扉の閉まる音がして、ユージィンは目を開いた。
男が足早に階段を下りていく音が、薄い壁一枚を通して、はっきりと聞こえてくる。
ここは、エリュシオン25区、その中でも、さらに底辺に位置する、最も治安の悪いスラムだ。こんなところにある、いかにもいかがわしげなホテルなど、要するにベットとシャワーさえあれば事足りる。防音など期待するだけ無駄というものだった。
ユージィンは、殺風景な部屋の真ん中に置かれた、ぎしぎしとうるさい音をたてる古ぼけたベッドの上にうつぶせになったまま、右手にあわただしく突っ込まれたものを、ぼんやりと見つめた。
くしゃくしゃになった紙幣が3枚。
そして、右手のすぐそばのシーツの上に、もう一枚。
最後の一枚は、男が、ユージィンの身体をちらりと見て、投げ出すように置いていったものだ。
おそらく、身体を傷つけたから、ということなのだろう。
ユージィンは、唇をかすかに歪ませた。
今日は運がいい。
たいていの客は、なんだかんだと文句をつけようとすることはあっても、上乗せすることなどあり得ない。
ユージィンは、指をのろのろと伸ばし、4枚目の紙幣も掴んで一緒に握りしめると、開かれたまま閉じることもできずにいた足に、わずかに力をこめた。
そのとたんに、身体の中心に激痛が走る。
何回抱かれても、どうしても痛みはなくならない。
というより、痛みしかないと言った方がいい。
もちろん、ユージィンとて男だ。単純な刺激で快感を得ることはできる。だが、その快感があるからといって、男の身体を受け入れる際の痛みが減るというものでもない。
もっとも、時折ではあったが、ゆっくりとユージィンの身体を馴らそうとする客もいて、そんな時は、痛みは若干減り、快楽と思えるものをかすかに感じることもある。
だが、それだけだ。
最後に身体に残るのは、痛みとねばつくような不快感だけ。
体中から、青臭い匂いが立ち上っているような気がする。
ユージィンは、眉をしかめると、唇を噛んで痛みをこらえながら身体を起こし、立ち上がった。
注ぎ込まれたものが身体から流れ出す異様な感覚に、さらに顔をしかめながらも、手に握った紙幣を服のポケットに突っ込み、よろめきながらバスルームにむかった。
外に出ると、雨が降っていた。
走って行けば、家まですぐだ。
だが、とてもではないが、走れる状態ではない。
ユージィンは、手に抱えたスケッチブックを、濡れないように薄手のセーターの中に押し込むと、ひさしの下をたどるようにして、歩き出した。
やっとアパートにたどり着き、2階の自分の家を見上げる。
だが、その窓に明かりがともっているのを見ると、軽く肩をすくめて身を翻し、元来た道を戻り始めた。
表向きは、母親ということにしている、ユージニーの精神状態は悪くなる一方だった。
コロニーEのESP研究所から一緒に脱出してきてから、3年近くが過ぎている。
一緒に、とはいっても、ユージィンに利用されたに過ぎず、完全に操られていた時期を過ぎてみれば、その大量殺人の事実から目をそらすことは、もとがきまじめなユージニーにはできなかった。そして、日を追うごとに大きくなる、罪の意識にユージニーの心は耐えられなかったのだ。
もうまともに話すこともできず、ユージィンを見れば、異様にしわがれた声でののしり続ける。
べつだん、そんなことで参るようなユージィンではないが、うっとおしいことに変わりはない。
そんなわけで、ユージニーが起きている時は、公園でスケッチをするか、図書館に入り浸るか、と、なるべく家には寄りつかないようにして久しかった。
だが、一番問題なのは生活費だった。
これまでは、ユージニーが働いて、なんとか二人分の生活費を稼いでいたのである。
だが、もう、そんな状態では働くこともできない。残りわずかになったユージニーの蓄えで細々と食いつないでいるという状況だった。
火星は移民には、非常に厳しい社会だ。
それも、25区のようなスラムに流れこんだ移民には。
常に失業者で溢れかえるこの地区で、ユージィンのような未成年の少年に仕事が見つかるわけもない。
公園で道ゆく人の似顔絵を描いて小遣い稼ぎはしていたが、そんな少額の金で生活費をまかなえるわけもない。
そんな状況の中で、自分の身体を金にかえることを思いつくのに、時間はかからなかった。
客を待つ方法も、考えるまでもなかった。
似顔絵を描いていた場所に、いつもより遅くまで座っていたのである。
地面に座りこむユージィンの前で、ゆっくりと日が落ちていく。遊んでいた子供たちが家に帰っていき、そぞろ歩きをしていた若い恋人たちが、仲良く街の方へ消えていき、やがて、公園が、がらりとその様相を変える。
日が完全に暮れるのを待つまでもなかった。
薄闇の中で、すっと近づいてきた男が一人。
あとは、その男についてホテルに行けばよかった。
もちろん、こんなことは、できればやりたくない。
だが、生きていくためには仕方がなかった。
この火星で、生き抜いてやるのだ。
自分の意志に関係なく、誰かに好きにされるのは、もう、ごめんだった。
そのためには、力が必要だった。
それも、誰も太刀打ちできないような、強大な力が。
そのための足がかりを掴むまでは、なんとか、火星都市の底辺で、この、薄汚く、腐臭の漂うようなスラムで、生き抜かないとならないのだ。
どのくらい歩いたのだろう。
ふと、どこからともなく聞こえてきた静かな旋律に、ユージィンは足を止めた。
目をあげれば、広場の向こう側に、大きな十字架を先端にいただいた教会の尖塔が見える。
どうやら、キリスト教の教会のようだった。
不意に吹き付けた風に、身体を震わせ、くしゃみをする。
庇の下を選んで歩いてはいるものの、シャツもセーターも、雨のせいで湿り気を帯び、それが体温を奪っているのだろう。
ユージィンは、鼻をすすると、両腕で身体を抱くようにしてスケッチブックを押さえ、教会の尖塔を目指して歩いて行った。
重々しいドアを開けると、ちょうど礼拝の最中らしく、大勢の人々が、なにか祈りの言葉を唱和しているところだった。
壁面にとりつけられた蝋燭のゆらめきが、集う男女の姿を照らし出し、歌うように繰り返される祈りの言葉が、高い天井に静かに響く。
ユージィンはキリスト教の知識は皆無だ。
だが、こんな夜に礼拝をすることなど、普通はないということくらいわかる。
そこで、ふと、あることを思い出す。
そういえば、今日は12月25日だ。
そうだ、確か、クリスマスといったはずだ。
キリスト教徒にとっては、救世主の誕生を祝う重要な日だったはずだ。
では、これは、その礼拝なのだ。
そこで、ふとユージィンは苦笑した。
12月25日・・・・ということは、自分の誕生日ということだ。
とはいえ、実のところ、自分がいつ生まれたのか、ユージィンは知らない。
というよりも、自分の本当の名前すら知らないのだ。
覚えている最初の記憶は、身体を痙攣させて床に倒れた父親の姿と、半狂乱になって人殺し、化け物と叫び続ける母親の、すさまじい形相だ。
そして、次の記憶は、もう、白一色の研究所と、腕にくっきりと刻印された番号に飛ぶ。
あそこでは、番号でしか呼ばれなかったし、自分の生まれた日など必要ではなかった。
というよりも、誕生日というものに意味があると知ったのは、コロニーEから脱出する時だったのだ。
火星行きの連絡船のチケットをなんとか手にいれ、乗り込もうとした時に、名前と生年月日を書かされたのだ。
とまどった彼に、ユージニーはユージィンという名前を付けた。
そして、誕生日は12月25日。
何の日?とこっそり聞いた彼に、ユージニーは「救世主の生まれた日」と短く答えたのだ。
この自分の誕生日を救世主の生まれた日と同じ日にする、というこの上ない皮肉に、思わず心の内で嗤ったものの、確かに覚えやすい日ではあることに感謝したものだった。
一番後ろの席にいた夫婦がちらりと振り向き、ユージィンに気づくと、小さく微笑んだ。その微笑みに誘われるように、ユージィンは、薄暗い教会に足を踏み入れた。
後ろでドアを閉め、足音をしのばせて空いていた席に腰を下ろす。
固い木の椅子に触れて、痛めつけられた身体に鋭い痛みが走る。
だが疲れ切った身体を、休めることができるだけでありがたかった。
ユージィンは、ほっと息をつくと、スケッチブックを両手で抱きしめ、目を閉じた。
パイプオルガンの、やわらかな、それでいて荘厳な旋律が、耳に心地よい。
やがて、オルガンの音に寄り添うように、人々が静かに歌い始めた。
神のひとり子 降りたまい 我らとともに 世に住みたもう
天のみつかい ひがしの博士 我ひとともに 喜びうたわん このうれしき日を
ああ幼子よ 世の旅路は あらしたけりて なやみ多し
人びと渇き あえぎあえぎて こい求めたり 救いの泉 とこしえの御国
まるで子守歌のような、柔らかい旋律。
ユージィンは、かすかに唇に微笑みを浮かべ、そのまま、ゆるやかに眠りに落ちていった。
END
(聖誕賛美歌・カトリック聖歌集より抜粋)
BGM:Bach/Orchestral Suite3/BWV1068 in D major 「Air」