い当たる。
その言葉の持つ生々しさに、ヴィクトールは、顔をゆがめた。
ガラは、くすくすと笑った。
「女ってのは鋭いから、ユージィンも気を遣うわよね。ちょっとでも、香りが残ってようものなら、奥様に感づかれないとも限らないし。外を二、三十分も歩けば、匂いも消えるわよ」
ふと、昔のことを思いだす。
あれは、士官候補生だった時のことだ。
マッソウの家から戻ってきたユージィンの身体から、かすかに男性ものの香水の香りが漂ってきたことがあった。
あのときは、ユージィンが香水でもつけているのかと思ったが、今思えば、あの頃のユージィンがそんなことをするはずもなかったのだ。つまり、あれはマッソウがつけていた香水の香りが、ユージィンの制服に移ったものだったわけだった。
たとえようもない嫌悪感に、さらに、唇がゆがむ。
マッソウとユージィンが愛人関係にあることなど、とうに知っている。
だが、「匂いを消す」いう言葉が思い起こさせるものは、そんな箇条書きの事実など比べ物にならぬほど、淫猥で生々しい情景だった。
マッソウとユージィンがからみ合う姿が、まざまざと目に浮かぶ。
こみ上げてきた吐き気に、ヴィクトールは唇をギリと噛んだ。
だが、再び聞こえてきた小さな笑い声に、ヴィクトールははっと我に返った。
じろりと助手席をにらみつけると、ガラが、ヴィクトールを見つめ、くすくすと笑っている。
「なにがおかしい」
ヴィクトールの鋭い一瞥にもまったくひるむ様子もなく、ガラは、にっこりと微笑んだ。
「あなたってかわいいわよね」
一瞬、ヴィクトールは虚をつかれて、押し黙った。
また、ガラが笑う。
「なんでみんな、あなたのことを怖がるのかしらね。本当はこんなにかわいいのにね」
「ふざけたことを言うな」
「あら、怖い」
そう言いつつも、少しも怖いと思ってないのは明らかで、ガラは舌を小さく出して肩をすくめた。
だが不意に、伸びあがるような仕草をし、口調を変えた。
「あ、そこでいいわよ。通りは走って渡るから」
ヴィクトールは、はっとして、車を止めた。
気づけば、すでにガラの住む高級アパートメントの目の前まで来ていたのだった。
「・・・それとも、寄っていく?」
ガラが誘うように微笑む。
ヴィクトールは少し考え、だが、小さくかぶりを振った。
「いや、今日は帰る」
「あら、残念ね」
ガラが心底、残念そうに言う。
ヴィクトールもはじめは、そのつもりだったのだ。今日のようにガラを連れてパーティなどに出た日は、大抵、夜を共にする。
だが今は、なぜか、まったくそんな気になれない。
「また誘ってね。あなたならいつでも歓迎よ」
ヴィクトールは、小さく肩をすくめた。
ガラは苦笑すると、ドアノブに手をかけた。
「ほんとに愛想のない人ね」
「今さらだろう」
「まあ、ね。じゃ、おやすみなさい」
身軽に車から降りたガラがドアをバタンとしめる。
そのまま、通りを横切って走っていく軽やかな後ろ姿を見送って、ヴィクトールは小さく息をついた。
どうしようもなく、自分が苛ついているのがわかる。
マッソウに抱かれるユージィンの姿が、頭から離れない。
(汚らわしい)
ヴィクトールは、軽く頭を振って、その忌まわしい情景を脳裏から追い出そうとした。
だが、その姿はヴィクトールをあざ笑うかのように、いつまでもいつまでも消えなかった。
熱いシャワーを浴びながら、ガラは、先ほどの一幕を思い出し、小さく苦笑した。
(ちょっと、意地悪だったかしら)
我ながら、そう思う。
だが、いつも冷静で冷たいヴィクトールが、ユージィンのこととなると、途端におもしろいほど、感情をコントロールできなくなるのが、おかしくて仕方がない。その心の内を雄弁に語る顔を見ていると、どうしても、ああやってからかいたくなるのだ。
今頃、ヴィクトールは怒り狂いながら、車を走らせているのだろう。
しかも、彼はなぜ自分がこんなに怒っているかも、わからないのだ。
いや、本当は、心の底のさらに底の方ではわかっているのだろう。だが、そんなことを認めるわけにはいかない。だから、絶対に気づいてないふりをするのだ。自分をだまし、だまし続け・・・・・・・・・彼は、死ぬまで、そうやって生きていくに違いない。
(男ってバカよね)
シャワーを止め、長い髪をまとめあげながら、バスタオルに手を伸ばす。
あの二人と知り合って、もう、7.8年になる。
世間では、朋友と言われる二人が、実際には決してそんな関係ではないことくらい、最初からわかっていた。
だが、二人の間にあるものが、憎しみ、敵対心、そんな言葉で言い表せるほど単純なものではないことに気づいたのは、いつのことだったか。
そのことに気がついてからは、見れば見るほど、お互いにかけた縄にがんじがらめになって、じたばたともがいているような二人がおもしろくて仕方がなかった。
だが・・・・
あの2人のことを考えると、かすかな羨望にも似た感情がわき起こるのは、なぜだろう。
冷たいブルーグレイの瞳が、深く激しく、暗い炎を宿して、ユージィンに向けられるのを何度も見た。
あの瞳が自分に向けられないことへの、寂しさだろうか。
いや、違う、と思う。自分は、それほどヴィクトールを愛しているわけではない。だから、そんな瞳を向けられたところで、困惑するしかないだろう。
というより、おそらく、ヴィクトールが自分にその瞳を向けた瞬間に、自分の中にあるヴィクトールへの愛情がなくなるだろう、と思うのだ。
では、なぜ………。
バスローブを羽織り、鏡の前に座る。
鏡を覗き込み、そこに映る女を見つめる。
絶世の美女、というわけではないが、印象的な、一目で人に何かを感じさせる顔だ、とよく言われる女の顔がそこにある。その中で、大きな黒い瞳が、じっと自分を見返している。そこに浮かぶのは、冷めた光だ。世の中を知り、自分というものを知り・・・・。
この瞳に、あのヴィクトールの青灰色の瞳が浮かべていたような光が浮かぶことは、今までも、そしてこれからもないだろう。
なぜなら、あれだけの激しさを持って、誰かを想うことは、自分にはできないから。
それが、愛情であれ憎悪であれ、自分はそこまで他人に関心を持つことすらできない。
いままで、そうやって生きてきたし、これから、誰が周りに現れようとも、それは変わらないだろう。
怒りや愛に我を忘れることもなく、常に相手をじっくり観察し、損得を図り、そうやって生きていくだろう・・・・・。
ふと、胸に、チクリと棘が刺さったような気がした。
(ああ・・・・・あなたは、うらやましいの・・・?)
ガラは、鏡の中の自分に問いかけた。
(あんな風に、誰かを想い、そして想われることが、うらやましい・・・・の・・・?)
ガラは軽く首を振ると、苦笑した。
ルナ・マーセナリーズの世界は厳しい。
高級娼婦とは言われているが、みながみな、ルナ・マーセナリーズのまま生きていけるわけではない。
一つのミスが転落につながる世界だ。
たとえ、ミスをしなくても、本人の才覚、運、そうしたものに恵まれなければ、やがて振り落とされていく世界なのである。
振り落とされた先は、たいてい、惨めな末路だ。
ただの娼婦として、生きていくことしかできなくなったルナ・マーセナリーズを、ガラも何人も知っていた。
その中で、ガラは、誰もが認めるルナ・マーセナリーズのトップまで上り詰めた。
絶世の美女というわけでもない自分が、陰謀や嫉妬の渦巻く上流社会を泳ぎわたり、この厳しい世界のトップに立てたのは、ひとえに自分のこの冷静さ、そして計算高さにあることは、ガラが一番よく知っていた。
(冗談じゃないわ・・・・・あんな風に、我を忘れるのはごめんだわ)
心底、そう思う。
わたしはこれでいい。
今の地位に満足しているし、それに、まだまだこれで終わりじゃない。
まだ戦いは終わってない。
もっともっと、わたしにはできることがある。
だが、そう思ってみても、心の中に刺さった棘は、なかなか消えない。
(わたしもバカね)
ガラはもう一度、首を振ると、髪を乾かそうとドライヤーに手を伸ばした。
と、不意に玄関のチャイムが鳴った。
バスローブのまま、寝室を突っ切り、玄関に向かう。
インターフォンの画面に映し出された姿を見るなり、ガラは小さく微笑んだ。
ヴィクトールだった。
わずかにうつむき加減に、カメラから顔をそむけるようにして立っているのが、今の彼の心境を表しているようで、ガラは、もう一度、くすりと笑った。
(………ほんとに、かわいいんだから)
ロックをはずし、ドアを開ける。
ヴィクトールは、無表情のまま、ちらりとガラに目をやり、そのまま無言で室内に足を踏み入れた。
「びっくりしたわ。どうしたの?」
ガラは素知らぬふりで言い、ヴィクトールの後ろでドアを閉めた。
「気が、変わった」
むっつりとヴィクトールは言った。
「あなたなら、いつでも歓迎よ」
ささやき、両手をヴィクトールの首に回す。
つま先立ちになった身体を、力強い腕が支え引き寄せる。
深く男らしい香りに包み込まれ、ガラはうっとりと目を閉じた。
(この役回りだって、悪くないわよね……)
END