ヴィクトールは、身体の動きをとめた。
蒼白な顔をして、ぐったりとソファに倒れ込んだラファエルを見下ろす。
とうとう、気を失ったのだった。
涙に濡れた頬と、腫れ上がった瞼。
痛ましく憔悴した顔を見るうちに、苦いものが、ヴィクトールの心に広がっていく。
同時に、さきほどまでの狂おしい怒りが、嘘のように消えていくのを感じる。
あとに残ったのは、むなしさと苦い後悔。
ヴィクトールは、小さく息をついた。
なぜ、あれほど自分は、ラファエルの無防備さに憤ったのだろうと思う。
はじめは、哀れだと、思っていたはずだ。
親の愛情を一途にほしがる姿は、ばかげていると思いはするものの、べつだん、憤るほどのことではない。
無防備に人を信じる姿には、確かに苛立った。
なぜ、そんなに簡単に、人を信用するのだ、と思った。
だが、そんなことくらいで、なぜ、あれほど自分は……。
不意に、自分を見つめていた、青緑の瞳を思いだす。
ヴィクトールを、すがりつくように見上げてきたラファエルの瞳。
まるで、捨てられた犬のように、寂しさに打ちひしがれ、手をさしのべたヴィクトールに、無防備に心を許してきたラファエルの姿。
それが、ぴたり、と、ある姿に重なる。
ヴィクトールは、息をつめ、宙を凝視した。
そうだ。
あれは、自分だ。
かつての、自分自身だ。
大切なものを喪い、打ちひしがれ、心の奥底で、寂しさに震えていた、十六才の自分。
そして、不意に目の前に現れ、手をさしのべてきた者を、たやすく信じ、心を預けた自分。
ラファエルの姿が、すべて、自分に重なる。
(そうか……)
だから、あれほどに、怒りを押さえることができなかったのだ。
救いを求めて、伸ばされた手を振り払い、手ひどく裏切った。
まるで、かつての自分に対する復讐でも、あるかのように……。
ヴィクトールは、苦い思いに、力なく首を振った。
(ばかだな、おれは)
心の中で、つぶやく。
(何を……やっているんだ……)
自嘲に、唇をゆがめる。
だが、今さら、何を思っても、もう、遅い。
ラファエルは、自分を憎むだろう。
当たり前だ。
自分が、そう、仕向けたのだから。
ヴィクトールは、涙に濡れたラファエルの顔を見つめ、苦い吐息をついた。
その時、ふと、閉じられていたラファエルの瞼が、小さく震えた。
見守るうちに、ゆっくりと、瞼が開き、下から、ぼんやりと見開かれた青緑の瞳が現れる。
瞳は、しばらく、なにかを探すように、さまよい、そして、ようやく焦点があったとでもいうように、ヴィクトールの瞳をとらえた。
涙に濡れた、大きな瞳が、ヴィクトールを見あげてくる。
美しい色を湛えた瞳。
見慣れた、二十年近くも見つめ続けてきた瞳と、寸分たがわぬ、だが、まったく異なった表情を浮かべる瞳。
ヴィクトールは、その瞳を、じっと見つめた。
青緑の瞳が、激しい怒りを浮かべ、自分を睨みつけてくるのを、静かに待った。
だが、そうしながら、なぜか自分が、奇妙な寂しさを感じていることに気づく。
(なにを、今さら)
ヴィクトールは、心の中で、己をあざ笑った。
だが……。
その時、ふと、手に何かが触れた。
ヴィクトールは、眉を寄せ、視線を落とした。
それは、ラファエルの指だった。
ソファに置かれたヴィクトールの手に、わずかに、ラファエルの指先が触れたのだった。
だが、その指先は、おそらく、痛みのゆえだろう、かすかに震えている。
肌に直接伝わってくる、ラファエルの苦痛。
(おれは、酷いことをしている……)
ヴィクトールは、苦い思いに、小さく息をつき、ラファエルの頬に、汗で貼り付いている髪を、そっと、はらった。
それだけの動きでも、また、痛みが走ったのか、ラファエルの顔が歪む。
ふと、また、ヴィクトールの手に、何かが触れた。
何気なく目をやり、だが、ヴィクトールは、目を見開いた。
ソファに置いた、自分の手。
そこに、ラファエルの手が重なっている。
震える指が、ヴィクトールの手にからまり、あたかも、それしか、頼れるものはないとでもいうように、すがりついているのだ。
ヴィクトールは、そっと、手を動かし、ラファエルの手を握った。
震える指が、ますます、強く、自分の手を握りしめてくるのを感じる。
ヴィクトールは、複雑な思いで、つながれた手を見つめた。
ラファエルは、いま、こうして、しがみついている相手が、他ならぬ、自分を容赦なく陵辱している男だということに、気づいているのだろうかと思う。
痛みも苦しみも、すべて、いま、自分が必死ですがりついている相手が、与えているものだと、わかっているのだろうか。
そんなはずは、なかった。
もし、わかっていれば、こんなことはしないだろう。
おそらく、痛みと苦痛に、何も考えられないだけに違いなかった。
心を満たす、苦い思い。
不意に、ヴィクトールは、ラファエルの身体を抱き上げた。
なぜ、そんなことをしたのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、気づいたら、ラファエルの上半身を抱き起こし、自分の腰の上に乗せるように抱え上げていた。
腕の中で、ラファエルの身体が、大きく震えた。
その唇から、小さな悲鳴を漏らし、のどを大きくのけぞらせる。
おそらく、自分の重みで、さらに、深く、ヴィクトールの身体を受け入れることになったのだろう。
再び、その大きな目から涙があふれ出し、頬を伝う。
あらがうように、ヴィクトールの肩に当てられた両手が激しく震える。
ヴィクトールは、その手を取り、自分の首に回させた。
ラファエルの身体を抱き寄せ、少しでも楽なように、自分に寄りかからせる。
一連の動きで引き起こされた苦痛に、ラファエルの唇から、苦しげな息と、かすれたうめき声が漏れる。
ヴィクトールは、なるべく身体を動かさないようにしながら、そっと、細い身体を抱きしめた。
肌と肌が触れ合い、熱が混じり合う。
ラファエルの苦しげな息づかいが、その鼓動とともに、肌に直接響いてくる。
ヴィクトールは、息さえもしのばせて、細い身体を抱きしめ続けた。
どのくらい、そうしていただろう。
ようやく落ちつきを取り戻した、ラファエルの息づかいに耳を傾けながら、ヴィクトールは不思議な感覚に、とまどっていた。
腕の中の痩せた身体。
その身体を抱きしめているだけで、なんともいえぬ、心地よさに包まれるのだ。
不思議だった。
今まで、何人もの女たちと肌を重ねてきた。
だが、こんな風に、感じたことなど、一度としてなかった。
ヴィクトールにとって、情事は、ただの欲望の処理にすぎなかった。
そこには、愛情も、安らぎもなにもない。
ただ、男と女が、身体を重ね、それぞれの欲望を発散するだけのこと。
終われば、そこには、疲れた身体が二つ残るだけのことだった。
だが、この、心地よさは、なんだろう。
腕の中の身体は、あたたかさとぬくもりに満ちている。
その、ぬくもりに、自分の身体ばかりか、心までも温かくなっていくような心地がする。
ヴィクトールは、さらに深く、腕で包み込むように、ラファエルの身体を抱きしめた。
誰かと肌を合わせるというのは、こんなにも、あたたかいものだったのか、と思う。
人と抱き合うというのは、こんなにも、安らぎに満ちたものだったのか。
そして、こんなにも、心を癒すものだったのか。
(おれは……知らなかったのだ……)
ヴィクトールは、心の中でつぶやいた。
(……なにも知らなかった……)
腕の中のぬくもりを、さらに感じ取ろうと、目を閉じる。
だが、ふと、胸に苦い痛みがよみがえり、ヴィクトールは、唇をゆがめた。
(なにを……勝手なことを)
吐き捨てるように、思う。
自分は、ラファエルを力づくで抱いたのだ。
無理矢理、身体を開き、酷く犯した。
それで、なにを勝手なことを、言っているのか。
ラファエルにとっては、安らぎでもなんでもない。
ただ、ひたすら、屈辱と激痛に耐えるだけの時間ではないか。
(身勝手きわまりない)
ヴィクトールは、自嘲に、唇をゆがめた。
腕の中の身体は、静かな息を繰り返しながら、おとなしく抱かれるままになっている。
ヴィクトールは、そっと、ラファエルの頭を抱き寄せ、その髪に唇を寄せた。
(……身勝手なのは、わかっている……)
(だが……)
だが、もう少し、この温かさを感じていたいと思うのは、許されないだろうか。
あとで、この青緑の瞳は、激しい憎しみと軽蔑を浮かべて、自分を見るだろう。
それは、いい。
憎まれ、恨まれることは、慣れている。
だが、もう少しでいい。
このぬくもりを、腕の中で、感じていたい。
そう、もう少しだけ……。
痛みは、次第に薄れつつあった。
身体の奥深くで、熱く息づいているものの存在は、だが、リアルな質感を伴って、ラファエルを苦しめる。
本来、受け入れるようにはできていないところに、強引に、異物を受け入れているのである。それは、当然だろう。
だが、ラファエルは、なぜか、不思議な安らぎの中にいた。
それは、ぴたりと寄せられた身体の温かさであり、そして、抱きしめてくる腕の力強さであり、肌に直接伝わってくるヴィクトールの心臓の鼓動だった。
(あったかいな……)
ラファエルは、ぼんやりと思った。
こんなに、人の身体って温かいのか、と思う。
ぬくもりに包まれ、力強く抱きしめられ、まるで、誰かに守られているような心地がする。
その心地よさに、ラファエルは、うっとりと目を閉じた。
ああ、そうか、と思う。
自分は、誰かにこうして抱きしめて欲しかったのかと思う。
強く、温かく、やさしく、ただ、抱きしめてもらいたかったのだ。
初めて、母親に抱きしめられた時に、心に流れ込んできた、自分に対する恐怖。
そして、父親に抱きしめられた時の、凍り付くような冷たさ。
愛情にあふれた言葉と、優しい微笑みはあった。
だが、そこには、本当の愛情も、優しさも、そして、ラファエルへの関心すらも、なかった。
あったのは、ただ、外面をとりつくろう社交辞令だけ。
家族みなで、演技をしているような包容。
だが、これは、ちがう。
言葉もない。
向けられる微笑みもない。
だが、ここには、温かさがある。
こうして、抱き合っていると、否応なく、相手の心が、ラファエルの心に流れ込んでくる。
いまの、ヴィクトールからは、恐ろしさも怒りも、そして、寂しさも、何も感じない。
ただ、温かく、優しいだけ。
(ほんとに……あったかい)
鼻の奥が、つんとするような、感覚。
悲しくないのに、なぜか、涙が出てくる。
たぶん、自分はこれを求めていたのだ、思う。
ただ、優しく受け止めてもらうこと。
そう、別に過大な愛情を期待していたわけでは、なかった。
ただ、受け止め、受け入れてくれれば、それだけでよかったのだ。
ラファエルは、自分を抱きしめる身体にまわした腕に、そっと、力をこめた。
もっと、そのあたたかさを感じようと、肌を寄せる。
規則正しい鼓動。
ゆるやかな息づかい。
すべてが、やすらぎと、穏やかさに満ち、ラファエルの心を優しさで満たした。
ふと、首筋に、柔らかい感触が落ちる。
閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
それは、ヴィクトールの唇だった。
柔らかい唇が、ゆっくりと肌をさぐり、やがて、ラファエルの鎖骨にたどりつく。
だが、不快ではなかった。
鎖骨に口づけを落とした唇は、そのまま、ゆっくりと下に、降りていく。
胸元に口づけられ、ラファエルは、息をつめた。
その瞬間、身体に埋めこまれたままのものを、締め付け、また、ぴりりと身体の奥に痛みが走る。
だが、それは、先ほどまでのような、身体を引き裂かれる激痛ではなかった。
再び、胸に唇を寄せられ、ラファエルは、そこから沸きあがってきた奇妙な感覚に、唇を震わせた。
じん、と、胸が熱くなる。
ラファエルは、思わず、手を伸ばして、ヴィクトールの頭に触れた。
再び、唇を肌に感じ、柔らかい舌に優しく愛撫され、身体がほてる。
身体の奥からわき起こってくる感覚に、いたたまれず、身体を動かさずにはいられない。
ふと、下腹部に、熱を感じ、視線を落とした。
ヴィクトールの手が、そっと、ラファエルのものを包み込んでいる。
その手が、ゆっくりと動き、快感が、ラファエルの身体を走った。
思わず、腰が揺れ、身体を貫くものを、しめつける。
また、びり、と、痛みが走る。
だが、優しい愛撫が、その痛みを和らげる。
「……あ……」
ラファエルの唇から、声が漏れた。
休みなく加えられる愛撫に、腰が揺れ、せつない吐息が唇から漏れる。
愛撫に息をつめるたびに、身体を貫く、熱い楔をリアルに感じ取る。
だが、それは、もはや苦痛ではなかった。
知らぬうちに、ヴィクトールの髪に指をからめ、まるで愛撫をねだるように、自分の身体を押しつけているのに、気づく。
だが、不思議と、恥ずかしさは、なかった。
やがて、ゆっくりと、ヴィクトールの身体が動きはじめた。
「……っ……」
さすがに、強い痛みが、ラファエルを襲う。
だが、下腹部を巧みに愛撫され、肌を、唇と舌で優しくなぞられ、快楽と痛みの境があいまいになっていく。
優しく突き上げられる動きに、自然に、身体が揺れる。
「あッ……」
身体の奥に、また、あの感覚が、よみがえった。
ヴィクトールの身体が、力強く、優しく、その場所を突き上げ、愛撫するように、こすり上げる。
「ああ……や……だ……」
うねるように押し寄せてくる快楽の波に、息もつけない。
同時にもたらされる、下腹部のしびれるような快感。
そして、ヴィクトールの唇が触れている肌から、じわりじわりとわき起こる、優しい快感。
それは、互いに高まりあい、混じり合って、ラファエルを翻弄する。
「ああ……あ……」
受け止められないほどの快感に、涙があふれ出る。
ラファエルは、甘い悲鳴をあげながら、ヴィクトールの身体にしがみついた。
すがりつき、抱きしめられ、涙をぼろぼろと流しながら……やがて、気が遠くなるほどの、快楽の奔流に流されていった。