「……まったく、ひまなヤツが多い」
ヴィクトールは、おさまりがつかず、ぶつぶつと言った。
「同感だよ」
ユージィンが苦笑してうなずく。だが、不意に、からかうような目でヴィクトールを見やった。
「よりによって、君をそういう噂の対象にするとはね」
「どういう意味だ」
「だって、君は、どう見たって、そういうことに興味なさそうじゃないか」
そう言って、くすくすと笑う。
ヴィクトールは、むっとした。
「そんなことはない」
「へえ、そう?」
ユージィンが、にやりと笑って、身を乗り出した。
「どう興味があるって?言ってみなさい、クリューガー君」
「どうって……」
ヴィクトールは、思わず、言葉につまった。
「ん?お兄さんが聞いてあげるよ」
ユージィンが、ベッドの上をにじり寄ってくる。
「誰がお兄さん、だ!」
「だっておれの方が、二つも!、年上なんだから」
ユージィンは、にこにこと自分を指さした。
「ほらほら、おれを本当の兄と思って」
「思えるか!」
「いいからいいから。はい、初めてキスしたのはいつのことですか?」
鉛筆をマイクのようにして突きだしてくるのを、ヴィクトールは、邪険に押しのけた。
「もしかして、キスの経験ないとか?」
意地悪く笑ったユージィンが、顔をのぞきこんでくる。
ヴィクトールは、むっと、その顔を睨んだ。
「それくらい、ある」
「へーーーーーー」
「なんだ、疑ってるのか?」
「疑ってなんかいないよ」
ユージィンは、また、にやにやと笑った。
「いつ?」
「…………十一」
「えええ?!」
とたんに、ユージィンは、素っ頓狂な声を上げた。
「ほんとに?そんな早く?誰と?」
大きな目をさらに大きくして、身を乗り出してくる。
その反応に、ヴィクトールはたじろいだ。だが、今さら、言った言葉は取り消せない。
「誰だって、いいだろう」
「よくないよ。君がはじめてキスした相手だよ?誰だっていいわけがないじゃないか」
ユージィンが大まじめな顔で切り返してくる。
「なんだ、その理屈は」
「いいから。誰と?あ、例の令嬢?」
「令嬢?」
「うん、ほら、なんだっけ。この前、話してた……」
「アンゲリカ?」
「そうそう、アンゲリカ嬢」
「まさか」
「じゃあ、誰?」
ユージィンは、あくまでも聞きたいらしく、瞳をきらきらさせて迫ってくる。
「……なんでそんなに知りたいんだ?」
ヴィクトールは、あきれて言った。
「だって!この君が!だよ?十一才の時に、さっさとキスを済ませてる。これは、相手が誰か知りたくなって当たり前じゃないか!」
ユージィンは妙に熱を込めて言い切った。
ヴィクトールは、疑わしげに、親友の大きな目を見つめた。なんとなく、からかわれている気がしないでもない。だが、その青緑の瞳は真剣な色をたたえて、こちらに向けられている。
ヴィクトールは、とうとう、ユージィンの迫力に負けた。
「……わかった、言うから……」
「うんうん」
「……アルトゥール……だ」
ユージィンが目を瞬く。
「え……それって……」
「……半身だ」
ユージィンの目がさらに大きくなり、あっけにとられたように、唇が開いた。
次の瞬間、その唇が歪み、ぷっと吹き出した。そして、そのまま、ベッドに倒れ込みむと、くつくつと笑い始めた。
ヴィクトールは、むっとして言った。
「しつこく聞いたのは、おまえだ」
「ごめんごめん」
あやまりながらも、ユージィンはひたすら笑い続ける。
「そんなに笑うな。怒るぞ」
「ごめん。でもさ……」
「なんだ」
「だって、ファーストキスの相手が兄弟って……」
「兄弟じゃない」
ヴィクトールは、むっつりと訂正した。
「ああ……ええと、半身?」
「そうだ」
「でもさあ、要は双子みたいなものだろう?」
「……まあ……」
「また、なんで、キスなんか?」
「さあ……?」
「さあって、なんだい、それ」
また、ユージィンが笑い出す。
なぜ。
そうだ、なぜ、アルトゥールとキスなどしたのだったか。
たぶん、きっかけは、たわいもないことだったはずだ。アルトゥールは、よく、そうやって、自分を驚かせては喜んでいた節があった。だから、たぶん、そんなことだったのだろう。
目の前で屈託なく笑う友人を見つめながら、遠い記憶を探る。
だが、不意に、脳裏に鮮やかに浮かびあがったのは、十一才の少年の姿ではなかった。
少し大人びた、そして、見る影もなくやつれた半身の顔―――。
胸の奥に、ぴりりと痛みが走った。
(……あ……)
痛みが、一瞬のうちに、耐え難いまでに膨れあがる……まるで、実際に心臓をナイフで切り裂かれたような、鋭い痛み。
同時に、心を塗りつぶす、恐ろしい喪失感。
アルトゥール ―――。
記憶の中で、半身が、ゆっくりと目を開く。
ブルー・グレイの瞳が、暗闇に、冴え冴えとした光を放ち、ヴィクトールを見つめる。
息ができない。
自分のものとまったく同じ色合いを持つ瞳が、透き通るような光を浮かべて、まっすぐに見つめてくる。
なぜ、この目を、忘れていられたのだろう。
こんなにもはっきりと覚えているというのに、なぜ、忘れて・・・。
ふと、腕を強くつかまれて、ヴィクトールは、我に返った。
すぐ間近で、美しい瞳が自分をのぞき込んでいる。
強い既視感。
だが、その瞳は、ブルー・グレイではない。
あの、冷たく、だが、せつないほどの想いを込めて自分を見つめていた瞳ではない。
どこまでも明るく澄みわたり、一片の暗さも持たない、青緑の瞳だ。
「ヴィクトール?」
心配そうにのぞきこんでくる、優しげな顔を見つめる。
「どうしたんだい?」
「……ああ……」
かすれた声が唇から漏れる。
ようやく、息ができるようになり、ヴィクトールは、深く息をついた。
「……なんでもない」
「顔色、悪いよ?」
「いや……本当に……なんでもない」
ヴィクトールは、つぶやいた。
わずかに首をかしげるようにして、ユージィンが見つめてくる。だが、何を思ったか、不意に優しく微笑んだ。
くもりのない笑顔。
愛する半身が、こんな笑顔を浮かべたことがあっただろうか。
幼い頃には、確かに、あったはずだった。二人で、たわいもないことで、よく笑い転げていた。だが、いつの頃からか、半身は笑わなくなった。それは、自分のせいだった。そして、また、自分も……。
「急に黙り込むから、びっくりしたよ」
柔らかい声が、また、ヴィクトールを現実に引き戻す。
そうだ、この笑顔があるから、忘れていられたのだ。
ユージィンの存在が、光をくれる。この心に深く深く刻みこまれた、一生、背負っていかなければならぬ闇を照らしてくれるのだ……。
ヴィクトールは、深く息をすいこみ、強ばった頬に、笑みを浮かべた。
「昔のことを思いだしていた」
ユージィンが、問いかけるようなまなざしを向けてくる。だが、不意に、その笑顔が、からかうような色を帯びた。。
「で、キスのこと、思いだした?」
ヴィクトールは、笑った。
「いや、それは、やっぱりよく覚えていない。アルトゥールは、ときどき、おれにはわからないことを言い出したり、やったりしたから、それもたぶん、そんなことだったんだろう」
「ふーん……じゃあ、君は、わからないまま、ファーストキスを奪われたわけだ。かわいそうに」
ユージィンは、にやにや笑うと、手を伸ばし、ヴィクトールの髪をくしゃくしゃ、とつかんだ。
「よせ」
きちんと整えてある髪を乱されて、ヴィクトールは、あわてて手で髪をなでつけた。そして、いかにも楽しげな友人の顔を、軽く睨む。
「そういうおまえはどうなんだ」
「おれ?」
ユージィンは、一瞬、目を大きく開き、そして、はぐらかすように笑った。
「まあ、それなりに」
「なんだ、それは」
ヴィクトールは、むっとして言った。
「人のことは聞いておいて、ずるいじゃないか」
「子供は、知らない方がいいこともあるんだよ」
ユージィンは、にやりと笑った。
「誰が子供だ!」
思わず叫んだヴィクトールに向かって、君、と指を突き出す。そして、ぐいと顔を近づけてくると、にっこりと微笑んだ。
「ヴィクトール君、お兄さんが、いろいろと教えてあげようか」
「だから、誰が、お兄さん……!」
だが、ヴィクトールは、最後まで言えなかった。
なにか柔らかいものに、唇を覆われ、口をふさがれたのだ。
目の前に、ユージィンの顔がある。
わずかに伏せられた瞼を縁取る、長い黒い睫毛が一本一本、はっきりと見えるほど近くに親友の顔がある。
自分の口をふさいだものが、親友の唇であることに気づき、ヴィクトールは目を見開いた。
我に返り、あわてて身体を離す。
だが不意に伸びてきた細い指に、両頬を押さえられ、そのまま引き寄せられた。
「ユー……っ!」
名を呼ぼうとした唇を、またふさがれる。
頬に触れていた指に、そっと耳から顎にかけての輪郭をなぞられ、ヴィクトールは息をのんだ。
触れられている場所から、くすぐったいような気持ちいいような、なんともいえない感覚が沸き起こる。
ヴィクトールはぞくり、と身体を震わせた。
身体が硬直したように、動けない。
もうユージィンの指は、ヴィクトールの頬を押さえてはいない。
そっと耳のあたりをなでているだけだ。
押しのけようと思えば、簡単にできるはずだった。
だが、動けなかった。
ゆっくりと、唇が動いていく。
やさしくついばむように、唇を吸われ、ヴィクトールは思わず身体を震わせた。
やがて……。
触れてきたときと同じように、唐突に、柔らかい唇がはなれた。
熱を帯びていた唇が一瞬で冷やされる。
(あ……)
奇妙な喪失感。
身体が熱い。
すぐ近くにある親友の顔。
じっと見つめてくる大きな目と、わずかに開いた唇に、目が吸い寄せられる。
濡れた唇が、今の行為をまざまざと思い起こさせ、ヴィクトールの心臓がどくん、と大きく鳴った。
と……。
間近にある、ユージィンの唇が、大きくほころんだ。
つづいて、くすくすと笑う声がしたかと思うと、手が伸びてきてヴィクトールの髪をくしゃりとつかんだ。
「かわいいねえ、ヴィクトール君」
からかうような声。
呪縛がとける。
ヴィクトールは、ようやく我に返り、目を瞬いた。
ユージィンが、肩を震わせて笑っている。
ヴィクトールの頬がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「なっ……」
ヴィクトールは、髪に触れているユージィンの手を振り払うと、手の甲を唇にぐいと押し当てた、
「なにをっ……するんだ!」
手の甲でそのまま、口をごしごしとこすって怒鳴った。
「大人のキス、ってやつだよ」
ユージィンは、にやにやと笑った。
「君にはまだ刺激が強かったかな」
「い、いきなり、するから、驚いただけだ!」
ヴィクトールは、ユージィンをにらみつけた。
「そう?」
だが、ユージィンは意に介した風でもなく、にやにやと笑ったままだ。
「君の半身がファーストキス奪った気持ち、わかるよ」
そういうと、ヴィクトールの顔をのぞきこんだ。
思わず、ヴィクトールは後ずさった。
その様子をみて、またユージィンが楽しそうに笑う。
「そんなに警戒しなくてだいじょうぶだよ。もうしないよ」
「あたり前だ!」
「きみって、ほんとうに反応がかわいいんだよね。ついつい、からかいたくなる」
「かわいいとか言うな!」
「怒らない怒らない」
ユージィンは笑いながら、ようやくヴィクトールから身体を離すと、身軽に立ち上がった。
両手をつきあげて、思いきり伸びをする。
「さてと。ちょっと図書室に行ってくるよ」
軽い調子で言って、シーツの上に転がっていたスケッチブックと鉛筆を拾い上げる。
「またあとで」
ユージィンが、にっこりと笑って手をひらひらと振る。
ヴィクトールは、拍子抜けしたような、ほっとしたような複雑な気分で、ドアに向かって歩いていく痩せた背中を見送った。
が、ドアノブに手をかけたところで、ユージィンがなにかを思い出したとでもいうように振り返った。
「ああ、ヴィクトール。すぐに部屋から出ないようにね」
「え?」
「顔、真っ赤だよ?」
そう言って、にやりと笑う。
「………!だれのせいだとっ……!」
ヴィクトールは、手元にあった枕をドアに向かって投げつけた。
ユージィンは、投げつけられた枕を、ひょいと避けると、楽しげに笑いながら部屋を出て行った。
日だまりの中で 2
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