「……ユージィン」
ヴィクトールは、とうとう、口を開いた。
隣に引っ張ってきた椅子の上に、胡座をかいて座り込んでいる親友を睨む。
「んーーー?」
だが、ユージィンは、一心不乱に鉛筆を走らせながら、顔もあげない。
「ユージィン」
ヴィクトールは、もう一度、呼んだ。
「……なに」
上の空の返事。
そして、ふと顔をあげると、鉛筆をヴィクトールに突きつけた。
「あ、だめだめ。こっち見ちゃだめだよ。横顔、描いてるんだから。はい、前見て」
思わず、言われるままに前を見てしまい、ヴィクトールは舌打ちした。
さらさらと、スケッチブックの上を走る、鉛筆の音がきこえてくる。
ユージィンは、すっかり夢中だ。
こういう時の親友に何を言っても無駄なことは、わかっている。
だが、このまま引き下がるのも、なんとなく、くやしい。
ヴィクトールは、もう一度、顔をユージィンに向けた。
「ユージィン」
「……だから、なに?」
「……気が散るんだ。後にしてくれ」
ユージィンの左手が、ふと、止まった。
そして、いぶかしげな色を浮かべた瞳が、ヴィクトールを見つめた。
「……気が散る?」
ヴィクトールは、軽く肩をすくめた。
「別に、普通に勉強しててくれていいんだよ。勝手に描いてるから……」
「そうは言っても……」
ヴィクトールは、つぶやいた。
ユージィンは、眉を寄せて、ヴィクトールを見つめた。
「そういえば、最近、君、変だね」
「……なにがだ」
「君って、前は、もっと集中力あったよね。集中してると、周りなんていっさい、関係ないっていう風だったじゃないか。おれが隣で何してようと、まったく気にしなかったし。……なのに、このところ、周りが気になって仕方ないみたいだよ。……なんかあったのかい?」
「……別に、何もない」
ヴィクトールは、むっとして言った。
ユージィンは、疑わしそうに、ヴィクトールを見つめた。
「ふーん、なんか怪しいな。なにか、気になることがあるんだろ?」
「ない」
ヴィクトールは、即答した。
だが、ユージィンは、さらに、疑わしげな目をヴィクトールに向けた。
「ますます、怪しい」
「なんでだ!」
「答えが早すぎた」
「ユージィン!」
ヴィクトールは、手を振り上げた。
「わ!」
ユージィンが素早く、椅子から飛び降り、逃げる。
だが、にやりと笑うと、後ろから、ヴィクトールの肩に手を置いた。
「悩みがあるのかな? ヴィクトール君」
そう言って、ヴィクトールの顔をのぞきこんだ。
「な……」
「お兄さんが聞いてあげよう。ほら、言ってごらん」
「ば……! 誰が、お兄さん、だ!」
「だって、おれの方が2つも! 年上だよ」
「関係ない!」
「関係あるよ。ほらほら、言ってごらんよ、ヴィクトール君。お兄さんがアドバイスしてあげるから」
「ユージィン!」
ヴィクトールの手が、また、ユージィンの頭を狙って、繰り出される。
だが、ユージィンの逃げ足の早さは有名だ。
今度も、さっと避けると、いかにも、楽しそうに声をたてて笑い始めた。
ヴィクトールは、憮然として、笑いにむせぶ親友を睨みつけた。
言えるわけがない。
気になっているのは、ユージィン本人のことだ、などとは……。
そうなのだ。
集中力がなくなったわけではないのだ。
その証拠に、同室の連中が何人部屋にいようと、何を話していようと、ヴィクトールの集中力が揺らがないのは、前と変わらないのだ。
だが、それが、ユージィンになると、まったく、だめだ。
気になって仕方がない。
どんなにユージィンがおとなしくしていようと、たとえば、その辺のベッドで寝ていたとしても、だめなのである。
そして、その理由は、明らかだった。
一ヶ月前。
この部屋の、ちょうどこの場所で、ユージィンに、キスされた。
といっても、もちろん、男同士だ。
愛だの恋だのの対象になるわけではないのだから、キスしようとなんだろうと、それが、その先につながるわけもない。
だが、そうかといって、あっさりと忘れてしまうには、強烈すぎる出来事だった。
いまだに、あの時のことを思い出すと、ユージィンの唇の感触が、まざまざと甦るような気がするのだ。
忘れようと思っても、忘れられるものではなかった。
そして、なお、苛立つことには、張本人のユージィンの方は、まったく、あのことを、気にしていないようなのだ。
気にしていない、というよりも、覚えてすらいないのではないか、と思うほど、なんのこだわりもなく、いつもの通り、屈託なくヴィクトールに笑いかけ、まつわりつき、部屋に入り浸っているのだ。
その状況で、自分だけ妙にこだわるのも変な話である。
そんなわけで、ヴィクトールも表面上は、まったく前と変わらず、ユージィンとつき合っていたのだが、ふとした瞬間に、あの時のことを思い出し、そのたびに、なんともいえず落ち着かない気分になるのは、どうしようもなかった。
思い出すたびに、うろたえを必死でポーカーフェイスの下に隠しながらも、内心では、頬が紅潮していないだろうかとハラハラするし、張本人であるユージィンの屈託のなさは頭にくるし、というわけで、心の中は、まったく波瀾万丈な一ヶ月だったのである。
ヴィクトールは、楽しそうに笑うユージィンをじろりと睨んだ。
まったく、妙なことをしておいて、悩みがあるなら、とは、いい気なものだ、と心の内でぶつぶつとつぶやく。そして、机の上に広げていた教科書とノートを閉じて重ねて手に持つと、椅子から立上がった。
「図書室へ行く」
そっけなく言って、ドアに向って歩き出す。
「え、行っちゃうのかい?」
ユージィンは、驚いたように、笑いやめて、ヴィクトールを見つめた。
「もう少しで、描き上がるのに……」
悲しそうに言って、スケッチブックを見おろす。
ヴィクトールは、それを無視して、ユージィンの横をすり抜け、ドアに向った。
後ろで、ユージィンが残念そうに、ため息をつくのがきこえる。
胸が、ちくりと痛んだ。
だが、それもこれも、要はユージィンが悪いんだ、と心の中でつぶやき、胸の痛みを振り切る。
止まりそうになった足を、動かして、ドアへと向う。
「あ!」
不意に、後ろで声があがった。
ヴィクトールは、思わず、振り向いた。
ユージィンは、部屋の中央に立ったまま、こちらを見つめている。
目が合うと、ユージィンが、にっこりと微笑んだ。
「ヴィクトール。忘れ物だよ」
「え?」
ヴィクトールは、眉を寄せた。
手には、ノートも教科書もペンも持っている。
「なんだ?」
「今日は何日だか、知ってるかい?」
ユージィンは、にこにこと言った。
ヴィクトールは、さらに、眉を寄せた。
忘れ物と日にちと、何の関係があるというか。
「……3月14日だろう?」
「そうだよ」
「だから、なんだ」
ユージィンは口をとがらせた。
「イヤだなあ、ヴィクトール。ホワイトデーじゃないか」
「なんだそれは」
「え?君、知らないのかい?」
ユージィンが、驚いたように、目を見開いた。
「バレンタインのお返しをする日じゃないか」
「……そんなもの、知らん」
「……君、今まで、バレンタインのお返しって、どうしてたんだい?」
「そんなもの、したことはない」
「え、ほんとに?」
ユージィンは、ますます目を丸くする。
「でも……君が好きな子くらいには、お返しのプレゼントするだろう?」
「そんなものいない」
「あ、だって、ほら、なんだっけ……アフォルターの…」
ユージィンは、何かを思い出そうとするように、目を宙にさまよわせた。
「アンゲリカか?」
「そうそう。彼女には?」
「彼女は、そういうくだらんことはしない」
「へええ……」
ユージィンは、目を瞬かせた。
「じゃあ、本当に、今まで、したことないのかい? ちょっと、いいな、とか思っても?」
「ちょっと、いいな、って何だ」
「いや、だから、好みのタイプだな、とか」
「そんなものない。だいたい、誰から来たかも知らん」
「そうなのかい? だって、手渡されたら……」
「そんなもの、受け取るか。送られてきたものは、突き返すのも面倒だから受け取るが、中身などいちいち、見ないからな。誰から来たかなど知らん」
「え? 見ないの?」
「興味ないからな。そのまま、執事に、なんとかしろと渡す」
「……そうなのかい?」
ユージィンは、まじまじとヴィクトールを見つめた。
そして、深くため息をついた。
「女の子たちも、かわいそうに」
ヴィクトールは、また、肩をすくめた。
「くだらんことに興味はない。……で、それが、忘れ物となんの関係があるんだ」
「ああ、それはね」
ユージィンは、顔をあげると、にっこりと笑った。
「今日は、ホワイトデーだろ? だから、君から、バレンタインのお返しをもらえたりするのかな、とか思ってみたわけだ」
「お返し?」
「やだなあ、ヴィクトール。ちゃんと、プレゼントあげたじゃないか」
ユージィンが、にこにこと言う。
ヴィクトールは、混乱した頭で、バレンタインの日のことを思い返した。
プレゼント?
だが、まず、とっさに頭に浮かんだのは、あのキス、だった。
かっと頬が熱くなる。
そう、キスされたのは、バレンタインの日だった。
ユージィンが、バカな連中からもらったチョコレートを、そこで食べていたのだ。
そして……。
ヴィクトールは、あわてて、ユージィンから目をそらした。
「プレゼント……って……」
うろたえてつぶやいたヴィクトールに、ユージィンは、唇をとがらせた。
「ひどいなあ。忘れちゃったのかい? あげたじゃないか、そこで」
そう言いながら、ヴィクトールの机を指さす。
ヴィクトールは、真っ赤になった。
つまり、プレゼントとは、あれか?
あのキスのことか?
ということは、ユージィンも、ちゃんと覚えていたということか?
いや、そんなことよりも、プレゼントのお返し、ということは?
つまり、キスのお返し?
気がつけば、ユージィンが、すぐ目の前まで近づいてきていた。
思わず、一歩、後じさる。
「……なんで、逃げるんだい?」
「なんでって……」
「傷つくなあ」
ユージィンは、悲しそうに言うと、また、一歩、足を踏み出した。
ヴィクトールは、つられたように、一歩、下がった。
だが、その足が、何かに引っかかった。
「あ……」
バランスを崩し、後ろに倒れ込む。
だが、そこはユーベルメンシュである。
とっさに伸ばした手が、ベッドに触れ、無様に床に倒れ込む寸前で、身体を支えた。
スプリングがきしみ、ベッドがヴィクトールの背中を受け止める。
ほっと、息をつき、だが、目の前にユージィンの顔があるのに気付き、ヴィクトールは、さらに頬をあからめた。
ユージィンが、床に膝をつき、ヴィクトールの顔をのぞきこんでいる。
「だいじょうぶかい?」
ヴィクトールは、あわててうなずいた。
そして、身体を起こそうとする。
だが、ユージィンが、こちらに覆い被さるようにしているので、起きあがれない。
「……どいてくれ」
ユージィンが、にっこりと微笑んだ。
「だめだよ。ほら、お返し」
ユージィンの手がベッドに伸び、さらに、その顔が寄せられる。
「ユ……ユージィン!」
ヴィクトールは、左腕で、近づいてくるユージィンの身体を押さえた。
だが、ユージィンは、微笑んだまま、唇を寄せた。
「ほら、ほら、照れないでいいから」
「照れてなんか!」
「そう? じゃあ、ほら……」
ユージィンは目を閉じると、さらに、唇を寄せてきた。
「ユージィン!!」
ヴィクトールは、真っ赤に染まった顔で、あわてふためいて叫んだ。
すぐ近くに、ユージィンの顔がある。
その近さに、また、あの時の、ユージィンの唇の感触を、思い出す。
かーーっと、頭に血がのぼる。
と、その時だった。
ユージィンが、目を、ぱっと開いた。
どきり、と心臓が跳ねる。
次の瞬間、ふと、ユージィンの目元がゆるんだ。
やがて、くすくすと笑う声が、ヴィクトールの耳に届いた。
呪縛が切れる。
ヴィクトールは、はっと我に返った。
ユージィンは、くすくす笑いながら、床に座り込み、やがて、声をあげて笑い始めた。
「な、なんだ」
ヴィクトールは、むっとして、ユージィンをにらみつけた。
「なにがおかしい」
「……だって…」
ユージィンは、笑いにむせびながら、ちらりとヴィクトールの顔を見、また、激しく笑い始めた。その目の縁には、うっすらと涙まで浮かんでいる。
「君……君って……」
「なんだ」
「君って、本当にかわいいよね」
「か……?」
ヴィクトールは、あまりの言葉に絶句した。
「だって、顔、真っ赤にして、ほんとうに困った顔してるんだもんなあ」
ユージィンは、くっくっと笑いながら、とうとう、床にうずくまり、抱えた膝の上に顔を伏せてしまった。
その肩が小刻みに震えているところをみれば、笑いが止まらないらしい。
ヴィクトールは、むっとして、その様子を睨んだ。
ユージィンは、ひたすら肩を震わせて笑っている。
「勝手にしろ」
ヴィクトールは、憮然として言い捨てると、ベッドに散乱していた本やノートをかき集め、ベッドから立上がった。
「あ……ごめん。つい……」
ユージィンは、あわてて顔をあげ、きまじめな表情をヴィクトールに向けた。
だが、ヴィクトールと目が合ったとたん、その唇が震え始める。
ヴィクトールは、じろりとユージィンをにらみつけ、背を向けた。
「わかった、わかった……ごめんってば」
ユージィンが立上がる。
「もう、知らん」
「ほんとに、ごめん。悪かったよ。ごめんってば、ね、ヴィクトール」
ユージィンが、後ろから、ヴィクトールの顔をのぞきこんだ。
ヴィクトールは、じろりとその顔を見やった。
確かに、まじめな顔をしている。
だが、ぴくぴくと頬が動くところを見ると、必死で笑いをこらえているのだろう。
「笑ったりして、ごめん」
殊勝げに言うが、言った先から、また、唇が震え始める。
ヴィクトールは、振り向いた。
ユージィンが、目を軽く見開いて、首をわずかに傾げるようにする。
いつもの、ヴィクトールの言葉を待つ時の仕草だ。
唇が、微笑みの形に、ほころぶ。
ヴィクトールは、その瞬間、ユージィンの腕を掴み、ぐいと引き寄せていた。
「え? わッ!」
ユージィンがバランスを崩し、倒れかかってくる。
手に持っていたノートと本を、床に投げ捨て、ヴィクトールは、ユージィンの両腕を強く掴んだ。
「ヴィクトール?!」
驚いたように、ユージィンが声をあげる。
ヴィクトールは、衝動に突き動かされるままに、その、少し開いた口に、唇を重ねた。
「……ヴィク…!」
柔らかい感触。
あの時は、甘いチョコレートの味がした。
今は、チョコレートの味ではない。
だが、ほのかに甘い味がする。
その甘さに惹かれるように、ヴィクトールは、さらに深く口づけ、ユージィンの柔らかい唇をむさぼった。
「…ふッ……」
苦しげな声に、ヴィクトールは、はっと、我に返った。
眉を寄せて、喉を仰向けたユージィンの手が、必死でヴィクトールの胸を押しのけようとしている。
ヴィクトールは、あわてて、唇を離した。
ユージィンが、空気を求めてあえぐ。
その、開いた唇が濡れているのを見た瞬間、ヴィクトールの心臓がどきりと音を立てた。
いま、自分は何をした?
キス。
そうだ、自分から、ユージィンにキスをしたのではないか。
それも、ただ触れあうようなキスではない。
かっと、頬が熱くなる。
あわてて、掴んでいたユージィンの腕を離す。
ユージィンは、頬を紅潮させて、肩で息をしながら、目を大きく見開いて、ヴィクトールを見つめていた。
ヴィクトールは、床の上に散乱していた教科書とノートを掴むと、大股でドアの所までたどり着き、振り向きもせずに部屋の外に出た。
そのまま、脇目も振らずに、一階まで階段を駆け下りる。
そして、寮の端にある図書室まで駆けていき、はっとして、そこで足を止めた。
周りを通り過ぎる上級生が、いぶかしげな視線をなげかけてくる。
ヴィクトールは、心を落ち着けるように、大きく息をつくと、表面は平静を装って、静まりかえった図書室に足を踏み入れた。
空いた席に、とにかく、座る。
心臓が、早鐘のように鳴っていた。
ユージィンは、ヴィクトールの姿が消えたドアをしばらく見つめていた。
足音が、あわただしく遠ざかっていくのに耳を傾ける。
階段を下りていったらしく、ようやく、律動的な足音が、消える。
ユージィンは、小さく吐息をついた。
そして、無表情のまま、前髪をかきあげる。
やがて、ふっと、その唇が歪んだ。
口角がわずかに、上にあがる。
ユージィンの顔にゆっくりと、微笑みが刻まれる。
だが、その表情は、先ほど、ヴィクトールの前で笑いにむせんでいた少年と同一人物とは思えぬほど、大人びたものだった。
頬に、小さな笑みを浮かべたまま、ユージィンはベッドに腰を下ろした。
そして、ごろりと横になる。
やがて、ユージィンは、くっくっと声をたてて笑い始めた。
仰向けにベッドに横たわったまま、肩を揺らして笑う。
しばらく、そのまま、ユージィンは、一人、笑い続けた。
やがて。
「なんてかわいいんだろうね、君は……」
低いつぶやきが、その唇から漏れた。
そして、また、喉の奥でくっくっと嘲う。
唇が、さらに歪んだ。
「かわいそうにね、ヴィクトール」
そのつぶやきは、しかし、妙に優しい響きを帯びていた。
両腕があがり、まるでそこにヴィクトールがいるかのように、そして、その両頬を包み込もうとでもするように、ユージィンの手のひらが、宙を動いた。
「……本当に、かわいそうにね……」
ユージィンの唇が、微笑みにほころぶ。
その微笑もまた、奇妙に優しく、そして美しかった。
END