「うまかった~」
満足げな声に、ヴィクトールは、はっと我に返った。
向かいのソファの背もたれに、満足げにもたれかかり、胃のあたりを、さすっている青年が、目に入る。
一瞬、自分がどこにいるのか、わからなくなる。
「おっさん?」
青緑の美しい瞳、細面の、人の良さそうな顔、
脳裏に刻みこまれたものと、それは寸分、違うことのない顔。
(これは……)
ヴィクトールは、小さく、息を吐いた。
(これは、アロイス……だ。アロイス・アフォルターだ)
ヴィクトールは、小さく、頭をふった。
そして、グラスの中の酒をのどに流し込む。
「どうかしたのか……?」
ラファエルの青緑の瞳が、心配そうに、ヴィクトールを見つめている。
(頭がおかしくなりそうだ)
ヴィクトールは、もう一度、息をつくと、ラファエルに向かって、首を振ってみせた。
「いや……なんでもない」
ラファエルの目が、なおも、心配そうに、ヴィクトールを追う。
(やはり、連れてくるんじゃなかった)
激しい後悔。
だが、今さら、どうしようもない。
こうなったら、さっさと、客間に追いやってしまうしかない。
あるいは、もし、帰るというなら、ますます、好都合だ。
グラスに残った酒を一気に、喉に流し込み、なんといって、この青年を部屋から追い出そうかと、しばし逡巡する。
「あの」
小さな声が、ヴィクトールを呼んだ。
視線だけを動かすと、ラファエルが、妙にかしこまった様子で、ソファに座っていた。
ヴィクトールは、軽く眉をあげ、ラファエルに顔を向けた。
「あの、ありがとう……ございました」
ぎこちない様子で、膝の上に両手を置き、ラファエルは、ぺこりと頭を下げた。
「おいしかった……です」
「……いや」
ヴィクトールは、短く答えた。
(帰るか?)
自然に、その言葉が頭に浮かぶ。
いいタイミングだった。
いまなら、まったく自然の流れで、この青年を帰らせることができるだろう。
(帰るか? 帰るなら、送って行こう)
その言葉を言おうと、口を開く。
が、ヴィクトールは、ひそかに眉を寄せた。
言葉が、出てこない。
この、青年を目の前から追い払う絶好のチャンスだというのに、その言葉が出ない。
ヴィクトールは、テーブルに手を伸ばし、空になったグラスに酒を注いだ。
グラスを口元に運び、喉をうるおす。
そして、唇をしめすと、口を開いた。
「どうする……帰るか?」
その瞬間、ラファエルの首がわずかに俯く。
ぴりり、と、胸に痛みが走った。
だが、ヴィクトールは、あえて、それを無視した。
「帰るなら、送って行く」
淡々と言葉を継ぎ、さらに酒を喉に流し込む。
ちらりと、ラファエルに目をやると、ちょうど、青年が顔をあげるところだった。
「はい、迷惑かけて、すいません」
口元に笑みを浮かべて、言う。
「腹、いっぱいになったし、帰ります」
そう言って、照れたように笑う。
また、ぴり、とヴィクトールの胸に鋭い痛みが走った。
ラファエルが、家に帰りたくないのは、明らかだった。
だが、だからどうしたと言うんだ。
なぜ、そこまで、面倒みてやらないとならない?
だいたい、こいつは、あの男の息子だ。
憎んでも憎みきれないほど、憎悪しつづけてきたあの男の息子だ。
ヴィクトールは、グラスをテーブルに置いた。
(では、送ろう)
そう、言おうと口を開く。
が。
「……帰りたくないなら、泊ればいい」
口から出てきたのは、まったく、違う言葉だった。
言ってしまってから、愕然とする。
(おれは、何を言っているんだ)
だが、言ってしまった言葉は取り消せない。
ラファエルは驚いたように、目を見開いて、ヴィクトールを見つめている。
ヴィクトールは心の中で舌打ちした。
「……あ、でも……」
ラファエルが、とまどったように、言う。
だが、その瞳には、隠しようのない期待がほの見える。
もう、後の祭りだった。
ヴィクトールは、胸の中で、深くため息をつきながら言った。
「おれは、かまわん。客用の寝室など腐るほどある。アフォルターも別に、何も言わんだろう」
一気に言って、酒を喉に流し込む。
(まったく、おれは甘い)
いらだちが、沸々と心にわき起こる。
だが、いらだっても、もう、どうしようもなかった。
さっさと客間に追いやってしまえば済むことだ。
なかば、自棄になった頭の隅で思う。
とにかく、目の前から、消えてくれれば、それでいい。
ヴィクトールは、テーブルの下にある室内インターフォンに手を伸ばした。
だが、ふと、なにかをすすりあげるような音に、思わず、その手を止める。
嫌な予感に、目をあげれば、俯いたラファエルの肩が小さく震えている。
見るうちに、膝を握りしめた手の上に、ぽつりと、水滴がしたたり落ちた。
………最悪の事態だった。
「あの……おれ、家にいずらくて……」
ようやく、ラファエルが口を開いた。
ヴィクトールは、ソファに寄りかかったまま、ちらりと、ラファエルに目をやった。
ようやく、涙は止まっていたが、目の周りは真っ赤で、鼻を何度もすすりあげている。
ヴィクトールが、放ってやったティッシュをまた取り、鼻をかむ。
ヴィクトールは、ため息をかみ殺し、グラスを口元に運んだ。
正直言って、困り果てていた。
ラファエルが傷ついているのは、よくわかる。
家でたった一人、取り残されたように感じ、寂しくてたまらなかったのだろうこともわかる。
だが、だからといって、ヴィクトールに何ができるわけでもない。
「おれ……おやじのこと、襲ってなんかいないのに……」
そこで、ふと、ヴィクトールをすがりつくように、見上げる。
「信じてくれたよな。おれ、おやじのこと、やってないって……」
「ああ」
ヴィクトールは、小さくつぶやく。
信じた、というのではない。
事実として、知っている。
ユージィンを襲ったのは、サリエル、だ。
「だけど、みんなは、信じてくれないんだ」
ラファエルの顔が、くしゃくしゃにゆがむ。
「おれ、おやじのこと、嫌いだけど……大嫌いだけど……あんなヤツ、いなきゃよかったのに、って思うけど。……でも、一応、あれでも、父親だし……」
子供のようにしゃくりあげながらも、ラファエルの言葉は止まらなかった。
「おやじ、死んだら、母さん、悲しむ。だから、そんなことオレがするわけない!……なのに、母さんまで、おれがおやじのこと、襲ったって思ってるんだ……」
また、ぽろぽろと涙が、その、大きな目から、したたり落ちる。
ヴィクトールは、再び、そっと、吐息をついた。
要するに、そういうことなのだ。
皆に、恐怖の目で見られることが、つらいのではない。
もちろん、それもあるだろうが、この青年にとって、一番、つらいのは、母親の目に浮かぶ疑惑の色なのだ。
親を知らずに育った子供が、どんなに親の愛情を求めるか、それは想像に難くない。そして、おそらく、親の愛情というものを、過大に評価しがちなのも、よくわかる。
冷え切った家庭、愛情がまったくなかったわけではないのだろうが、子供への愛よりも、家大事に走る母親、そして、まるで、抜け殻のようになった父親を見て育ったヴィクトールには、親の愛情というものが、そんなにすばらしいものだとは、到底、思えない。
親とはいえ、人間だ。
無償の愛などと言うが、しょせん、人間が他人に向けることのできる心など、たかが知れているではないか、とすら思う。
だが、この青年は、そんなことは、思いもしないのだろう。
親というもの、家族というもの、そして、親の愛情というものを、まるで、神聖なもののように思っているのだ。
ばかばかしい、と思う。
もう、いい加減、目を覚ましたらどうだ、とさえ、思う。
おまえの父親を見てみろ。
あれを見れば、人間というものが、どこまで残酷になれるか、わかるだろうに。
そして、レジーナ・キャッスル。
ラファエルは、もっとも手ひどい裏切りを、レジーナから受けたはずではないか。
愛し、自分の心を預け、そして、唯一無二の存在と思った相手から、手ひどく裏切られること。
その痛みを、おまえは知っているのではないのか?
なのに、なぜ、あきらめない?
なぜ、 まだ、人を信じ、愛情を傾けようとすることができるのだ?
努力すれば、なんとかなるとでも思っているというのか。
それは、ヴィクトールに言わせれば、愚の骨頂だった。
人間の心とは、そんなに単純なものではない。
どんなに足掻こうと、心から血を流そうと、どうにもならないことは、あるのだ。
なぜ、それがわからない?
今もそうだ。
ヴィクトールに向かって、わかってほしい、理解してほしいと、全身で叫んでいる。
たまたま、通りすがり、手をさしのべただけのヴィクトールに、完全に心を預けている。
母親に理解されないその苦しみを、ヴィクトールに理解してもらうことで、癒やそうとしているわけだ。
なぜだ、と思う。
なぜ、おれが、おまえの味方だと思うのだ?
なぜ、そんなに簡単に、人を信用できるのだ?
なぜ、そんなに簡単に、人に心を許す?
強烈な怒りが、わき起こる。
「父親を殺したいと思わないのか?」
知らぬうちに、ヴィクトールの唇から、言葉が出ていた。
「……え?……」
突然のことに、ラファエルは驚いたようだった。
だが、すぐに、唇をゆがめ、下を向く。
「殺したいと……思った……ほんとは……」
ささやくような声。
「……思ったけど……でも、そしたら、母さんも……」
そこで、顔が、くしゃくしゃにゆがむ。
「キャ、キャッスルも……すげえ、悲しむ……」
「あの女は、おまえを裏切ったのだろう? なら、どうでもいいだろうが」
ラファエルが、激しく首を振る。
「おれ、やだよ。キャッスルが泣くの、やだよ!キャッスルのこと、すげえ好きだから……そりゃあ、悲しかったし、悔しかったし……ものすごい怒ったし。……でも……しょうがねえよ……キャッスルがおやじのこと好きなら……」
なぜだ。
ヴィクトールの心が叫ぶ。
かつて、裏切りに、深く傷つき、絶望した心が、狂おしく叫ぶ。
なぜ、そんなに、簡単に言えるのだ?
ヴィクトールは、裏切りを知り、すべてを喪ったことを悟った瞬間に、自分の弱さを抹殺することを誓った。
そして、憎悪に心を駆り立て、まるで身を削るようにして、弱さをそぎ落として行った。
なぜなら、そうしなければ、生きていけなかったから。
そう、絶望とは、そういうものだ。
希望の代りに、暗く、闇よりも深い情念を糧に生きていくこと。
ヴィクトールの場合は、それは、激しい憎悪であり、復讐の念だった。
そうしなければ生きられないほどの想い。
それが、絶望というものだ。
だが、この青年は違う。
裏切られ、ひどく傷つき、ぼろぼろになりながらも、まだ、キャッスルが泣くのは嫌だという。
母親が信じてくれないと、泣く。
母親とキャッスルが泣くから、父親は殺せないと言う。
そして、ただ、気まぐれに手をさしのべただけのヴィクトールに、簡単に心を許す。
(なぜ、わからないのだ)
ヴィクトールは、グラスをテーブルの上に置いた。
かたり、という硬質な音が、ヴィクトールの神経を逆なでする。
「おっさん……?」
ふらりと立ち上がったヴィクトールを見上げて、ラファエルが驚いたように、目を上げた。
「……ど、どうしたんだ……?」
ただならぬ気配を感じたのだろう。
目に怯えたような光が走る。
ヴィクトールは、テーブルを回り、ラファエルの前に立った。
ラファエルの体が、わずかに後ずさる。
ヴィクトールは、その肩を力任せに、ソファの背もたれに押しつけた。
「ちょ……っ! な、なに、すんだっ!」
ラファエルが叫び、あわてて起きあがろうとする。
それを、ぐいと押さえつけ、体重をかけて上半身の動きを封じると、右手でラファエルの顎をとらえ、噛みつくように、唇を重ねた。
その瞬間、硬直したように、ラファエルの体が固まり、体の動きがとまる。
見開かれた青緑の瞳が、驚愕と不信の色を浮かべて、ヴィクトールを凝視する。
(そうだ。これが、人間というものだ)
ヴィクトールは、冷えた心の中でつぶやいた。
(勝手で残酷で、無慈悲極まりない。それが、人間の本性だ)
(それでも、なお、おまえは、他人に心を許せるのか?)
(それでも、なお、そうして、泣いていられるのか?)
ヴィクトールは、肩をおしのけようと動いた両手をひとまとめに押さえつけ、さらに、深く唇をむさぼった。
欲望など、ひとかけらも、ない。
あるのは、ただ、怒りと、そして、何故かはわからぬ、奇妙な寂しさだけだった。