日だまりの中で 6

「…ヴィクトール…!」
 息をきらせたユージィンが言い、後ろで足を止める。
 ヴィクトールが振り返ると、ユージィンが苦しそうに、両手を両ひざに当てるようにして息を喘がせていた。
   いつの間にか、寮からだいぶ離れ、士官学校の堂々とした校舎が目前に見える辺りまできていた。
 上級生たちが追いかけてくる気配は、もちろんない。
 ユージィンは大きく息をついて、草の生えた地面にごろりと転がった。
「君、走るの、速すぎだよ」
 そういうと、苦笑してヴィクトールを見上げた。
「しかも、あんなに走って、なんで平然としてるんだ」
 ユージィンの方は、かなりきつかったらしく、せわしない息に、胸が激しく上下していた。
「まあ……ユーベルメンシュだからな」
 ほかに言いようがなく、ヴィクトールは、つぶやくように言った。
 そして、ユージィンの隣に腰を下ろす。
「くやしいなあ……まったく」
 ユージィンの声に、ぼやくような響きが混じる。
「君は君で言い分はあるんだろうけど、やっぱりその身体は羨ましいよ」
 ヴィクトールは、肩をすくめた。
 少し前、ユージィンにユーベルメンシュのことを話したことがあった。
 あれはたしか、ユージィンとの付き合いを母親に厳しく叱責されたときのことだ。
 すべての能力において、普通の人間を遥かに凌駕し、まるで、人間の理想型のように思われているユーベルメンシュ。
 だが、現実はそのようなものではない。
 たしかに、脳も活性化され、肉体も強化され、普通の人間よりさまざまな点において、優れていることは否定しない。
 だが、そのかわり、人間とはちがう弱点もまた、持ち合わせる。
『おれたちはたくさんの弱点を持っている』
 あのとき、ヴィクトールは、ユージィンに言った。
『半強制的に進化させられた不完全な、中途半端な作品にすぎない』と。
 それまで、あんなことを他人に話したことはなかった。
 理解されようとも思っていなかった。
 だが、ユージィンには話したかったのだ。話して、そして、自分のことをわかってほしかった。
 そしてあのとき、ユージィンは、ヴィクトールには弱点があるようには思えない、と言った。中途半端だと言うがそれでもたいしたものだと思う、と。
 だがユージィンは知らない。
 ヴィクトールがさすがに言うことができなかった、本当のユーベルメンシュの欠陥、ユーベルメンシュであることの恐ろしい落とし穴を知らないのだ。
「さっきも、本当に美しかったよ。まるで野生の獣みたいだった」
 ユージィンが、うっとりしたような声で続けた。
「まさか、上級生6人をあっという間に叩きのめすなんてね。君が自分の姿を見れないのが、残念なくらいだよ」
 ユージィンは熱心に言った。 
 その青緑の瞳は、熱っぽく潤み、美しく輝いている。
 ユージィンは、美しいものが大好きだ。
 そして、心底、美しいと思うものに出会うと、いつもこんな風に、我を忘れて夢中になり、手放しで称賛する。
 それはわかっていたが、ヴィクトールはやはり素直に喜べなかった。
 無言のまま、手近にあった草をむしりとり、投げ捨てた。
 ふと、ユージィンの顔に、困惑したような色が浮かぶ。
 彼は身体を起こすと、ヴィクトールの顔を心配そうにのぞきこんだ。
「どうしたんだい?気分でも悪いのかい?」
「……誉めてくれるのはありがたいが、ユーベルメンシュなら当然のことだからな」
 気付いたら、言葉は口から滑り出していた。
 言ってしまってから、後悔する。
 案の定、ユージィンの顔が曇るのを見て、ヴィクトールは心の中で舌打ちした。
 彼は何も悪くない。
 普通の肉体しか持たない者からすれば、ユーベルメンシュが憧憬の的になるのは当たり前のことだ。
 だからこそ、ブルー・ブラッドはユーベルメンシュの開発に心血を注ぎこんできたのだし、誰もがユーベルメンシュの子供を欲しがるのだから。
 悪いのは、おれだ。
 これでは、わけのわからないことを言って、駄々をこねる子供と同じではないか。
 ヴィクトールは、吐息をついた。
「すまない。こんなことを言うつもりじゃなかった」
 ユージィンが首を振る。
「おれこそ、考えなしなことを言った。悪かったよ」
 そういうと、申し訳なさそうに、小さく笑った。
 ユージィンは、いつもこうだ。八つ当たりも、苛立ちも、すべてをふわりと受け止める。
 明らかに悪いのはこちらなのに、なにも言わない。
 そして、機敏に気持ちを汲み取り、さりげない優しさで、こちらの気を軽くしようとしてくれるのだ。
 なぜこんなに優しくできるのだろう……。
 そういえば、ユージィンが怒ったところを見たことがないと思う。
 もちろん、冗談で怒ってみせることはある。
 だが、本気で、怒ったところは見たことがない。
 ユージィンでも、誰かを憎むほどに怒ることはあるのだろうか。
 考えてみれば、先ほどの上級生の仕打ちにしても、もっと怒っていいはずだった。
 自分なら、今頃、怒り狂っているのではないだろうか。
 ヴィクトールは、隣にある顔を見つめた。
 どう見ても、その面にはいつもと同じ穏やかな表情しかみられない。
「ん?なんだい?」
 ヴィクトールの視線に気づき、ユージィンが、少し首をかしげた。
「なぜ、怒らない?」
「え?」
 ユージィンが目を瞬く。
「あの連中だ。あんなことをされて、なぜ平気な顔をしている? 」
「…ああ……」
 ユージィンは苦笑すると、ごろりと草の上に寝転んだ。
「まあ……仕方ないかな。ああいうのは、どこでもあるよ」
 のんびりと言うと、草をちぎって投げる。
ヴィクトールは、あきれてユージィンを見下ろした。
「おれが行かなかったら、6人に袋叩きにされてたんだぞ?なぜ、もっと怒らない?」
「……袋叩き?」
 ユージィンが、ちょっと目を見開く。
 その表情に、ヴィクトールは眉を寄せた。
 さきほどの状況は、どう見ても上級生が下級生を呼び出している図だったはずだ。
「……リンチされかけていたんだろう?」
「ああ、まあ、リンチといえばリンチだね、うん」
 ユージィンが歯切れ悪く言う。
 ヴィクトールは、さらに眉を寄せた。
「なんだ、はっきり言え」
 ユージィンは、困ったような顔をした。
「気になるから言え」
 ヴィクトールが鋭く言うと、ユージィンは、肩をすくめた。
「リンチというかね……レイプだよ、彼らの目的は」
「レ……」
 ヴィクトールは、言葉につまった。
 そして、ユージィンのワイシャツの喉元のボタンがいくつかとれ、不自然に、鎖骨のあたりまではだけられていることに気づき、かっと頬が熱くなった。
 次の瞬間、さらに激しい怒りに見舞われ、立ち上がった。
「あいつら……!ぶちのめしてやる……!」
「ヴィクトール、ヴィクトール」
 ユージィンがあわてて身を起こし、いまにも駆け出して行きそうなヴィクトールの腕を掴んだ。
「あれ以上やったら、死人がでるよ」
「なんで怒らないんだ!レ、レイプっ……だぞ?!そんなものをされそうになったんだぞ?!」
「怒ってないわけじゃないよ」
 ユージィンは、とてもではないが、怒っているとは思えない顔で言った。
「でもまあ、わりあい、よくあることらしいしね……」
 ヴィクトールは、あきれ果てて、首を振った。
 自分だったら、そんなことをされそうになったというだけで、憤死しそうだというのに、なぜユージィンはこうも淡々としていられるのかわからない。 
 いらいらと地面に腰を下ろし、手近にあった草をむしりとって投げた。
「なんでそう、いつも、へらへらしてるんだ。だから、つけこまれるんだぞ」
「へらへら……してるつもりはないんだけど」
 ユージィンが、少し傷ついたような顔で、自分の頬をなでた。
 ヴィクトールは、それを無視して続けた。
「おまえも目立つんだから、少しは気をつけろ」
「おれが目立つ?」
 だが、ユージィンは大きな目を見開いてヴィクトールを見つめた。
「だから、あいつらに目をつけられたわけだろう?」
 ヴィクトールがそう言うと、ユージィンは、苦笑を浮かべた。
「彼らはね、べつに、おれが目障りだったんじゃないんだよ。だいたい、彼らは4年だよ。1年の、それも、ブルーブラッドではない士官候補生など目障りでもなんでもない、どうでもいい存在だろうね」
 そこまで言って、ユージィンはおもしろそうな顔でヴィクトールを見た。
「納得できないって顔だね」
「当たり前だ。なら、なぜおまえを呼び出す?」
「おもしろ半分だよ。暇つぶしだね」
 そこで、いたずらっぽくヴィクトールを見やる。
「あの噂、どうも上級生にまで広まってるらしいんだよ。で、もちろん、上級生も、君の事は皆知ってる。クリューガー家の御曹司だからね。で、おれはというと、名門の若さまに取り入って上手くやった辺境コロニー出身の得体の知れないヤツ、ってところかな」
「どいつもこいつも!くだらん連中ばかりだ」
 ユージィンがなだめるように笑う。
「君がそう思ってくれるのはありがたいけど、でも、普通はそう思うんだよ。ところが、どうやらおれが、最近、嫌われて遠ざけられたらしい。飽きられて捨てられたらしい、という噂が流れる。そうなると、おれを呼び出してレイプでもしてやろうか、と思う連中がいたところで不思議はないよ。君とおれがそういう関係だってことになってるらしいからね」
「……あんなくだらん噂を信じる連中がいるなんて、信じられん」
 ヴィクトールは、吐き捨てるように言った。
「たぶん、彼らも噂を信じた、というわけじゃないんだと思うよ」
「どういうことだ」
「つまりさ、あの噂は、ただのきっかけなんだよ。おれは辺境コロニーの出身だろ。なんの後ろ盾も持っていない。つまり、おれに何かあったとして、万が一、それが学校側にバレたとしても、大した問題にはならないんだよ。学校側としては、不祥事が発覚することの方が困るから、闇から闇だ。だから、たとえあの噂がデマで、おれがゲイじゃないとしても彼らにとっては関係ないんだよ。リンチしようがレイプしようが、問題にならなさそうな下級生がいる、それだけなんだよ」
 ヴィクトールは険悪な顔で、また、草をむしりとった。
「……おれの親友だというのは?」
「え?」
「おれの親友だというのは、なんの後ろ盾にもならないのか?」
「なるよ、もちろん。でも、彼らにとっては、君とおれが友人同士だ、なんてことは信じがたいことなんだよ。というより、名門の御曹司の君がおれを相手にする、ということ自体が信じられないことだっただろうね」
 ユージィンは、そこでにやりと笑った。
「だから、君が出てきて、彼らは驚いただろうね。まさか、本当に君が『王子さま』だとは思ってなかっただろうし」
 『王子さま』の言葉に、ヴィクトールが憮然とした顔をすると、ユージィンは楽しそうに笑った。
「いまごろ、戦々恐々としてるだろうね。ヴィクトール・クリューガーを敵に回すつもりなんか、彼らにはぜんぜんなかったんだから。復讐か、退学か、あるいは……」
 ユージィンはくすくす笑った。
「これで、未来は閉ざされた、と思ってるかもしれないね」
 ヴィクトールは、なにも言えなかった。
 今まで、自分がブルー・ブラッドであり、名門クリューガー家の嫡男であることからくる特別扱いや、他人の追従、お世辞に憤ったことはあっても、逆に、ユージィンのような辺境コロニー出身者などが受ける差別については、まったく考えたことがなかった。
 もちろん、母親をはじめとする多くの特権階級の者たちのように、「下々の者」などと蔑んだことなどない。
 そうした考え方は、ヴィクトールがもっとも嫌いなものだったからだ。
 だが、実際に、どんな差別がなされているか、などということは気づきもしなかった。
 ユージィンは、今までもおそらく、そうした差別を受けてきたのだろう。
 ヴィクトールが母親に叱責され、冬期休暇に家に招待できないと言ったときも、ユージィンは、ただいつものように穏やかに微笑んだだけだった。
『それぞれの社会があるのだから、仕方がない』
 と、言って笑っただけだった。
 だがその言葉の裏で、彼は、いままでどれだけ傷ついてきたのだろう……。
「でも、なんで、おれが『お姫さま』なんだろうなあ」
 不意にユージィンが、憤慨したように言った。
 そして、ヴィクトールを見つめる。
「おれの方がまだ背も高いし、年上なんだよ? なんで、君が『お姫さま』にならないんだ?」
 ヴィクトールは、あっけにとられてユージィンの顔を見やった。
 この親友は、ときどき、妙にずれたことを言うことがある。
 だが、不意に顎を細い指ではさまれ、目を見開いた。
「こんなにきれいな顔してるんだし」
 ユージィンが、指でおさえたヴィクトールの顔をじっと見つめ、ぶつぶつとつぶやいた。
「君のほうが絶対、『お姫さま』だと思うんだけどなあ」
「冗談じゃない」
 ヴィクトールは、あわててユージィンの手をふりほどいた。
 無意識のうちに後ずさっていたらしい。
 その様子を見て、ユージィンがぷっと吹き出した。
「そんなに警戒しなくていいってば」
 そしてにやりと笑った。
「もう、キスなんかしないから」
「されてたまるか!」
 ヴィクトールは、思わず、手の甲で唇を覆った。
 ユージィンは楽しそうに笑うと、気持ちよさそうに、大きく伸びをした。
 そのまま、両手を伸ばして、草の上に寝転がる。
「気持ちいいね」
 ユージィンが、幸せそうな声で言った。
 午後の太陽は、まだ高く、日差しは暖かい。
 春の暖かい風が、ときおり草を揺らし、髪をなぶり通り過ぎていく。
 その心地よさに、ヴィクトールも伸びをすると、ユージィンの横に仰向けに寝転がった。
 どこからか、鳥の鳴き声が聞こえる。
 風にのって運ばれてくる甘い香りは、なにかの花の香りだろうか。
 ヴィクトールは、ゆっくりと息を吸い込み、黙って、空を見上げた。
 ユージィンも、気持ち良さそうに、黙って空に目を向けている。
 だが、それは、不思議と気詰まりではなかった。
 こうして、お互いに黙ったままでいても、心地いいのだ。
 離れていた間は、気になって気になって仕方がなかった。
 だが、こうして、隣にいれば、あまりにも自然で、ずっと昔からこうして、二人で一緒にいたような気さえしてくる。
 まだ、知り合って、数ヶ月しかたっていないのに、不思議なことだった。
 なぜ、こんなに自分はユージィンに惹かれるのだろう、と思う。
 はじめは、がつがつしたところがまったくない、その、打算のなさに惹かれた。
 やがて付き合ううちに、その優しさや、懐の深さに、どんどん惹かれていった。
 だが、いまは、そんな理由ですら、どうでもいいような気がする。
 どこが好きなのか、と聞かれても、ヴィクトール自身にもわからないのだ。
 一緒にいると、心地がいい。
 一緒にいるだけで、心が落ち着く。
 それだけだ。
「きれいだね」
 ユージィンが、つぶやくように言った。
「ん?」
「空」
「ああ……」
 午後の空は、どこまでも静かに澄み切った青さをたたえていた。
 ところどころに、浮かぶ雲もまた、静かに漂っていく。
「いつも思うんだけど、不思議だよね」
「不思議?」
「うん。あれはさ、まがいものなわけだろ? 人口的に作りだした母なる地球の空のコピーに過ぎないわけだよね」
「……まあな」
「でも、美しいと思うんだよね」
 ヴィクトールは、隣で魅入られたように空に目を向ける友人の横顔に目をやった。
「本物ではないのは、はっきりとわかってるのに……それでも、どうして、こんなに惹かれるんだろうな」
「……さあ……」
 ヴィクトールは、あいまいに答えた。
 そういうことは考えたことがなかった。
 ヴィクトールにとって、空は空だ。
 まがいものだろうが、コピーだろうが、そこにそうしてある、ということだけが確かなことだ。
 そして、ふと、不安にかられて、隣にある、夢見るような横顔を見つめた。
 時々、この親友がどこを見ているかわからなくなる時がある。
 ちょうど、こんな時だ。
 まるで、どこか遠くに、手の届かぬところへ行ってしまいそうで、いてもたってもいられなくなる。
 そんなことを考える自分が不思議でもある。
 ヴィクトールは、もともと、夢想的な部分は、まったくといっていいほど持ち合わせていない。
 いま、ここに、すぐ隣に、ユージィンがいるというのに、どこかへ行ってしまうなどというばかげたことを思うのは、まったく自分らしくないと思う。
 だが、ユージィンが自分のそばからいなくなる、そんなことを考えただけで不安がこみあげてくる。
 ふと、見る影もなくやせ細った半身の姿が、鮮やかによみがえった。
 胸にこみあげてくる、耐え難い喪失感。
(もう、一人は嫌だ ―――――― )
 一人で生きていけると思っていた。
 だが、ほんとうは寂しかった。
 寂しくてたまらなかった。
 ユージィンが現れなければ、そんなことにも気づかずにいられたのかもしれない。
 だが、ユージィンに出会ってしまった。
 そして、心の許せる友と共にあることの、心地よさを知ってしまった。
 たぶん、自分は、また一人に戻ることに、もう耐えられない。
「……どこにも行くな」
 思わず、ヴィクトールは言った。 
「え?」
 ユージィンの驚いたような目が、ヴィクトールを見つめた。
「ときどき、怖くなる」
 ヴィクトールは身体を起こし、隣で仰向けに転がっているユージィンの顔を見下ろした。
「その目が、なにを見てるか、わからなくなる」
 ユージィンは驚いたように、目をしばたたかせた。
 そして、苦笑を浮かべる。
「べつに、大したものは、見てないよ」
 ヴィクトールは、しばらくユージィンを見つめ、もう一度言った。
「どこにも、行くな」
 ユージィンは、しばらくヴィクトールを見つめていたが、やがて小さな声で言った。
「行かないよ」
「これからも、ずっと一緒だ」
 ヴィクトールは、泣きたいような気分になってささやくように言った。
「……そうだね」
 ユージィンが、そっと答える。
「本当だな」
 そこで、ふと、ユージィンの身体が揺れた。
 笑ったのだ、と気づくのに、少し時間がかかった。
「……なにが、おかしいんだ」
 ヴィクトールは、むっとしてユージィンをにらんだ。
 だが、やさしい微笑みが、ヴィクトールを見返した。
「だいじょうぶだよ。二人とも、軍人になる道は決まってる。そして君は、当然、首席で卒業だから、参謀本部だろう?おれもこのままいけば、落第はしなくて済みそうだし、どちらかといえば、内勤向きだろうから、どこかの本部勤務だろうね。大丈夫、近いところにいることになるよ」
 そこで、にやりと笑った。
「たとえ、君が『もう、うんざりだ』って思っても、ずっと、この顔を見つづけなければいけない、というわけだ」
 ユージィンは、にこにこと笑って、自分の顔を指差した。
「うんざりだ、などと思うわけがない」
「わからないよ? 人の心は、変わるものだよ」
 ユージィンが、冗談めかして言う。
 ヴィクトールは、首を振った。
「おれは、変わらない」
 だが、ユージィンは、ただ、笑っている。
 ヴィクトールは、少しむっとして言い返した。
「おまえは、変わるのか?」
「え?」
「おれの顔など、見たくない、と思うようになるかもしれないと?」
 ユージィンは、目を見開くと首を振った。
「まさか。おれが、君の顔を嫌うようになるわけがない。いつまでも……そうだな、自分が死ぬときまで、君を見ていたいと思うだろうな」
「じゃあ、おれも同じだ。おれも変わらない」
 ユージィンは、やはり何も答えない。
 ヴィクトールは、少し苛立ち、指をユージィンの顔に突きつけた。
「いいか、おれも、死ぬまで、お前の顔を見ていてやる。覚えておけ」
 ユージィンは、やはり黙ってヴィクトールを見つめている。
 だが、ふいに、その顔に微笑が広がった。
 その微笑みは、恐ろしいほどやさしく、思わず、ヴィクトールは目を奪われた。
「……いいよ。覚えておく」
 やさしい笑みを浮かべたまま、ユージィンがささやくように言った。
 ヴィクトールは、なんとも言えず厳粛な気持ちになり、小さくうなずいた。
 ユージィンとともに、これから先の長い年月を歩んでいく、それは、甘美な想像だった。
 5年たっても、10年たっても、ともに歩いていける友がいる、それはなんと甘い未来像だろう。
 ユージィンとなら、それができる。
 ヴィクトールは、疑わなかった。
 もちろん、これから先のことはわからない。
 10年たてば、ユージィンは28才、自分は26才だ。
 お互いに、結婚をして子供もいるかもしれない。
 ふと、ヴィクトールは、目を瞬いた。
 結婚するということは、ユージィンがだれか女性を愛するということだ。
 だが、不思議と心は落ち着いていた。
 自分が、ユージィンに友情以上の感情を持っているのか?
 いままで、恐ろしくて、頭の隅に追いやっていた疑問。
 そうなのかもしれない、と思う。
 自分の感情は、ただの友情を超えているのかもしれない。
 だが、そう思っても、不思議と心は落ち着いていた。
 この自分の気持ちが、友情なのか、それとも友情以上のものなのか、そんなことは、もうどうでもよかった。
 ただ一緒にいたい、それだけなのだ。
 隣を歩き、たわいもないことを話し、笑い合いたい、それだけだ。
 これから先、自分もユージィンも、まったく変わらないわけには行かないだろうと思う。
 だが、自分のとなりにいるのは、ユージィンだ。
 肩をならべて歩くのは、ユージィンだ。
 それでいい。
 ヴィクトールは、かすかに微笑んだ。
「さて、そろそろ、部屋に戻るよ」
 ユージィンが伸びをして、はずみをつけて起き上がった。
 草の上においてあったスケッチブックをとりあげ、立ち上がろうとしたユージィンの右手を、ヴィクトールは、思わず手を伸ばしつかんだ。
「ん?」
 ユージィンが驚いたように振り返る。
「おれの部屋にこい」
 ユージィンが目を見開いた。
「でも……」
 ユージィンが、わずかに口ごもる。
「おまえが後ろで絵を描いていないと、調子が出ない」
 ヴィクトールは、体を起こすと、身軽に立ちあがった。
「だから、こい」
 ユージィンが目を瞬く。
 やがて、ゆっくりと、その頬に、あまりたちのよくない笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。そして、ヴィクトールの顔をにやりとのぞきこんだ。
「そうか、うれしいなあ。やっと君のヌードを描かせてもらえるわけだ」
「なっ……!」
「ありがとう、ヴィクトール、うれしいよ」
 ユージィンがにやにやと笑う。
「なぜそうなる!」
 ユージィンは楽しそうに笑った。
「やっぱり来るな!」
「もう遅いよ」
「自分の部屋に戻れ!」
「いやだよ。ほら、さっきの先輩たちが怖いし」
「うそをつけ!」
 軽く殴りかかってきた手をひょいと避けて、ユージィンが笑う。
 ヴィクトールもまた、笑った。
 
 
END

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