全身が映る姿見の前で、背筋を伸ばす。
鏡に映る、白いスーツを身にまとった自分の姿を見つめ、ルーファウスは大きく息を吸った。
副社長の辞令を父から受け取ったのは一週間前のこと。
今日は新年度の初日、ルーファウスの初出社の日だった。
この日がくることは、もう何年も前から予想してはいた。
そしてこの日のために、ルーファウスはすべての準備をしてきたといっていい。
神羅カンパニーの社長の一人息子。
傍から見れば、後継者となるのは当然で、能力があろうとなかろうと、その地位は揺らぎない、と思えるのかもしれない。
だが、ルーファウスには、父親がたとえ一人息子であろうとも、能力がなければばっさりと切る人間であることはよくわかっていた。
これまでのところ、ルーファウスは父親の期待を裏切ってはいない。
成績は常に優秀で、15歳にしてすでに大学に入学し、経営学、経済学など必要なものはすべて修めていた。
だが、ここからが勝負であることも、ルーファウスにはよくわかっていた。
勉強ができても、実社会でそれが通用するかどうか、というのはまた別問題だ。
とくに、ルーファウスの場合は、いずれ経営者たることを求められている。
自分が、神羅という巨大な組織を運営していく能力を持っているのか、持っていないのか、それを試される時が来たのだ。
もちろん、恐怖もある。
だがそれ以上に、自分の能力を試してやる、という高揚感の方が大きかった。
不意に、室内インターフォンが鳴る。
寝室の姿見の前から離れ、となりの書斎に入ると、デスクの上のタッチパネルに触れる。
「なんだ」
『お迎えが参りました』
スピーカーから執事の声が流れた。
「わかった。今、行く」
もう一度、寝室に戻り、姿見に自分の姿を映し、点検する。
ルーファウスは大きくうなずくと、自室を出た。
部屋を出て長い廊下をとおり、やがて吹き抜けのエントランスに出る。
神羅の邸宅は横に長い造りをしており、中央にエントランスと吹き抜け、その両側に、レトロな雰囲気をかもし出す、カーブを描いた階段が左右に伸び、二階にあがるようになっていた。
その片側の階段の手すりに手をかけ、エントランスを見下ろす。
いつものように、執事がエントランスに立ち、ルーファウスを待っているのが見える。
が、ふと、ルーファウスは眉を寄せた。
執事の横に、黒服の男が立っているのが見える。
SPか?とも思うものの、見たことのない男だ。
長めの黒髪を後ろで一つに束ねた、細身の男だった。
(……タークスか)
ルーファウスは心の中でひそかに呟いた。
タークス、というのは通称で、本来は総務部調査課という。
その地味な部署名とは裏腹に、実際には、ソルジャーと並んで神羅カンパニーを支える重要な役目を担っている部署だった。
その名のとおり、さまざまな案件の調査が、その主な職務といわれているが、「調査」では終わらないことは、カンパニーの内外の誰もが知るところだった。
そんなタークスの仕事のひとつが、カンパニーの要人警護である。
これまで、ルーファウスの警護には神羅家のSPがついており、タークスとはほとんど接点がなかったが、父親の護衛につくタークスは何度も見ていたし、主任であるヴェルドとは、何度か話したこともあった。
タークスが自分の護衛に迎えに来たことで、改めて自分の立ち位置が変わったことを認識する。
つまり、これからは、神羅家の跡取り息子、ではない。
神羅カンパニーの副社長、という肩書きを持った公の立場となったわけだった。
不意に、タークスがこちらを振り仰いだ。
細面の顔がルーファウスを見上げる。
(……あ)
階段を一段降りた足が、とまる。
きっちりと黒服が頭を下げた。
「お久しぶりです、ルーファウス様」
その声と、かすかな微笑み、そして、ルーファウスを見つめた黒い瞳。
一瞬で、8年の歳月が巻き戻った。
「……ツォン、か」
「はい。お迎えにまいりました」
ツォンが、いつ神羅家に来たのか、それは知らない。
だが、物心が付いた頃には、もうすでに当たり前のように近くにいた。
一番最初の記憶は、手をつなぎ、神羅家の広大な庭を歩いている記憶だ。
おそらく、自分は4歳か5歳。
ツォンは、14,5歳だったはずだ。
つないだ手があたたかくて、嬉しくて、家に帰りたくなかったのを覚えている。
そして、それは一度きりの記憶ではない。
なぜなら、時には自分は泣いていたし、時には、楽しそうに笑っているからだ。
ツォンは、どんな事情があったのかわからないが、神羅家に寝泊りしていた。
ルーファウスは小さな頃から何人もの家庭教師について勉強をしていたが、その合間の時間はほとんどツォンと一緒にいた。
おそらく、幼い頃に母を亡くし、兄弟もいなかったルーファウスの話し相手という立場だったのだろう。
そして最後の記憶は、ルーファウスが7歳の時だ。
エントランスに、少し大きめな、それでも家を出て行くにしては小さすぎる荷物を手にしたツォンが立っている。
そのツォンにしがみつき、ルーファウスは泣いた。
嫌だ、行くな、と何度も繰り返した。
困ったような顔をしながらも、ツォンは、床に膝をつき、ルーファウスと目を合わせた。
泣き止まないルーファウスの背に、そっと温かい両手がまわった。
「卒業すれば、ずっとおそばにいられますから」
その言葉に、ルーファウスは泣きぬれた目をあげた。
「ずっと?」
「はい」
ツォンが大きくうなずく。
「大人になっても?」
小さな微笑が口元に浮かぶ。
ツォンのその微笑が、ルーファウスは好きだった。
控えめな、ほんのわずかに口元が動くだけの微笑み。
だが、少し細められた目もとがとても優しいのだ。
「大人になっても、ずっと」
「……本当に?」
「お約束します」
はっきりと言われた言葉は、ルーファウスの心の奥に、しっかりと染みとおった。
「……待ってる」
「はい」
そして、ツォンはルーファウスに背を向け、神羅家の大きなドアを出て行った。
ツォンは18歳で神羅軍事学校に入学したのだった。
神羅軍事学校は全寮制で、たとえミッドガルに自宅があったとしても通うことはできないのだ、ということはあとから執事に聞いて知った。
もっとも、長期休暇の際などは、家に帰ることはできるはずだった。
ルーファウスは、長期休暇のたびに、ツォンを待った。
ひたすら待ち、待ちくたびれ……だが、ツォンは一度も戻ることはなかった。
もっとも、神羅の邸宅は、ツォンの家というわけではない。
あくまでも使用人としての立場で、神羅家にいたわけで、長期休暇があろうとも帰ってこれるものではなかったのかもしれなかった。
そしてあれから、8年。
あの日、ツォンが出て行ってから一度も会うこともなく、8年の歳月が流れた。
車の後部座席に身をあずけ、窓の外に目をやるふりをして、そっと横に座る姿に目をやる。
切れ長の目が、鋭さを帯びて、フロントガラスの外に向けられている。
目つきの鋭さ、スーツの上からもわかる敏捷そうな身体から、一目で戦いのすぐ近くにいる人間だとわかる。
記憶に残るツォンの姿と今のツォンの姿が、重ならない。
髪型も違う、服装も違う。
だがそれ以上に、身にまとう雰囲気が変わった。
どこがどう、というのではない。
昔はもっと、優しげな雰囲気だったはずだ。
ツォンがいつも本を持っていたのを思い出す。
何を読んでいるのか、と聞けば、気軽にその本を見せてくれたが、どれも文字がびっしりと書かれた専門書のような分厚い本だった。
だが、今のツォンが本を持つ姿というのは想像できない。
それよりも、スーツの内側に隠し持っているのであろう武器を持つ姿の方がしっくりくる。
8年、というのはそれほどに長い年月なのだろう。
ふと、ツォンがルーファウスに視線を向けた。
あわてて視線をそらそうとしたが、もう間に合わない。
はっきりと目が合い、問いかけるようなまなざしを投げられ、ルーファウスは思わずたじろぐ。
まっすぐな、なんの曇りもない視線に、胸の奥にピリリと痛みが走った。
だが、そのことに、さらに苛立つ。
今さら、なにに傷つくことがある。
ルーファウスは、つと、視線をそらせた。
「……おまえは軍人になったのだとばかり思っていた」
視線を前に向けたまま言う。
さりげない声が出たことに、ひそかに安堵する。
「なぜ、タークスになったんだ」
ちらりとかたわらに視線を流す。
ツォンがなにかを言いかけ、だが、ふっと口を閉ざした。
迷うような一瞬の間。
そして出てきた声は、記憶にあるものと同じ、穏やかで静かな声だった。
「……自分には、タークスの方が合っているかと思いましたので」
「そうか」
ルーファウスは、軽くうなずいて、視線を前に戻した。
だが、ツォンの視線は、外れなかった。
見られていることに、また、かすかな苛立ちを覚える。
限界だ、と思った時、静かな声が言った。
「ご立派になられましたね。背も、だいぶ伸びられた」
穏やかな、懐かしさをにじませた声に、また胸の奥に痛みが走った。
(しっかりしろ。ばかばかしい感情に振り回されるな)
いつものように、自分を追い立てる。
冷静になれ。
感情など捨てろ。
ルーファウス神羅にふさわしい態度を取れ。
次第に心が落ち着く。
ルーファウスはかすかな吐息をつき、ツォンに視線を向けると、片頬に小さな笑みを浮かべて見せた。
「まだおまえには追いつかないけどな。おまえ、身長いくつだ」
ツォンの目が、一瞬、とまどったように開かれ、ルーファウスの顔に向けられた。
(変わっただろう。当たり前だ。もう7歳の子供ではない)
根拠のない優越感に、気分が高揚する。
(おまえが変わったのと同じように、俺も変わったんだ)
だが、ツォンの口から出たのは、相変わらず穏やかで静かな声だった。
「183センチです」
「追いつくのは無理か」
「わかりませんよ。まだ、ルーファウス様は成長期ですから」
たわいない会話。
傍から見れば、親しさを感じさせるような会話だろう。
だが、そこには、当の二人にしかわからない距離感があった。
ルーファウスが、明確にその距離を取り、ツォンは敏感にそれを感じ取り、従った。
これが、これからの二人の新しい距離になるだろう。
これでいい、と思う。
神羅カンパニー副社長とその一部下にふさわしい距離感だ。
ルーファウスは、視線を前方に流す。
ツォンも、もう、何も言わなかった。
「本社ビルにつきました」
運転手の声に我に返る。
ツォンが敏捷に外に出、車の背後を回り、ルーファウスの側のドアを開けた。
その頬が引き締まり、油断のない視線があたりに向けられる。
初めてみるツォンの表情は、この8年の間にツォンが身につけたものだ。
「副社長、どうぞ」
声もまた、先ほどまでのかすかな親しさを拭い去った、完璧なタークスのものになっている。
ルーファウスは軽くうなずき、車から踏み出す。
目の前に、神羅本社ビルがそびえたっていた。
むろん、今までも何度も来たことがある。
だが、これまでは、ここは、父親の会社にすぎなかった。
今日からは、ここは、自分の会社になる。
ルーファウスは大きく息を吸った。
少し後ろに、ツォンの存在を感じる。
(余計なことを考えるな。ルーファウス神羅にふさわしい態度を)
心の中でつぶやき、正面エントランスに向かい、一歩踏み出した。
2014年9月25日