傷痕

 ガタリ、と音がして、ヴィクトールは、振り向いた。
 倒れ込んできた身体を、とっさに腕を出して抱きとめる。
「元首!」
 執務机の向こう側で、書類の整理をしていた秘書官が、あわてふためいて駆け寄ってくると、ヴィクトールの腕から取り返すようにして、ユージィンの身体を支えた。
「だいじょうぶですか?!」
 秘書官の青年の腕に支えられたまま、ユージィンの手が、何かを探るように動いた。
 だが、それは一瞬のことで、すぐに両手を執務机について身体を支えると、顔をあげた。
 その頬には、苦笑が浮かんでいる。
「…なんでもないよ。少しよろめいただけだ」
 そう言うと、安心させるように秘書官にうなずいてみせた。
「すまなかったね。もう、だいじょうぶだ」
 だが、その視線が青年の目の高さとは、微妙にずれていることに気づき、ヴィクトールは眉を寄せた。
 秘書官もそれに気づいたのだろう。
 気遣わしげな視線を投げると、椅子を引いて、ユージィンを座らせた。
「ああ、ありがとう。やっぱり、もう、年かな、私も。まったく、情けなくなるね」
 ユージィンはぼやくように言うと、眼鏡をはずし、軽く目を指でこすった。
 そして、秘書官を見上げて、いたずらっぽく笑った。
「このことは、他のみんなには内緒だよ。年寄り扱いされたら、かなわないからね」
「それは、もちろんですが……」
 秘書官は、唇をほころばせて、年寄りなどという言葉が全く似合わない、いかにも若々しい雰囲気の元首を見つめた。
 だが、ユージィンの視線が、明らかに自分の目からずれた位置に向けられているに気づき、心配そうに顔を曇らせた。
 むろん、四六時中、ユージィンの傍らにいる秘書官である。
 ユージィンの目がかなり悪いことは、よく知っている。
 だから、眼鏡をかけていないせいで、よく見えないのだろう、とは思うものの、先ほどの、眼鏡をかけていても、あまりよく見えていないようだった様子を思い出し、不安を覚えずにはいられなかったのである。
「あの……お疲れなのではありませんか?」
 ためらいがちに言った秘書官に、ユージィンはその大きな瞳を見開いてみせた。
「私が? とんでもないよ。君たちがよくはたらいてくれるからね、私の怠け癖がひどくなる一方だ。それでそこにいる怖い長官殿に、いつも怒られるんだよ」
 ユージィンは、最後の方は声をひそめるようにして言うと、秘書官に目配せをした。
 だが、声を潜めたところで、すぐ近くにいるヴィクトールに聞こえぬわけもない。
 もちろん、ユージィンもそれをわかった上でわざとやっているわけで、ちらりと見やった先で、ヴィクトールが苦虫をかみつぶしたような顔をしているのを見て、青年は思わずくすりと笑った。
「だからね、今日はもう、いいよ、帰って」
 ユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「打ち合わせといっても簡単なものだから、何か頼みたいこともないと思うし」
 だが、青年は、きっぱりと首を振った。
「ですが、何かあると心配ですし、元首がお帰りになるまで、私も残らせていただきます」
 ユージィンは、優しく微笑むと、青年を見つめた。
「君の気持ちはうれしいけどね、たまには、早く帰りなさい。早く帰って彼女と食事でもするといい」
「彼女など……!」
 青年は、真っ赤になった顔で抗議をした。
 ユージィンは、それへ、にこにこと微笑みかけた。
「いるだろう? もしいないなら、早く見つけなさい。仕事ばかりやっていたら、だめだよ。君は若いんだから」
 ユージィンの顔には、実に美しく、それでいて温かい、あの、誰もが引き寄せられる笑みが浮かんでいる。
 ヴィクトールは、かすかに眉をあげてその笑顔を眺めていたが、ふと秘書官に目を移し、思った通りの光景に思わず苦笑した。
 青年は、思わず、というようにユージィンの微笑みに見とれている。
(こんなもの、毎日、見てるだろうに)
 ヴィクトールは、半分呆れて、そして半分は同情して、まだ若い秘書官を眺めた。
「さあ、今日はもう帰りなさい。他の秘書官たちにも、私のことは気にせず帰っていいと伝えてくれないかな。あとはだいじょうぶだから」
 ユージィンにわずかに首をかしげるようにして言われ、ようやく、青年は不承不承といった様子でうなずいた。
「……はい……それでは……」
「うん。お疲れさま」
「はい。……その、ご無理はなさらず……私にできることは何でもしますので、明日に残しておいていただければ……」
 青年が、なおも心配そうな視線を投げる。
 ユージィンは、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう」
 秘書官は、ユージィンに向って一礼し、ヴィクトールに会釈すると、まだ、不安げな表情を見せながらも部屋を出ていく。
 だが、ヴィクトールは、最後にちらりと自分に向けられた視線に気づき、再び、苦笑した。
 それは、決して好意的なものではなかった。
 それはそうだろう。
 今や、元首と情報部長官の巧妙に隠された、しかし、根の深い深刻な対立を知らぬものはいない。
 元首の秘書官、しかもこれだけ若いとなれば、ユージィンに熱狂的な崇拝を捧げているだろうことは、簡単に想像がつく。
 となれば、自分に向ける敵意は相当なものだろう。
 先ほどの、まるで敵の手から救い出そうとするかのようにユージィンを取り返した時の、青年の表情を思い出して、ヴィクトールは、唇をわずかに歪めた。
「相変わらず、ずいぶんと飼い慣らしているな」
 腕を組み、皮肉めいた声で言ってユージィンを見おろす。
「そう?」
 だが、返ってきたのは、打って変わって、そっけない声だった。
 その頬からも、先ほどまでの柔らかい微笑みは跡形もなく消えている。
 そして、ユージィンは、肘を執務机の上につくようにして、両手で目を覆った。
 ヴィクトールは、眉を寄せてユージィンのそばに近づいた。
 そして、ぐいと手を伸ばすと、ユージィンの右腕をつかみ、その手を目から引き剥がした。
 ユージィンが、いぶかしげな視線を投げてくる。
 そこにあるのは、見慣れたいつもの青緑の美しい瞳だ。
 眼鏡をとっていると、さらに若く見え、まるで昔に戻ったような錯覚さえ覚える。
 だが、確実にこの視力は衰えてきている。
 先ほども、おそらく、脱いだ上着をハンガーに掛けたあと、机に戻ろうとして、何かに足を取られたのだろう。
「だいぶ見えなくなってきたようだな」
 揶揄するようなヴィクトールの言葉に、ユージィンは苦笑した。
「というよりね、まったく、見えていないんだよ、今」
「まったく?」
 さすがに驚いてヴィクトールは聞き返した。
「どういうことだ?」
「だから、その通りの意味だよ」
「……ぼんやりとしか見えないということか?」
「違うよ。真っ暗だよ、今は」
 ヴィクトールはさらに、眉を寄せてユージィンを見つめた。
「しっかり、こっちを見ているではないか」
 ユージィンは、小さく笑った。
「君の顔の位置くらい覚えているよ。何度、この席から君を見上げてると思ってるんだい?」
 ヴィクトールは、まじまじとユージィンの瞳をのぞき込んだ。
 その視線は、ヴィクトールに向いている。
 だが、確かに言われてみれば、その瞳は、どことなく心許ない、ぼんやりとした光を浮かべている。そして、確かにこちらを見ているのに、目が合ったという確かな手応えがないことに気づく。
 ヴィクトールは顔を寄せて、ユージィンの顔をのぞきこんだ。
 気配で気づいたのか、ユージィンの視線が、わずかに動いたが、その瞳は、ヴィクトールの顔の位置から、ややずれた辺りに向けられ、頼りなげに揺れている。
「……本当におれの顔が見えないのか?」
「疑い深いね、君は」
 ユージィンは、くすくすと笑った。
「見えないよ。まるで暗闇にいるみたいに、ね」
 そういいながら、左手をゆっくりと伸ばす。
 だが、その指は宙を彷徨うように動き、ようやく、ヴィクトールの頬を探り当て、そっと触れた。
「ああ、ここか……」
 つぶやくように言って、苦笑する。
 ユージィンは、確かめるように手の平全体をヴィクトールの頬にあて、何回か目を瞬いた。
「やっぱり、だめだな。見えない。少しすると回復するんだけどね、疲れていると時間がかかる。それに回復しても、はっきりとは見えない。悲しいことにね」
 ユージィンはあきらめたように微笑んだ。
「だんだん、誰がどんな顔をしていたか、わからなくなってくるんだよ。記憶というのはあてにならないね。見えているときは、当たり前のように知っていると思っていた顔も、こうやって見えなくなってみると、とたんに思い浮かべるのが難しくなる……。そして不思議なことに、顔が思い浮かばないと、その相手の存在すら、不確かなものに感じられてくる……」
 そう言うと、ユージィンは指でヴィクトールの顔をそっとたどった。
「そう、ここに確かに君はいる。これは、確かに君の顔だ。でも、今、私の頭の中にある顔はあくまでも記憶の中の君の顔でね、今の君の顔ではない。そう考えると、とても寂しいよ。それに、私は君の顔が好きだから、忘れたくないんだけどね……」
 ヴィクトールは間近にある、穏やかに細められた青緑の瞳をのぞきこんだ。
 この美しい、出会った頃から変わらぬ輝きを放つ瞳が、たった今、像を結んでいないなどとは信じられなかった。
 いや、瞳は見ているのだ。
 だが、その像がユージィンの脳には届いていない。
 ヴィクトールは、得体の知れぬ感情が沸き起こるのを感じながら、その瞳を凝視した。
 常にヴィクトールの傍らにあったこの瞳が、さまざまな表情を浮かべるのを見てきた。
 穏やかに優しく細められ、何とも言えない心地よさを見る者に与える時もあれば、からかうようないたずらめいた光を浮かべ、楽しげにきらめく時もあった。
 見る者の心を凍り付かせるような暗い光を浮かべるのも見たし、一瞬にして相手を射殺すかのような、刃物のように鋭い光を浮かべるのを見たことも何度もある。そして……決して忘れ得ぬ、力を発する時の、あの、禍々しい輝きも……。 
 だが、今、その瞳はなんの表情も浮かべず、ぼんやりと見開かれたままだ。
 そして、こんなに近くにいるというのに、ヴィクトールを突き抜けて、どこか遠くを見てでもいるかのようだった。
 その、とらえどころのない、あやうささえ漂わせる瞳を見つめながら、知らぬうちにヴィクトールは、ユージィンの腕を掴んだ手に力をこめていたらしかった。
 息をのむような音が聞こえ、ユージィンの指がヴィクトールの顔から離れた。
「ヴィクトール……手を……離してくれないか……」
 静かな、だが、明らかに苦痛をこらえているような声に、ヴィクトールは、我に返った。
 ユージィンの指が、また探るように動き、自分の腕を掴んでいるヴィクトールの指を引き剥がそうとでもするように動いた。
 だが、それは左手だ。
 無惨な火傷の痕のある左手は、以前のようには動かせない。
 もどかしさの故か、ユージィンの眉が寄る。
 その姿を見つめていたヴィクトールは、不意に、先ほどから心の内でふつふつとたぎっていた、説明のつかない感情が、一瞬にして形をとるのを感じた。
 それは、強烈な怒りだった。
(許さない)
(そんなことは許さない)
(おれの顔を忘れる?)
(存在すら、不確かになる、だと?)
(そんなことがあっていいわけがない。自分という存在を、この心に、脳に刻みこんでやるために、今まで生きてきたのだ。冗談ではない!)
 衝動に突き動かされるままに、つかんだ腕をひねりあげ、椅子に座ったユージィンの身体をねじるようにして執務机に押しつけた。
 無理な体勢で身体をねじられ、ユージィンの顔が苦痛に歪み、かすかなうめき声がもれる。
 抵抗するように激しく動いた左手も力任せに掴み、右手とひとまとめにして、机の上にはりつけるようにして押さえ込む。
「ヴィクトール?!」
 ユージィンが叫んだ。
 何も見えないだけに、さらに恐怖を煽られたのか、珍しく声が動揺している。
 そのことに、くらい満足感を覚えながら、ユージィンの喉元に手を伸ばし、ネクタイの結び目に指を差し込んだ。
 ぐいと指を引き、ネクタイをほどく。
「なに…を……ッ! ヴィクトールッ!」
 ユージィンの叫びを無視して、ボタンを引きちぎるようにしてワイシャツを左右にはだける。
「何のつもりだ!!」
 ユージィンが、目に強い光を浮かべて、ヴィクトールをにらみつけくる。
 だが、やはり、焦点は合っていない。
 見えていないのだ。
 自分の姿が、この青緑の瞳には映っていないのだ。
 ヴィクトールは、怒りにまかせて、机の上に放り出してあったペーパーナイフを掴み取ると、いきなり、露わになったユージィンの胸元に突き刺した。
「つッ……!!」
 ユージィンが、うめき、喉をのけぞらせる。
 そのまま、ペーパーナイフの切っ先を滑らせると、さらにユージィンはヴィクトールに捕まれた手を震わせ、背を反り返らせた。
 白い肌に、一筋の赤い筋がくっきりと刻まれ、みるみるうちに赤い液体が盛り上がる。
「ヴィク……トール……ッ」
 ユージィンが、食いしばった歯の間から押し出すようにして言い、首をもたげた。
 苦痛のせいか潤んだように揺らぐ瞳が、ヴィクトールの姿をとらえようとでもするかのように彷徨う。
「安心しろ。ただのペーパーナイフだ。死にはしない」
 その瞳を見つめながら、ヴィクトールはさらにペーパーナイフの切っ先を、先に進めた。
「……う……っ」
 ユージィンが白くなるほど唇を噛みしめて、再び喉をのけぞらせた。
「痛いか?」
「あ……当たり前……だ……ろう……」
 ユージィンの苦しげな声が、切れ切れに、だが、気丈にその唇から漏れた。
「そうか」
 ヴィクトールは、小さく笑うと最後にナイフをぐいと深く突き立て、ユージィンの肌から引き抜いた。
 鮮血がしたたり落ち、白い肌を汚す。
 ヴィクトールは、ペーパーナイフの刃にべっとりとついた血を、ユージィンの肌で拭うと、ナイフを机の上に投げ出した。
 そして、押さえつけていた細い手首を解放する。
 全身を緊張に強ばらせていたユージィンの身体から力が抜けた。
「なんで……こんなことを……」
 つぶやくように言ったユージィンにのしかかるようにして、ヴィクトールは、その細い顎を強く掴んだ。
 ユージィンの目が薄く開く。
「忘れる、だと? そんなことは許さんからな」
 ヴィクトールは低く、ささやくように言った。
「地獄に堕ちるまで、おれのすべてを覚えておけ。見えないというなら、この痛みを覚えておけ」
 そう言うと、ヴィクトールは、指で、己が刻み込んだ傷に触れた。
「……つ……ぅ……」
 ユージィンの顔が苦痛に歪み、両手がヴィクトールの身体を押しのけるようにその肩を掴んだ。
「わかったな」
 ヴィクトールは、さらに爪を立てて、残酷に傷をえぐった。
「………!」
 ユージィンの上半身が激しく震える。
 だが、おそらく悲鳴をあげるなどプライドが許さないのだろう。
 強く噛んだあまりに、唇から血を滴らせながらも、ユージィンは喉の奧で悲鳴を押さえ込み、外に漏れたのは、押し殺したうめき声だけだった。
 だがヴィクトールの軍服を掴む指が痙攣するように震えているのを見れば、その痛みがどれほどのものかは想像に難くない。
 だが、ヴィクトールは容赦はしなかった。
 なおも、爪をたてたまま、汗にまみれたユージィンの顔をのぞきこむ。
 ユージィンの唇が、震えながらも、かすかに横に開き、口角がわずかに上にあがった。
 どうやら、笑おうとしているのだ、と気づき、ヴィクトールは、目を見開いた。
「……それ……は……また、……素敵な……愛の……告……白だ……ね……」
 震える声が、血のにじむ唇の間から、漏れた。
 ヴィクトールは、一瞬、虚をつかれたようにユージィンを見つめたが、やがて、片頬に笑みを浮かべると鼻で笑った。
「そうか。別になんでもかまわんが、じゃあ、そういうことにして、ここにおれの名前でも刻んでやればよかったな」
「……遠慮……しておく…」
「なら、このまま抱いてやろうか?」
「……それも……遠慮して……おく……よ」
「それは残念だ」
 ヴィクトールは皮肉めいた声で言うと、指を、また動かした。
 そして、ぐいと深く爪を入れると、ユージィンの身体がびくりと跳ねた。
「……くっ……!」
 とうとう、ユージィンの、蒼白な顔ががくりとのけぞり、ふっとその身体から力が抜けた。
 どうやら、痛みのあまり、気を失ったらしかった。
 ヴィクトールは、そこで、ようやく、指をユージィンの傷口から離した。
 そして、その血にまみれたままの指で、再びユージィンの顎をつかみ、その顔をのぞきこむ。
 ユージィンは、目を開かない。
 ヴィクトールは、しげしげとその顔を見つめると、親指で血のにじむ唇をぬぐった。
 そして、ふと思いついたように、そこに自分の唇を重ねる。
 意識のない唇に軽く口付け、唇を寄せたまま囁いた。
「ユージィン、いいか、忘れるなど、許さんからな」
 そして、もう一度、深く唇を重ねた。
 

 ユージィンは、目を覚ました。
 目を瞬くと、ぼんやりとしてはいるものの、見慣れた執務室が目に入った。
 どうやら、自分は、椅子に座っているらしい。
 ユージィンは手を机に伸ばすと眼鏡を探った。
 想いの他、近くにあった眼鏡を探し当て、かける。
 ようやく、なんとか物の識別ができるくらいの視力を取り戻して、ユージィンはほっと、息をついた。
 同時に、先ほど起きたことを思い出し、室内に目を走らせた。
 だが、ヴィクトールの姿はない。
 おそらく、自分が気を失っている間に帰ったのだろう。
 時計を見れば、もう、夜の十時だ。
 あれから三時間ほどたっている。
 ユージィンは、椅子から身を起こし、ずり落ちそうになったスーツの上着を、あわてて手で押さえた。
 そして、いぶかしげにそれを見つめる。
 これは、先ほど、自分がハンガーにかけたはずのものだ。
 では、ヴィクトールが自分にかけたのか。
 はっとして、胸元を見れば、ボタンを引きちぎるようにして広げられたワイシャツも、一応、前を合わせられており、肌を隠している。
 そっと前をはだけてみれば、すっかり血は固まってはいるものの、くっきりと赤黒い線を描く長さ15センチほどの、無惨な筋が肌の上を、真横に走っている。
 ユージィンは、ため息をつき、苦笑を浮かべた。
 この傷跡は残るに違いなかった。
 もっとも、今さら傷の一つや二つ、増えたところでどうということもない。
 幼い頃、ESP研究所で付けられた小さな傷は、至る所に薄く残るし、士官学校時代にむち打たれた傷も、結局、完全には消えずに残っている。リオンに刺された足の傷もくっきりと残っているし、左手の火傷の痕は、おそらくこれ以上薄くはならないだろう。
 そこまで考えて、ふと、右手を持ち上げた。
 その小指に残る小さな傷痕。
 昔、ヴィクトールが噛んだ痕だ。
「君に付けられた傷は、これで二つ目か」
 ユージィンは、まるでそこにヴィクトールがいるかのように、苦笑しながらつぶやいた。
 そして、目を閉じ、ゆったりと椅子の背もたれに身を預ける。
 やがて、その唇に、緩やかに微笑みが浮かんだ。
「ヴィクトール……君は、相変わらず可愛いね。あんな言葉を聞かせてもらえるとは、ね」
 微笑みが深くなり、ユージィンは耐えきれなくなったように、くすり、と笑った。
「私が君を忘れる?そんなことがあるわけがないだろうに・・・・ばかだね、君は」
 ユージィンは、目を開き、机の上に光るペーパーナイフを見つめた。
「こんなことをしなくても、だいじょうぶだよ」
 やがて、その唇から小さな笑い声が漏れる。
 そして、ユージィンはしばらく、いかにも楽しげにくすくすと笑い続けていたのだった。

END

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