約束 2

「到着いたしました」
運転手の声と同時に、ツォンが車から降り、後部座席のドアを開ける。
厳重なセキュリティに守られる神羅邸の敷地内であっても、ツォンの目は油断なく辺りに向けられていた。
「副社長、どうぞ」
ツォンの声に軽くうなずき、ルーファウスは車から降りた。
そのまま、執事が扉を開けて待つエントランスに向かう。
「おやすみなさいませ」
後ろでツォンが静かに言うのに、わずかに顔を振り向け、軽くうなずいた。

副社長となったルーファウスの生活は、大学とカンパニーの往復で目の回るような忙しさになった。
とはいえ、カンパニーですぐに何かの仕事がまかされた、というわけではない。
それよりも、顔見せの意味合いの強い仕事が多かった。
だがそれも、これからの自分のためには非常に重要な仕事であることがわかっているだけに、おろそかにはできない。
カンパニーの重役たちはもちろん、初めて会う財界、政界のお偉方、そしてその夫人たち、マスコミ関係者、出会う全ての
者たちに、自分を印象付けなければならなかった。
それも、ただの神羅の跡継ぎ息子、ではなく、ルーファウス神羅として、だ。
常に緊張し、気を張る毎日。
いつの間にか、副社長に就任してから一ヶ月が過ぎていた。

「おかえりなさいませ」
ルーファウスを出迎えた執事が言い、扉を後ろで閉める。
「お食事は、ダイニングで召し上がりますか?それともお部屋に?」
「親父は?」
「本日は、外でお召し上がりになると」
いつものことだった。
それに、べつに、一緒に食事をしたい、と思うわけでもない。
ただ、父親がいるのに、挨拶にも行かないとなれば、機嫌をそこねる。
それで、聞いたまでだった。
「部屋に運んでくれ」
「かしこまりました」
執事がうやうやしく頭を下げる。
車の発進する音がドア越しに聞こえる。
ルーファウスは、小さく吐息をつくと、階段を上がり自室へ向かった。

自室の応接間にセッティングされたテーブルで、一人、夕食を食べる。
これは、ここ数年のルーファウスの習慣だった。
もっとも、父親と一緒に食事をとるときは、ダイニングルームで食べる。
だが、一人のときは、必ず自室で食事を取った。
幼いときから、ルーファウスはダイニングルームが嫌いだった。
神羅邸のダイニングルームは、20人程度ならば余裕で入れるほどの、天井が高く、広々とした豪華なものだ。
それに加えて、煌煌と明かりがきらめき、温度調節は完璧に快適に保たれ、常に居心地のよく整えられていた。
だが、幼いルーファウスにとって、その部屋は、あまりにも大きすぎ、座っていると落ち着かないことこの上なかった。
それに、自分の使うナイフやフォークのかすかな音が、高い天井に響くのだ。
その音は、とても冷たく、空虚な響きをしており、聞いていると怖くてたまらなくなってくるのだった。
そして、ある夜のこと。
あれは、確か5歳か6歳か。
その夜、ミッドガルはひどい風と雨に見舞われ、大規模な停電が起きた。
父親はいつものように会食で不在だったため、ルーファウスは一人で食事を取っていた。
そして執事が、給仕のためにキッチンの方へ下がっていた時に、その停電は起きた。
いきなりダイニングルームが暗闇に包まれた。
広大な庭に面した大きな窓を、激しい風がガタガタと揺らし、大粒の雨が打ちつける。
ひっきりなしに雷がとどろき、そのたびに地面が揺れた。
稲妻が空を切り裂くのが、明かり取りの天窓からはっきりと見える。
暗闇に包まれたダイニングルームに、たった一人残されたルーファウスは、恐怖のあまり、動くことはもちろん、叫ぶこともできなかった。
もっとも、そこは神羅の邸宅だ。
自家発電も完備しており、停電などの際には、すぐに自家発電に切り替わるようになっていた。
つまり暗闇の中にいたのは、1分か2分、おそらくそんなものだったはずだった。
だがそれでも、ルーファウスにとっては、永遠に続くかと思われたような、恐ろしい時間だった。
硬直したまま動けなかったルーファウスの前で、ダイニングルームのドアが勢いよく開かれる。
「ルーファウス様…!」
廊下に飾りとして置いてあったキャンドルを手に入ってきたのは、ツォンだった。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ってきたツォンの手にしがみつく。
その手は、自分でも驚くほど震えていた。
「遅くなってすいません」
ツォンの手が、そっと震える手に重なった。
あたたかい手にほっと吐息をつく。
「すぐに明かりが点きますから。大丈夫ですよ」
その言葉通り、それからまもなく、ダイニングルームは、また煌々とした明かりに満たされた。
だが、そのことがあってから、ルーファウスはダイニングルームで一人で食事を取ることができなくなった。
どうしても、食事が喉を通らないのだ。
執事から報告を受けた父親に厳しく叱られたものの、食べられないことにはどうしようもなかった。
そこで白羽の矢がたったのがツォンだった。
ツォンは、それまでは別室で食事を取っていたが、プレジデントの命令で、ルーファウスと共にダイニングルームで食事を取ることになったのである。
ルーファウスにとってそれは、小躍りするほど嬉しいことだったが、ツォンにとってはとまどうことだったのだろう。
初めは居心地悪そうにしていたツォンだったが、やがて、次第に慣れ、食事をしながらさまざまな話をしてくれるようになった。
それは楽しい時間で、大嫌いだった食事の時間が、心待ちにするほど楽しみなものになった。
だが、それも長くは続かなかった。
ツォンが出て行ったからだ。
そして、ルーファウスは、また一人になった。
もっとも、ツォンとの楽しい時間を過ごしたせいだろう。
また以前のように、ダイニングルームで食事を取ることもできるようになっていた。
だが、あの部屋が嫌いなことには変わりがなく、そして、食事の時間はまた、空虚でつまらないものになった。
そして、成長するにつれ、次第に父親があまり細かいことにうるさく言わなくなったのをいいことに、一人のときは、必ず自室で食事を取るようになったのだった。

書斎に移動し、食後のコーヒーを飲みながら、端末で今日の夜のニュースをチェックする。
しん、と静まり返った自室。
居心地のいい、自分の部屋だ。
だが、ルーファウスは眉を寄せる。
最近、壁掛けのレトロな時計の秒針の動く音が、いやに耳につくのだ。
心地いいはずの静けさが、耳に痛くすら感じる。
(……疲れているのか…)
椅子の背もたれに寄りかかり、目を閉じ、小さく吐息をつく。
そして、いつの間にか、ルーファウスは眠りの中に引き込まれていった。

『ルーファウス様……具合はいかがですか』
優しい声がかけられ、ルーファウスはそっと目を開けた。
ルーファウスは、あまり身体が強い方ではなく、時折体調を崩した。
そんなときは、決まって熱を出し、咳が止まらなくなった。
身体はだるく、咳はつらい。
だが、ひそかな楽しみがあった。
体調を崩し、ベッドに寝ていると、ツォンがベッドサイドまで来てくれるのだ。
普段は、ツォンは決して、ルーファウスの自室には入らなかった。
おそらくそれは、使用人としてのけじめだったのだろう。
部屋に入り、こまごまとルーファウスの世話をやくのは、執事だった。
もっとも、神羅家の執事はよくできた人物で、ルーファウスのことも、とても大切にしてくれた。
そんな執事のことだ、ツォンがルーファウスの部屋に入ったからといって、見咎めるようなことはなかっただろう。
それでも、ツォンは、きちんと線を引き、決してその己で引いた線を越えることはしなかった。
ルーファウスの部屋のドアのところまで送ってくれはしても、決して、中には足を踏み入れない。
だが、こうしてルーファウスがベッドから起き上がれないときは別だった。
いつもは、居間で一緒に読む本をベッドまで持ってきて一緒に読んでくれる。
そして、咳き込めば、温かい手が背中を優しくさすってくれるのだった。
『風邪をひくのは、嫌いじゃない』
咳き込みながら、そう言ったルーファウスに、ツォンが問いかけるようなまなざしを投げる。
『おまえが、こうしてずっとついていてくれる』
ツォンが、少し驚いたようにルーファウスを見つめる。
だが、ふと、その目が優しく細められた。
『お風邪などひかれなくても、おそばにいますよ』
『嘘だ』
反射的にルーファウスは言っていた。
そのとたん、ツォンの顔が、今の、タークスのツォンのものになった。
『……副社長…?』
『卒業したら、ずっとそばにいると言った』
ツォンが困ったような表情を浮かべる。
あのときの顔だ、と思う。
自分の元から去ったときの。
『大人になってもずっと、と……!』
(何を言っているんだ、俺は)
あまりの醜態に、頬が熱くなる。
(バカなことを言うな)
だが、いったん動き出した唇は止まらなかった。
『………どうせ、近くにいないなら………よかったのに……」

ハッとして、目を開く。
だがそこにはツォンはおらず、ルーファウスは室内に一人だった。
(夢、か)
いつの間にか、デスクの椅子で眠ってしまっていたらしかった。
大きく吐息をつき、舌打ちをする。
ばかげた夢を見た自分に腹が立っていた。
この一ヶ月、ツォンとは、ほぼ毎日、顔を合わせていた。
どうもツォンがタークスの中でも、ルーファウス付きのような立場になっているようで、出社の時は必ず、ツォンが迎えに来たからだ。
だが、あの初日以来、会話らしい会話はしていなかった。
ツォンの挨拶にうなずき、その誘導に従って移動するだけの毎日だ。
最初の数日はツォンの存在が気になり、居心地の悪さがなかったとはいえない。
そして、そんな自分に苛立った。
だが、それも慣れた。
毎日のあまりの忙しさに、余計なことを考えている暇はなかった、ということもある。
それに、幼い頃から常にSPが傍らにいる生活を送ってきたルーファウスだ。
ルーファウスにとってSPは空気のような存在だ。
ツォンだと思うから気になるのであって、SPと思えば、気にならなくなった。
だから正直に言えば、なぜ、こんな夢を見たのか不思議だった。
ツォンと過ごした日々は、もう過去のものだ。
あのときのツォンも、自分も、もうすでにいない。
ルーファウスは軽く頭を振って、立ち上がった。
疲れているのだ、と思う。
バスルームに向かおうとして、ふと足を止める。
あの夢の中で、最後、自分は何を言おうとしたのか。
その言葉は、どうしても思い出せなかった。

2014年10月5日 up

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