日だまりの中で 1

 さらさら、と鉛筆を走らせる音が響く。
 もう聞き慣れた、親友が絵を描くときの音。
 ヴィクトールは、背中でその音を聞きながら、机にむかって今日の復習に取り組んでいた。
 いつものことなので、もう気にもならない。
 そんなに自分ばかり描いていて飽きないのだろうか、とは思うものの、ユージィンの様子を見れば、そんなこともないらしい。
 今日も、授業のあと、スケッチブックを片手にヴィクトールについて部屋までくると、その辺のベッドの端にあぐらをかいて座り込み、さっさと鉛筆を走らせ始めたのだ。
口では、たわいもないことをしゃべりながらも、その左手が器用に動いて、真っ白な紙にヴィクトールの姿を写し取っていく。その姿はいかにも自然で、ヴィクトールも、そんな親友にかまうことなく、机に向かうと勉強を始めたのだった。
 考えてみれば、いつもこうだった。二人で一緒にいて、何をしている、ということもない。ただ、お互いが勝手に好きなことをしているだけだ。
 なのに、そこには、なんともいえない穏やかさと心地よさがある。こうして、一緒にいるというだけで、なにか心満たされるものがあるのだ。
 これは不思議なことだった。
 基本的に、ヴィクトールは、一人でいることを好む。もっとも、他人がそばにいようといまいと己のペースで行動するが、やはり、他人の存在がうっとおしいことに変わりはない。そんなわけで、他人と一つの部屋をわけて生活する士官学校での日常は、決して居心地のいいものではない。
 だが、相手がユージィンとなると別なのだ。
 まるで、一人でいるかのように気を遣わず、勝手気ままに時間を過ごせる。それでいて、ふと目をあげた瞬間に、すぐそばに、その見慣れた慕わしい姿を見ると、とたんに胸に、なんともあたたかい感情がわき起こってくる。
 それは、今まで、ヴィクトールが感じたことのない種類の感情だった。
 そして、そのたびに思うのだ。たぶん、これが、「幸福」というものなのだろう、と。
 ヴィクトールは、復習を終え、次回の予習もあらかた終わらせると、ぱたんと教科書を閉じた。そして、別の科目に取りかかろうと、机の前の本棚に手を伸ばす。
 が、ふと、気を変えて後ろを振り向いた。
「何を描いているんだ?」
「ん? 君だよ」
 ベッドに座りこんだままのユージィンが、柔らかい声で答える。
 だが、その声は、いつもに比べ、どことなく上の空だ。
「それは、わかるが……後ろから、何が見えるんだ?」
「背中」
「……背中なんか描いて、おもしろいのか?」
「おもしろいよ」
 ユージィンの受け答えは短い。
 おそらく、没頭しきっているのだろう。
 ヴィクトールは、肩をすくめ、そのまま勉強に戻ろうとしたが、ふと、ユージィンが姿勢を変えた瞬間、スケッチブックの絵が目にはいった。
 その瞬間、ヴィクトールは、目を見開いた。
 そこには、確かに、自分のとおぼしき背中が描いてある。だが、どうみても、その背中は、何も身にまとっていないのである。
「ユージィン!」
 ヴィクトールは、真っ赤に頬を染めて叫んだ。
「なに?」
 ユージィンが、驚いたように顔をあげる。
「なんだそれはッ!」
 ヴィクトールは叫んだ。
「え……だから、君の背中」
 ユージィンは、あっさりと答える。
「なんで、服を着てないんだッ!」
「え? ああ、だって、いつもシャツ姿だから、たまには違うのを……」
 しまいまで言わせず、ヴィクトールは、スケッチブックに手を伸ばした。
 だが、ユージィンは素早かった。ひょいと手を上げ、ヴィクトールの手から逃れる。
「そんなもの描くな!よこせ!」
「いいじゃないか」
「よくない!」
「だって、苦労して描いたんだよ?」
「なにが、苦労だ!ただ、そこに座って、描いてただけだろうが!」
「ちがうよ」
 ユージィンは、口をとがらせた。
「だって、君、脱いでって言っても、脱いでくれないだろ?」
「当たり前だ!」
「しょうがないから、シャワー室でよく見ておいて、それで……」
「……ッ! そんなことするな!」
「いいじゃないか。男同士なんだし」
「そういう問題ではない!」
 ヴィクトールが椅子から立ち上がるのを見ると、ユージィンは、スケッチブックを抱えたまま、ベッドの上を逃げた。
 だが、一瞬早く、ヴィクトールの手がユージィンの腕をつかんだ。
「わ!」
 ユージィンが勢いあまって、ベッドの上に倒れ込む。
 ヴィクトールは、すかさず、もう片方の手を伸ばし、スケッチブックをとりあげようと覆い被さった。
「おとなしく、よこせ!」
「いやだよ」
 ユージィンも負けてはいず、さっと、スケッチブックを身体の下に隠す。
「よ・こ・せ!」
「いやだってば」
 その時だった。
 ガチャリ、と音がし、ドアが開いた。
「………あ………」
 ドアのところにいたのは、ヴィクトールと同室の士官候補生だった。
 驚いたように目を見開き、口をぽかんと開けている。
 だが、次の瞬間、その頬が見る間に赤く染まった。
「……あ……す、すいません!……だ、誰もいないと……!」
 そう言うと、いかにもあわてた様子で、ドアを音を立てて閉めた。バタバタと廊下を走っていく足音が、部屋の中にまできこえてくる。
「なんだ、あいつは……」
 ヴィクトールは、憮然としてつぶやいた。
 確かに、ノックもせずにドアを開けたのは無礼だが、なにも、あんなに驚いて逃げるように去っていくことはないだろうに。
「変な奴だな」
 だが、ふと視線を感じて、目を下に向けと、じっとこちらを見上げている青緑の瞳と、真正面からぶつかった。  ユージィンは、ベッドに寝転がったまま、上目遣いにヴィクトールを見上げていた。
 その、何かを言いたそうな表情に、ヴィクトールは眉を寄せた。
「なんだ?」
「……君、ほんとに、気が付いてないのかい?」
 その言葉の意味を図りかねて、ヴィクトールは、さらに眉を寄せた。
「……なにに?」
 ユージィンは、一瞬、まじまじとヴィクトールを見つめ、だが、不意に深いため息をつくと、天井に目を向けた。
「……なんだ?」
「あのね、ヴィクトール、いまのね、絶対、誤解されたよ?」
「誤解?」
「そう。わからない?」
 ヴィクトールは、しばし考え、首を振った。
「きみ、もしかして、あの噂も知らないのかい?」
「噂?」
「おれと君の噂」
「……なんだ、それは」
 ユージィンは、もう一度、ため息をついた。そして、ヴィクトールを見つめると、言いにくそうに口を開いた。
「あのね……おれと君が、そういう関係だっていう噂」
「そういう……?」
 ヴィクトールは、絶句した。
 いま、ユージィンはなんと言った?
 そういう関係?
 さすがに、その言葉の意味がわからぬほど、子供ではない。
 とは言うものの……。
「そういう……って、つまり……」
 ユージィンが、困ったような顔でうなずく。
「まあ、だから……きみとおれが、キスしたり……抱き合ったりしてる……っていうことだろうね」
 ヴィクトールは、唖然として、親友を見つめた。
「男同士だぞ?」
 ユージィンは、肩をすくめた。
「まあ、あり得ないことじゃないよね」
「……おれとおまえが?」
「そう」
 開いた口がふさがらないとは、このことだった。
 ヴィクトールは、呆然とつぶやいた。
「なんで、そんなことが・・・」
「さあ……。まあ、うわさってのは、そんなもんだよね」
「おまえ、知ってたのか?」
「まあね」
 ユージィンはそう言うと、苦笑してみせた。
 その笑顔を、ヴィクトールは、信じられない思いで見下ろした。
「なんで、そう、平然としている?」
「平然でもないけど……でも、しょうがないよ。否定して回るわけにもいかないし」
 そこで、ようやくヴィクトールは、自分の格好に気づいた。
 ベッドに横たわるユージィン。
 その身体に、覆い被さるようにしている自分……。
 不意に、かっと、頬が熱くなる。
 あわてて起きあがると、ユージィンから離れ、隣のベッドに腰を下ろした。
「やっと、わかった?」
 ユージィンが、気の毒そうにヴィクトールを見つめた。
「さっきの……」
「うん……どう見ても、だよね」
 ヴィクトールは、力なく首を振った。
 つまりは、さっきの情景は、その妙な噂を裏付ける、決定的な状況証拠というわけだった。
「間が悪かったね」
 ユージィンは、苦笑して言うと、身体を起こし、乱れた前髪をかき上げた。
 だが、不意に立ち上がったヴィクトールに、驚いたような目を向けた。
「どうしたんだい?」
「行ってくる」
 ヴィクトールは、断固とした調子で言った。
「どこへ?」
「さっきのは、違うと説明してくる」
 だが、ユージィンは、あっけにとられたような顔でヴィクトールを見つめた。
「……何を考えてるんだい」
 あきれたようにつぶやく。
「そんなことしたら、余計に怪しまれるよ。言えば言うほど、こういうのは、どつぼにはまっていくんだよ」
「では、どうするんだ」
「こういうのはね、自然に消えるのを待つしかないんだよ。まあ……今ので確実に、あと、半年は消えないだろうけどね……」
「……やはり、行ってくる」
「わー、待った待った」
 歩きだしかけたヴィクトールの腕を、ユージィンは必死でつかんだ。
「だめだってば」
「では、そのままにしておくのか!」
「そうするしかないよ」
「だが、そんな妙な噂、腹がたつじゃないか」
「そりゃあ、そうだけど・・・・・でも、どうしようもないんだから。下手なことを言うと、余計に火に油を注ぐことになるよ」
 ヴィクトールは険悪な顔をして黙り込んだ。
「だからさ、普通にしてればいいんだよ」
「普通にって……」
「なにも知らないって顔して。何をどうしたって、うわさを信じたい奴は信じるし、忘れる奴はすぐ忘れる」
「……そうか?」
 疑わしげなヴィクトールにユージィンは、力強くうなずいてみせた。
「そういうもんだよ。それが、一番、いいんだよ」
 ヴィクトールは、なおもあきらめ悪く、何か方法はないものか、と頭を振り絞ったが、何も思い浮かばない。仕方なく、しぶしぶと、ベッドに座り込んだ。

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